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007.慈悲や孤独やそういうの

 舞踏会二日目の朝。

 招待客用のゲストハウスで目を覚ましたフィロメナは、瞼を開いても、もう一度閉じても、真っ暗な視界に一切の変化がないことにやはり心が沈んだ。朝目覚めたときにこの行為を何千回と繰り返したけれど、フィロメナの目は相変わらず光を宿さない。

 同伴してくれているベッサリオン家の侍女が「フィロメナ様、おはようございます」と明るく挨拶をしたので、フィロメナも気を取り直し笑顔で「おはよう」と応えた。

 ベッドに腰かけ、スリッパを履こうとしていたフィロメナの足元を見て侍女は驚いた声を出す。

 

「まあ、フィロメナ様。おみ足が腫れていらっしゃいますわ。なんておいたわしい。すぐに薬をおつけいたします。お待ちくださいませね」

 

 おそらく、昨日ダンスをしていたときに何度か踏みつけられた箇所であろう。もちろん、わざとではないとはわかっている。彼はあまりダンスに慣れていなかったようだし、盲目のフィロメナへのリードはきっと難しかったはずだ。彼を責める気はなかった。

 侍女はバタバタと部屋を行ったり来たりして、救急箱を持ち出し、フィロメナの足に薬を塗布してくれる。仕上げに包帯を巻きながら思うところがあったのか、侍女は「フィロメナ様……」と遠慮がちに声をかけてくる。

 

「……イグナティオス様は、変わってしまわれました。昔は、フィロメナ様にこんな仕打ちをなさいませんでした。決してフィロメナ様をぞんざいに扱うことなんてありませんでしたのに」

「………」

 

 侍女がぽつりとそう言うと、フィロメナはそれを押し黙って聞いている。ややあって、フィロメナは「ごめんなさい……私のことを思ってくれているのはわかるのだけど……」と沈痛な面持ちで重い口を開いた。


「申し訳ございません。さしでがましい真似をいたしました」

「いいえ、心配してくれてありがとう。その気持ちがとても嬉しいし、ありがたいわ」


 お礼を言って微笑み、侍女の手を借りてベッドから立ち上がる。用意された朝食兼昼食を食べてから、侍女の提案もあって、フィロメナは気分転換にゲストハウス裏の庭園でのんびりすることにした。侍女が庭園まで手を引いてくれて、適当なガーデンベンチに腰かける。一時間ほどしたらお迎えにあがります、困ったことがあればあらかじめお願いしておくので近くの衛士にお声がけください、と侍女は言い残して部屋に戻ったので、フィロメナはのどかな陽ざしと風を感じながら静かにそこに座っていた。


 ──もし目が見えたら、こんな気持ちのいい風を感じながら読書ができるのに。きっと素敵な時間になるだろうな。


 フィロメナはそう思ってから、自分でもその考えを振り払うように静かに首を横に振る。しばらくそこで鳥のさえずりを聞きながら心地よい風を感じていると、石畳を誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。一瞬、イグナティオスかと思ったフィロメナだったが、聞こえてくる足音の歩幅や歩き方から、イグナティオスのものではないことがすぐにわかる。


「こんにちは、フィロメナ嬢。アスヴァル・バルジミールです。隣に座っても?」


 静かな、落ち着いた深みのある声の主──アスヴァルは、フィロメナに問うた。フィロメナは再びアスヴァルに会えた喜びに顔を綻ばせ、「バルジミール様、こんにちは。こちらにどうぞ」と微笑んで少し体をベンチの端に寄せる。アスヴァルはフィロメナの隣に腰かけながら「心地いい陽ざしだね」と声をかけた。


「はい、今日はお天気がいいようで何よりです。あと──バルジミール様、お声がけくださるときに、お名前をおっしゃってくださりありがとうございます。とても助かります」


 フィロメナに話しかける人々は、盲目のフィロメナを気遣いながらも、つい無意識に目の見える者と同じようにフィロメナにも接しがちだ。目の見えないフィロメナは声やその人の香水、足音などの視覚以外の情報で個人を判断するしかないが、声質が似ている人や、流行りの香水を使っている人、そもそも人が大勢いるところでは足音がわからない──などの不安要素がひとつでもあると、個人を判別するのに多大な労力を要する。数回会ったことのある人物は、フィロメナが当たり前のように自分を認識してくれていると思い込み、突然会話を始めるので、出会いがしらに名乗られないことはフィロメナにとって大いに負担だったのだ。


「思いやりのない人間ばかりいる場で、次から次へと人を紹介される夜会はさぞ大変だろう」


 そんな労りの言葉をかけられた瞬間、フィロメナの中で積もり積もった何かがぷつりと切れた気がした。今まで、誰もそんなこと言ってくれなかった。誰も、気遣ってくれなかった。気遣われて当たり前だとは到底思わないけれど、アスヴァルがそれに気付いてくれたことが嬉しかったのだ……。その途端、フィロメナの目からぽろりと涙がこぼれる。


「あ、あ……ごめんなさい……」


 だが、泣いてしまったことを自覚した瞬間、次から次へと涙が溢れだしてしまって止まらなくなってしまった。フィロメナは慌ててハンカチを取り出し目に押し当てるが、レースのハンカチではフィロメナの涙を拭いきれない。


「申し訳ございません、はしたない姿を……」


 小さくしゃくりあげながら、フィロメナはアスヴァルに詫びた。アスヴァルは「気にする必要はない」とそれに応える。イグナティオスにこんなところを見られたら、また叱られてしまうだろうなと思ったらまた涙がじんわり滲んだが、アスヴァルは何も言わずただそこにいてくれた。


 ***


「そういえば、今日は香水をおつけになっておられないのですね」


 ようやく少し落ち着いたフィロメナは、話題を変えようとアスヴァルに声をかける。アスヴァルは小さく笑ってから、「あれは夜会のときにだけ、いつも友人の奥方たちに吹きかけられる」と言ったので、フィロメナも「まあ」と笑う。


「友人はぼくと同じ辺境伯で、クローハイト・アビジアーナ、ヴェルスル・ヴォルークという。二人の奥方はきみと年ごろも近いし、きっと良い話し相手になるだろう。今度、きみが差し障りないなら紹介をしよう」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。とても光栄です。ぜひお願いいたします」


 きっと、バルジミール様のご友人の奥様なら素敵な方々なのでしょうね、とフィロメナは微笑んだ。アスヴァルは何かとフィロメナを気遣ってくれていることを感じるし、その優しさが単純に嬉しかったので、こうして今後も話すきっかけがあると思うとフィロメナは心があたたかくなるのを感じる。


「バルジミール様も、ご友人のお二人も辺境伯でいらっしゃるということは魔術をお使いになられるのですね。いつも国境をお守りくださりありがとうございます」


 この世界では、魔力はすべての生き物に宿るが、誰もが魔術を使えるわけではない。

 魔術師の数が限られているのには、いくつかの理由がある。


 まず、生まれ持った魔力量には個人差があり、一定以上の力を持たなければ魔術は発現しない。次に、魔術の力は強い感情や渇望に呼応する。優しさや強さ、怒り、憎しみ──何かしらの強烈な想いを抱く者だけが、その力を得ることができる。そして、魔力量や魔術の資質は決して遺伝しない。ゆえに「魔術師の家系」というものは存在しないのだ。


 このように限られた者しか魔術を扱えないにもかかわらず、社会は魔術師を統治の中心には据えない。

 魔術に依存した国家運営は、やがて権力の腐敗を招き、人々の思考力や問題解決能力を衰えさせる危険があるからだ。そのため、この国では魔術によらぬ方法で政を為すべし、という原則が貫かれている。魔術に頼らずに統治することこそが、人々の主体性を育み、社会の均衡を保つ鍵とされているのだ。


 しかし、ひとつだけ例外がある。


 辺境伯──それは、この国で唯一、魔術を行使することを義務づけられた貴族の爵位である。

 辺境伯は国境を守り、魔物を退け、外敵の侵攻を防ぐ「盾」としての役割を担う。必要とあらば、貴族だけでなく、平民の中からもその資質を持つ者が選ばれる。そして彼らには、己の力を国と民のためだけに振るうことを厳格に誓約させられる。


 それは、強大な力が王家への反逆や圧政の道具とならぬよう、あらかじめ制約を課すための措置だった。

 この国において、魔術は特権ではなく、使命なのだ。


「バルジミール様はどのような魔術を……?」


 辺境伯とこのように話す機会など稀有なことなので、フィロメナは純粋な好奇心から問うた。アスヴァルはそんなフィロメナに「……防御の術を使う」と、少々気のない返事をした。


「まあ、国境をお守りくださるのにうってつけの術ですね。バルジミール様のような方が国境をお守りくださるのなら、我々国民も安心です」


 フィロメナは胸の前で祈るように両手を組み、アスヴァルに最大限の謝意を示す。だが、アスヴァルは少し自嘲するような口ぶりで「ぼくは思春期に強烈な人間不信に陥ったせいで、他者を拒む力を希った。その結果、拒絶的な防御魔術が発現したんだ」と言った。それを聞いたフィロメナは、先ほどの気のない返事はそのせいだったのかと瞬時に悟る。途端に自分の思いあがった発言が恥ずかしくなり、「利いた風なことを申しまして、大変申し訳ございません」と慌てて謝罪するが、アスヴァルは「きみを責めているわけじゃない、気にしないでくれ」と優しく言った。


「でも、私……」

「うん?」

「私、バルジミール様に救われています。いつも優しく接してくださり、お気遣いしてくださって……本当にありがとうございます。私は、バルジミール様のおかげで生きる勇気がわいています」


 あまりに唐突なセリフだったかな、と思いながらも、フィロメナは一生懸命自分の胸のうちを告白した。事実、ここ最近のイグナティオスとルイーズの態度で、フィロメナの心は摩耗しつつあったので、アスヴァルの静かな優しい気遣いは救いとなっていたのである。


「それならよかった。……フィロメナ嬢、これからぼくのことはアスヴァルと呼ぶといい」

「アスヴァル様」


 フィロメナは嬉しくなって、そう繰り返す。冷静に考えると、子爵家出身のフィロメナが辺境伯であるアスヴァルを名で呼ぶことは周囲には無礼だと捉えられるだろうが、フィロメナは自分の存在をアスヴァルに赦されたような──受けいれてもらったような気がして、つい喜びのままにそう呼んでしまったのである。


「それでいい」


 ふ、とアスヴァルは笑いながら言った。

 フィロメナも少し逡巡したのち、「私のことも、フィロメナとお呼びいただけますか?」とおずおずと言った。アスヴァルはしばらく黙考していたが、「ああ、わかった。フィロメナ」と言ってくれたので、フィロメナはまたしても気持ちが晴れやかになるのを感じた。


 その後も、アスヴァルとフィロメナはたくさんの話をした。フィロメナの他愛ない話をアスヴァルは静かに聞いてくれたし、アスヴァルも辺境の地の様子を言葉少なながらも色々教えてくれた。フィロメナにとって、アスヴァルの話はとても魅力的ですてきなものだった。

 時間も忘れてアスヴァルとの会話に夢中になっていた頃、アスヴァルの「きみの迎えがきたようだよ」という声で我に返る。


「フィロメナ様、お迎えにあがりました」

「まあ、もうそんなに時間が経っていたのね。来てくれてありがとう」

「フィロメナ、ではまた」

「はい、またお会いできるのを楽しみにしています」


 また、という言葉がこんなにも嬉しいだなんて、フィロメナは最近忘れていた。


 ──ではまた。


 そのアスヴァルの言葉が何度もフィロメナの耳の奥で反芻されている。


「フィロメナ様、とても良い気分転換になられたようですね」


 道すがら、どこか嬉しそうな声で侍女がそう言った。


「ええ、おかげさまで気分が晴れたわ」


 そう答えたフィロメナはずいぶんおだやかな気持ちで、頬を優しく撫でる風を感じながら侍女とともにゲストハウスへ戻ったのだった。


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