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005.運命に偽りあり

 その日──イグナティオスは舞踏会の開始前から、すでに別の来賓と会話を交わしていた。今回の舞踏会はいつも以上に多くの有力者が集うため、自分を売り込むのに絶好の機会である。自分がこれから貴族社会で登り詰めていくために、少しでも有益な人間関係を築くことが重要だったからだ。

 だからこそ、フィロメナのもとへ迎えに行く時間はなかったし、そもそも行くつもりもなかった。彼女はおとなしく会場に来て、必要な場面だけで婚約者として自分のそばにいればよかった。たったそれだけのことだ。


 それなのに──…


「フィロメナ!」


 彼女の名を呼んだのは、自分でもほぼ無意識であった。

 人混みをかき分けた先に見た光景は、イグナティオスにとって思いも寄らないものだった。フィロメナは、バルジミール辺境伯の腕に導かれながら、まるで別人のような面持ちでそこに立っている。フィロメナは花のつぼみが綻んだような、無垢で安心しきった表情でバルジミール辺境伯に微笑んでいた。


 いつも自分の前では控えめで、萎縮していた彼女が、あの男の前では──…


 イグナティオスの胸に、苛立ちとも焦燥ともつかない感情が広がる。どうして勝手に──よりによって、バルジミール辺境伯とダンスなんて。イグナティオスの心の中にくすぶっていた劣等感が再び大きく肥大するのを感じた。


 ──イグナティオスはオンティベロス男爵家の嫡男として生まれた。

 裕福でもなく、由緒正しい家柄でもなかったもののイグナティオスの父であるオンティベロス男爵は野心家で、いつだって成り上がる機会を伺っていた。そんな折、由緒正しいベッサリオン子爵家に女の子が誕生したとの報を受け、オンティベロス男爵は千載一遇のチャンスとばかりに熱心に子どもたちの婚姻についての話をベッサリオン子爵に持ち掛けた。

 温厚で、さしたる野心も持っていないベッサリオン子爵はオンティベロス男爵の熱意に負け、まあ悪い話でもないだろうと、ついにその話を承諾した。

 オンティベロス男爵は諸手をあげて大喜びし、いつか陞爵の夢も叶うはずだと未来への展望を幼い息子に託したのであった。


 そんな野心家の父のもとでもイグナティオスはまっすぐな少年に育った。6歳の頃、婚約者のフィロメナが病により盲目となってしまってからも、フィロメナを慈しむ心は変わらず、イグナティオスは盲目となってしまった可哀想な彼女を支えながら自らも貴族の嫡男である責務を全うすべく努力を重ねた。


 そんな二人が15歳になった頃、フィロメナのデビュタントに合わせてイグナティオスもパーティーに参加することとなった。高貴な人々、豪華な装飾品、その裏で行われる駆け引き。盲目のフィロメナを気遣い、エスコートしながらもイグナティオスはその華やかな雰囲気に目がくらんだ。

 そんな華やかな貴族たちの中でも、イグナティオスとフィロメナの姿はひときわ目を引いていた。イグナティオスは爽やかな好青年であり、人好きのする優しげな顔立ちは誰もが認めるところだったし、彼の隣に控えるフィロメナは、どこか憂いを含んだ美しさを持ちながらも聡明な顔立ちをしていて、その薄い亜麻色の髪は光を受けて柔らかな輝きを放っていた。彼女の口元には常に柔和な微笑みが浮かんでいたものの、その瞳は何かを映すことなく、どこか虚ろだ。彼女が盲目であることを知る人はそう多くはなかったが、その事実を知るものにとっては彼女をより「特別な存在」へと変貌させるのであった。


「なんて美しい二人なのかしら」

「あの令嬢は盲目なのだとか。あの婚約者の方を見て!盲目の令嬢を、まるで騎士のようにエスコートをしているわ。なんて素敵な方」


 人々の賛辞の囁きが漏れ聞こえる中、イグナティオスは心が充足するのを感じる。イグナティオスはフィロメナの手を優しく引き寄せ、その耳元で囁いた。


「フィロメナ、きみがいてくれるからこそ、ぼくは正しくあれる。皆に誇れる存在でいられるんだ」


 その言葉に、フィロメナも小さく頷いた。彼が自分を守り、導いてくれるという安心感に包まれ、フィロメナもイグナティオスの存在を大切に思っていた。


「イグナティオス様……私も、あなたのそばにいられることが幸せです」


 しかし、イグナティオスは、内心それとは異なる感情が湧き上がってきていることにも気付いていた。イグナティオスはフィロメナの柔らかな手の感触を感じながらも、その重みはイグナティオスの心にわずかな影を落とす。


 ──彼女の存在は、ぼくに一体何をもたらしている?


 イグナティオスの胸中には、誰にも打ち明けられない疑問と不満が芽生え始めていた。

 フィロメナの弱さは、「慈悲深い婚約者」としてイグナティオスの評判を押し上げる一方で、自らの自由を奪い、未来への足枷となりつつあることを感じていた。

 もちろん、裕福で由緒正しいベッサリオン子爵家令嬢であるフィロメナとの婚姻は、貧しい成り上がりのオンティベロス男爵家の嫡男であるイグナティオスにとってはメリットしかない。フィロメナ自身も──目が見えないというハンディキャップはあるとはいえ──美しく、優しく、そして賢い女性だ。文句のつけようもない。しかし、家風なのか彼女の性質なのか、彼女は特に夫となるイグナティオスの立身出世に対する執着もなかったので、イグナティオスからするとつまらない女であることは確かだった。

 それに、将来二人が結婚したとして、目の不自由な彼女が世間一般の貴族の奥方のように家を取りしきることができるのだろうか?ぼくは一生、自分より身分の高い妻への劣等感に苛まれながら、彼女の介添えをする人生を送るのか?

 イグナティオスの心にわずかに落ちた闇は、静かに──しかし確実に、じくじくと彼の心蝕んでいくのであった。


 ***


 イグナティオスがフィロメナへの仄暗い感情に気付き始めてから2年ほど経ったある晩、イグナティオスは友人に誘われ、ある貴族の邸宅で開催された社交パーティーに訪れていた。華やかなシャンデリアのもとで、貴族たちが優雅に談笑し、煌びやかなドレスが揺れるその場は、心地よい音楽と高揚感で満ちていた。

 イグナティオスより家柄の良い友人たちは次々と来賓の人々に声をかけられ、ひみつの話をするために別室に消えていく。イグナティオスはまた、格差を見せつけられてみじめな気持ちに苛まれながらも笑顔は絶やさず、自分を売り込むべくその場にいる貴族たちに話しかける努力をした。


 そんな中、一人の貴族がイグナティオスに目を留めた。その貴族は、やり手と名高いディディエ伯爵だったので、イグナティオスは内心ひどく高揚する。ディディエ伯爵に気に入られたなら、あのつまらないフィロメナと結婚するよりもさらに多くの素敵なものが得られるかもしれない。降って沸いたような幸運を逃すまいと、イグナティオスは必死になってディディエ伯爵に自らを売り込んだ。それが功を奏したのか、ディディエ伯爵は近くで談笑していた鮮やかな赤のドレスを着た令嬢を呼んで、イグナティオスに「娘だ」と紹介した。


「イグナティオス様、はじめまして。ルイーズとお呼びください」


 彼女は軽く会釈しながら、薔薇色の唇に弧を描かせた。みずみずしいその笑顔に、イグナティオスは胸が高鳴るのを感じる。眩しいほどの美貌を持つルイーズは、その可憐な顔立ちや男心をくすぐる甘い言動と、その愛らしさに裏打ちされた自信で周囲の注目を集めていた。


「ルイーズ様、あなたのような美しい方にお会いできて光栄です」


 自然と出た言葉に、イグナティオス自身も驚く。華やかなルイーズと一緒にいると、自分が輝いている感覚に陥る。素朴なフィロメナの傍らにいるときとは違う。自らがディディエ伯爵に売り込んだおかげで、このチャンスが舞い込んできたのだ──自分の力で道を切り開いているという実感が、きっとそうさせている。


「イグナティオス様、父も感心していましたわ。まだお若いのに父を感心させるなんて、きっと並々ならぬ努力をされていらっしゃるのでしょうね」

「もったいないお言葉、ありがとうございます。でも、ぼくはしがない男ですよ」

「そんなことないわ。とっても魅力的」


 会話を重ねるうちに、ルイーズの甘い言葉はイグナティオスに新たな欲望をかき立てさせた。ルイーズは何度もイグナティオスに好意的な眼差しを向けるので、ふと、イグナティオスの脳裏に一つの考えが過ぎる。


 ──もしルイーズと結ばれたなら、ぼくの未来はどれほど輝かしいものになるだろうか。


 それなのに、フィロメナだけが枷となる。その夜、イグナティオスは初めて、フィロメナの存在が彼の未来にとっての「障害」であると明確に認識したのであった。


 ***


 イグナティオスはフィロメナと過ごす時間を減らし、その分ルイーズとの逢瀬を重ねていた。ルイーズの存在は、イグナティオスにとってまばゆいばかりの新しい未来への道標となりつつあった。ルイーズの愛らしい笑顔はイグナティオスの心を奮起させ、立身出世の決意をさらに強固にさせていく。彼女の家柄、後ろ盾、健康──自信にあふれ、時には強引なほどの彼女の性格。その全てがフィロメナにはないものであり、ルイーズの存在はイグナティオスが手に入れるべき理想の未来への足掛かりに感じた。


 ディディエ家の中庭の東屋の下で、イグナティオスとルイーズは手を取り合いながらガーデンベンチに腰掛けていた。ルイーズは大きな瞳で隣に座るイグナティオスをまっすぐ見つめながら、甘えた声を出した。


「フィロメナ様のような可哀想な女性に優しくしてあげるのは、人として当然のこととはいえ……十数年もの間、その責を全うされるだなんてなかなか出来ることではないですわ、イグナティオス様」

「わかってくれますか、ルイーズ様」

「ええ、私には全部わかっています。イグナティオス様がずっと頑張ってらっしゃることも、こんな立場で終わるべき方じゃないってことも。……実は今、お父様は第二王子様の側近を推薦する立場にいらっしゃるの。イグナティオス様が、もしその気なら……悪いようにはしませんわ」


 ルイーズは華やかにカールした長いまつ毛を伏せながらも、横目でちらりとイグナティオスを見た。

 イグナティオスは思わずごくりと喉を鳴らす。

 ぼくが、第二王子の側近候補に?

 もし、本当に第二王子の側近になれたなら、この上ない出世だ。名誉も、立場も、すべて手に入る。ぼくを馬鹿にしてきたやつらを見返すことができる。


「そのかわり……」


 ルイーズは取り合っていた手を一度ほどき、誘うようにイグナティオスの指に自らの細い指を絡ませた。爪先までぬかりなく繊細で美しい装飾が施され、彼女の美へのこだわりが垣間見える。ルイーズは少女とは思えぬ艶美な笑みを浮かべ、イグナティオスを熱っぽく見つめた。今、イグナティオスが人生の岐路になっていることは明白であった。


「私、優秀な人が好きなの。だって私は今の立場を維持するのにたくさんの努力をしているから。誰よりも美しく、愛されるように、可愛くなる努力をしているから。努力しない人は嫌い。そんな私の夫になる人は並の男じゃ嫌なの。王子様の側近になれるくらい、優秀で、特別な人じゃないと嫌ですわ……」


 ルイーズの宝石のように煌めく瞳は、今、まっすぐにイグナティオスだけを見つめている。

 イグナティオスは、魔性を思わせるその潤んだ大きな瞳に思わず息を呑んだ。


 フィロメナと歩む安寧の道と、ルイーズと歩む栄光の道。

 どちらを選ぶかなんて、もうとっくに決まっていた。


「ルイーズ様、もし、そのときがきたら……ぼくの妻となってくださいますか?」


 ルイーズは満足げに微笑んで、「ええ、ええ。もちろんですわ」と無邪気に笑った。


 ***


 その日から、イグナティオスからフィロメナへの愛情は消え失せてしまった。長く一緒に過ごした情はあるが、今となっては彼女の存在は疎ましく、フィロメナの控えめな性格ですらイグナティオスの苛立ちの原因となる。フィロメナの、達観したかのような態度が嫌だった。自分の心の弱さを見透かしてくるような、その態度が。


 一度心に落ちた闇は広がる一方だった。


 今まで、フィロメナにどうやって優しく接していたかわからなくなるくらい、イグナティオスは変わってしまった。


 宮廷舞踏会で、わざとルイーズとフィロメナを引き合わせ、フィロメナの目が見えないことを良いことに二人で目配せをしながら何も知らないフィロメナを嘲った。ルイーズはわざと手を離さず、困惑するフィロメナを見て息を殺して笑う。


「フィロメナ様、幼い頃に視力をなくしたとか……なんてお可哀想な方なの。イグナティオス様からお話はよく聞いているわ。年ごろも近いことですし、どうか仲良くしてくださいませね」


 ルイーズはとびきりの媚びた声色で、わざとらしくフィロメナを憐れんでみせたが、フィロメナはルイーズの嫌味にも顔色一つ変えず「はい、私こそ。よろしくお願いいたします、ルイーズ様」と言った。

 底抜けのお人よしなのか、嫌味にも気付かない愚か者のどちらかしら、とルイーズはイグナティオスに耳打ちする。そして、周囲から見えないよう小さくフィロメナを馬鹿にするような下品なジェスチャーをした。それを見たイグナティオスはつい噴き出してしまい、耐えきれず二人でクスクス笑う。フィロメナはさすがに一瞬だけ不思議そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直してイグナティオスの腕を取ろうとしてきたので、イグナティオスはわざと自らの手を引っ込めた。

 いつも澄ました顔をしているから、少しくらい恥をかけばいい──それくらい、軽く考えていた。


 案の定、フィロメナはバランスを崩し転倒しそうになったのだが、近くにいた人物が彼女を抱き留めた。余計なことをするんじゃない、と思いながら忌々しげにその人物の顔を見たイグナティオスとルイーズの顔から一気に血の気が引いた。

 まるで猛禽類のように鋭い目元は、男性とは思えないほど豊かなまつ毛で縁どられており、その奥には冬の夜空を思わせるような瞳が煌めいている。この国では珍しい烏の濡れ羽色の艶やかな髪。冷ややかな表情がかえって彼の美しさを際立たせている。


 こんな類まれな恵まれた容姿をしているのはたった一人。

 バルジミール辺境伯、その人だった。


 バルジミールは政治面でも有能で、このヴォワティール王国の王太子からも信任厚く、今まさに新進気鋭の辺境伯の一人だった。そんな人物に、嫌なところを見られてしまった。


 ルイーズも同じように思ったのか、一緒にいるところを見られたくなかったのか──騒ぎに乗じていつの間にか姿を消している。イグナティオスもバルジミール辺境伯の気分を害さないよう、無礼を働いたフィロメナを叱責しつつも、バルジミールに丁寧に詫びた。しかし、バルジミールはフィロメナに対してはどうやら全く無礼だと思っていないどころか、「(めし)いた婚約者なら、あなたがもっと丁重にエスコートすべきだろう」──と、イグナティオスにのみ苦言を呈したのだった。

 イグナティオスは自らの未熟さを指摘され、あまりの恥ずかしさに、自分の顔がかっと熱くなるのを感じる。


 こんな思いをするのも、すべてフィロメナのせいだ。


 フィロメナはバルジミールに優しい言葉をかけられて、呑気ににこにこしている。それも本当に気にくわない。ぼくは、おまえのせいで赤恥だというのに。

 バルジミールがその場を後にしてから、フィロメナに八つ当たりをしたためか──フィロメナは心なしかしゅんとしていたが、きみが悪いんだから八つ当たりされて当然なんだよ、とイグナティオスは心の中でそう毒づいた。


 ***


 しばらくの間、イグナティオスはフィロメナに会いに行く気が起きなかった。ただでさえ彼女に対する愛情をなくしてしまっていたのに、よりによって宮廷舞踏会で恥をかかされた怒りがまだおさまっていなかったのである。

 イグナティオスは広いベッドに寝転がり、ぼんやりと天井の化粧漆喰(けしょうしっくい)を目でなぞりながらも、ふとした瞬間にフィロメナのせいで冷ややかな目をしたバルジミールに苦言を呈されたことを思い出し、忌々し気にちっと舌を鳴らした。


「まだ怒っているの?」


 ベッドからルイーズが身体を起こして、クスクス笑いながらからかうようにイグナティオスの鼻先をちょん、と指でつついた。普段、きちんと巻かれているピンクブロンドの美しい髪が今や乱れて、先ほどまでイグナティオスが貪っていた白い素肌に流れており、それがなんとも煽情的でイグナティオスは喉を鳴らす。


「怒っていないよ」


 イグナティオスはそう嘘をつき、にっこりと笑う。そんなイグナティオスに「うそつき」といたずらっぽく笑いながら、ルイーズはイグナティオスの首に手を回してイグナティオスの頬に口づけをする。情熱的な恋人のように振る舞う可愛いルイーズに応えるように、イグナティオスもルイーズの頭を引き寄せ、その唇にキスをした。しばらくの間、舌を絡ませあって深いキスを楽しんだのちに、ルイーズはイグナティオスの唇に指を寄せながら、うっとりとした目のまま囁いた。


「目の見えない子ともこんなことをした?」

「してないよ、あれはお堅いんだ」

「こんなに気持ちよくて、楽しいのに可哀想」


 うふふ、と楽しげに声を立てて笑ってから、ルイーズは「あ、そうだわ」と言った。


「ねえ、今度一緒にあの子の家に行ってもいい?私、自分が世界で一番不幸だけど腐らずいい子にしています、って顔をしている人間が大嫌いなの。あの子ったら、私が意地悪を言っても、一言も言い返しやしない。卑屈でイライラするわ。なんだか無性にいじめてやりたいの」

「あはは、楽しそうだね」


 残酷な子どものように二人は額を寄せて笑いあう。


「すっごくみじめな気持ちにしてやりたい。可哀想って何回も言って、自覚させてあげなきゃ」

「じゃあ、今度一緒にあれの家に行こうか。きっと、最近ぼくが行かないせいで不思議に思っているだろうからね……」


 ルイーズがフィロメナを虐げることを想像し、イグナティオスも満足げに笑う。イグナティオスの心の中には確かに残酷な嗜虐心が芽生え始めていた。


 ***


「フィロメナ、今日はきみに素敵なゲストを紹介するよ。さあ、どうぞこちらへ」

「フィロメナ様、ごきげんよう」


 久しぶりにベッサリオン家を訪れたイグナティオスは、今日起こることを想像して喜びを隠せない声色でそう言った。ルイーズも隣で満面の笑みだ。

 フィロメナはルイーズの声だけでは誰だか判じえないようで、かなり困惑している。そんなフィロメナを見て、二人はつい含み笑いをしてしまった。


「そうですよね、フィロメナ様は目がお見えでないですから……私のこと、おわかりになりませんよね。宮廷舞踏会でお会いした、ルイーズ・ディディエです。今度こそ私のこと覚えてくださいませね」


 こともなげにルイーズはそう言った。目が見えない人間が、他人を判別できるわけがないと言いたげに嫌味を投げかける。フィロメナにプレッシャーをかけるように、ルイーズは念押しした。

 そのあとも、ルイーズは何度もフィロメナを憐れんでみせたり、フィロメナだけがわからない話をしては彼女を孤立させた。自分の家にいるというのに、フィロメナは所在なさげに俯いている。そんなフィロメナの様子はますます二人の悪意を駆り立てた。


 そんな折、ティーカップを手にしようとしたフィロメナの指が当たり、ミルクポットを倒してしまった。フィロメナは、何かが当たったことはわかったようだが、ミルクがこぼれていることまでわかっていないようで、状況がわからず狼狽えている。

 少し離れたところで控えていた侍従たちがすぐさま駆け寄ろうとするが、イグナティオスがそれを制する。


 ──味方なんて、側においてやるものか。


「フィロメナ、ミルクポットを倒しちゃだめじゃないか。ルイーズ様の前で、恥ずかしい」


 わざとらしく言いながら、イグナティオスはため息をついて席を立ち、委縮しているフィロメナをわき目にミルクを片付ける。やはり、フィロメナと結婚したところで、貴族の奥方として家を支えるなんて出来るはずもなく、こんな風に彼女を介添えする日々が死ぬまで続くだけだ。どうしてこんな女と結婚する運命を受け入れていたのだろう。わざと乱暴にミルクポットをフィロメナの遠くに置き直しながらルイーズと目配せすると、ルイーズも心の底から楽しそうににっこりと微笑んだ。


 そうだ、運命の女神だってぼくに微笑んでくれるはずだ。



 ルイーズを見送ったあと、生意気にもルイーズと距離を置きたいと言い出したフィロメナに、苛立ちを隠そうともせずイグナティオスは手酷く非難した。とうとう耐えきれなかったのか──フィロメナが泣き出してしまったとき、少しだけ良心が痛んだものの、やはりすぐに苛立ちが沸き上がってくる。イグナティオスは彼女を見下し、冷たい言葉で傷つけることに罪の意識を感じなくなってきていた。むしろ、彼女の痛ましい表情に、彼は一種の優越感すら覚えるようになっていたのである。


 ***


「ねえ、イグナティオス。今日もあの子、いい子ぶってずっと笑っていたわね」


 その夜、ルイーズの部屋の豪奢なソファに二人で腰かけて、イグナティオスの身体にしなだれかかりながらルイーズはまた楽しげに笑っていた。

 こんな夜更けにルイーズの部屋に入室することを許されているということは、ディディエ家において二人の関係は公然のものとなっている証拠でもある。その事実もイグナティオスの心を満たす一因となっていた。


「あの善人ぶった笑顔がどれだけ癪に障るか……ルイーズ、きみの愛らしい笑顔とは大違いだ」


 イグナティオスは不機嫌そうに溜息をつきながらも、ルイーズの身体に回した腕に力を込める。つい数か月前までは、伯爵家の令嬢とこんな関係になれるだなんて夢にも思っていなかった。自分の幸運が恐ろしいほどだ、と、イグナティオスは思う。


「おろおろしながらも何も出来やしないあの子を見たあなたがどんな顔をしていたか、私、きっと忘れられないわ。おかしくって、今でも思い出したら笑ってしまいそう……」


 イグナティオスはその言葉に薄笑いを浮かべた。


「ああ、あれは愉快だったね。何も見えないから、ミルクをこぼしたってことすらわからなくてただおろおろして……、笑いをこらえるのに必死だったよ」

「それを何食わぬ顔で手伝ってあげたあなた、さすがだったわ。普段からもあんな感じなんでしょう?婚約者思いの優しい男性と思われているわね、きっと」


 本当はこんなに酷い人なのにね、とルイーズは笑い声を漏らしながら、冷ややかな笑みを浮かべている。イグナティオスはその称賛に応じるように肩をすくめた。


「まあ、ぼくは元々善良な人間だからね。でも、こんなに冷酷になってしまったのは全部フィロメナのせいだ。フィロメナのせいで、ぼくの人生はつまらなくて、みじめなものに成り下がってしまっているんだ……今となってはあれが邪魔で仕方がないよ」

「なら、なぜ婚約破棄しないの?彼女の“可哀想な境遇”を理由にすれば、誰も文句を言えないでしょう?だって、日常生活すら一人で満足に送れないんですもの」

「そんな簡単な話じゃないんだよ、ルイーズ。元々この婚姻はぼくの父から持ち出したものだ。こちらから一方的に婚約を破棄したところで、ぼくや父の立場が危うくなるだけだ」


 イグナティオスは忌々しげに眉根を寄せて、額に手をやる。その手を取り、ルイーズは慰めるように頬ずりした。そんな女らしい甘えた仕草だって、フィロメナは絶対にしない。返す返す可愛げのない女だな、とイグナティオスは思った。


「だから、向こうから婚約破棄を申し入れてくるまで、こうして優しい婚約者を演じ続けるのね。酷い人」


 酷いのは君もだよ、と言って、イグナティオスはルイーズの顎を持ち上げ、その唇にキスを落とした。



 ──このときまで、もうあんなみじめな気持ちなんて消え失せていたのに。


「どうして勝手にダンスなんて……ああ、バルジミール様、またしても婚約者が申し訳ございません。所用があり、目を離したすきに……」


 イグナティオスは自分でも滑稽なほど、必死でアスヴァルに弁解していたが、アスヴァルはその美しい形をした唇を引き結んだまま、何も言わない。彼はフィロメナには優しく微笑みかけていたのに、イグナティオスには冷たい眼差しを向けるだけだ。

 その責めるような視線にうまく息が出来なくなって、イグナティオスは今まで自分に向けられ続けてきた多くの貴族たちの視線を思い出して、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。


「それでは」


 アスヴァルはフィロメナにだけそう言うと、イグナティオスには一瞥もくれず、その場を後にした。自分を無視したアスヴァルの態度に、これ以上ない恥辱を感じたイグナティオスは怒りに打ち震え、フィロメナに冷たい言葉を投げかける。フィロメナはそれでもこちらを非難することはなくて、相変わらずの偽善にうんざりする。これ以上、フィロメナと一緒にいたくなくて、イグナティオスは逃げるようにその場から立ち去った。


 ──早く、早くルイーズと結婚しなければ。そうして、義父上に第二王子の側近に推挙してもらって、もう誰にも馬鹿にされない地位と名誉を手に入れなければ。


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