004.ここでは息しかできないみたい
舞踏会一日目。本当に、イグナティオスの迎えはなかった。
フィロメナは一人で会場に到着するも、誰かのエスコートなしではダンスホールにたどり着けないため受付に頼み、侍従の一人に介助してもらいダンスホール内へ入った。紳士にエスコートされるのではなく、侍従に介助されているフィロメナを周囲は奇異の目で見るが、フィロメナはもちろんその視線に気付いていない。それでも、フィロメナの心は重く、沈鬱であった。
会場内に案内してくれた侍従にお礼を言って、壁をつたって会場内を移動し、フィロメナは今日も壁の花となるべく出来るだけ人々のざわめきから離れた場所で落ち着いた。おそらく、人々にあいさつをするときにはイグナティオスが来てくれるのだろうけれど──今、こんな気持ちで彼に会わなければならないのは苦痛であった。
どれくらいの間、そうしていたかわからない。
ふと、いい匂いがしてフィロメナは顔をあげた。
「……バルジミール様?」
そう呼びかけた瞬間、ふわり、とあの香りが強くなる。
「どうしてわかったのですか?」
やはり、あの深みのある、落ち着いた声がした。
フィロメナはつい顔を綻ばせ、再会を喜ぶ。
「以前はありがとうございました。あの、あなた様の香水が香った気がしたのです」
「なるほど」
「すてきな香りなので、すぐにわかりました」
壁に背を向けて立っていたフィロメナの隣にアスヴァルが移動した気配がして、フィロメナはまだお話をしてくださるんだわ、となんだか嬉しくなった。衣擦れの音がした後、ややあってからアスヴァルは「自分では匂いがわからないな」と言ったので、「そういうものですわ」とフィロメナはにっこり笑う。
「今日は婚約者の彼はいないのかな」
「あ……はい。今日は彼も来ているようですが……ここには別々に参りました」
「別々に?そうすると、あなたは一人きりでここに来たのか」
「彼は用向きがあるようでしたので……」
困ったように眉根を寄せながら、フィロメナはそう言う。しばらくアスヴァルは何か思案していたようだが、「失礼」と断ってからフィロメナの手を取り、自分の手に絡ませた。
「バルジミール様?」
「一曲、お相手願いたい。以前、ワルツは踊っておられたかと記憶しているのですが」
「ワルツなら、踊れます」
「よかった」
そう言うと、アスヴァルはフィロメナを連れ立ってまっすぐにダンスホールの中心に向かって歩き出す。フィロメナはアスヴァルの手に自らの手を添えたまま、緊張で鼓動が早くなっていくのを感じていた。
アスヴァルが足を止めたので、フィロメナもアスヴァルの腕から手を離す。そして、一瞬の静寂ののちに、楽器の演奏が始まった。
アスヴァルがお辞儀をするタイミングがわからなかったけれど、フィロメナも膝を折ってお辞儀をした。そうして、フィロメナがお辞儀を終えたあと、アスヴァルが「右手をあげて」と指示した。フィロメナが言われたとおり右手をあげると、優しくその手が握られる。そして、フィロメナの背中にも優しく手が回された。フィロメナも、アスヴァルの肩に左手を添える。フィロメナは特別背が低いわけでもないが、アスヴァルは長身だったのでかなり高い位置に肩があった。
音楽に合わせて、ダンスが始まる。
アスヴァルのリードでのワルツはとても踊りやすくて、フィロメナは驚くほど軽やかにステップやターンができた。途中、少しバランスを崩してしまったフィロメナだったが、アスヴァルがうまくそれをカバーする。ひとつひとつの動作にアスヴァルの気遣いが感じられて、先ほどまでの陰鬱な気持ちが嘘のようにフィロメナの心は弾んでいた。
初めてのパートナー相手に、自分でもこんなにも軽やかにステップが踏めるなんて、と嬉しくなって──フィロメナの目から、一筋の涙がこぼれた。
曲が終わると、会場からわっと拍手が沸き起こった。
そこかしこから、バルジミール辺境伯のダンス相手のあれは誰だ、例の盲目の、と噂話が聞こえる。けれど、晴れやかな気持ちになったフィロメナにとって、今やそんな些末なことは気にならなかった。
頬を上気させながら、少し興奮した様子でフィロメナはアスヴァルに礼を言う。
「バルジミール様、ありがとうございました。初めての方ともこんなに踊れるだなんて、自分でも知りませんでした」
「素晴らしいワルツだった」
そう言って、アスヴァルは再度フィロメナの手を引き、人混みを避けて人気のない方へフィロメナを誘導する。フィロメナはまだ嬉しさで胸がどきどきしていたので、改めてもう一度アスヴァルにお礼を言おうとしたその刹那、「フィロメナ!」と聞き慣れた声に呼び咎められた。
「イグナティオス様……」
「どうして勝手にダンスなんて……ああ、バルジミール様、またしても婚約者が申し訳ございません。所用があり、わたしが目を離したすきに……」
イグナティオスは必死でアスヴァルに弁解していたが、アスヴァルはまたしても何も言わない。歯牙にもかけられず、イグナティオスはばつが悪くなったのか、それ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。
「それでは」
アスヴァルはフィロメナに向き直ってそう言うと、イグナティオスには一瞥もくれず、その場を後にした。恐らく、怒りに打ち震えているであろうイグナティオスはしばらく黙り込んでいたが、大きく息を吸い込んでから、「フィロメナ、きみはいつの間にバルジミール様に取り入ったんだい?」と吐き捨てた。
「取り入っただなんて、そんな」
「まあいい。ぼくはまだ用事があるんだ。あまり目立たないようにおとなしくしておいてくれよ」
足音荒くその場を離れたイグナティオスにかける言葉もなく、フィロメナは引き続き、婚約者の言いつけ通りおとなしく壁の花になることにした。
しかし、すぐ近くで拍手をする音が聞こえて、フィロメナは顔を上げる。
「フィロメナ様、素敵なワルツでしたわ」
鼻にかかったような、甘えたこの声はルイーズだ。フィロメナは少し顔を引きつらせながら「ありがとうございます」と小さく言った。ルイーズはフィロメナの態度もおかまいなしに、うふふと愛らしく微笑みながら続ける。
「私、感動しましたの。目が見えないのにあんなに華麗にダンスができるなんて。私、もっとフィロメナ様のダンスが見たいわ。ねえ、私のお友達ともワルツを踊ってくださらない?フィロメナ様にとっても、社交界に慣れるために色んなお相手とダンスが出来るようになっていたほうがよくってよ」
「え……」
「あら、やっぱりアスヴァル様みたいに高貴なお方が相手じゃないとお嫌かしら?」
「そんなことは……、……私でよければ……」
フィロメナの言葉を聞き、ルイーズはわあっと嬉しそうに声を上げて「じゃあ、皆さんもフィロメナ様と踊って差し上げて!」と笑った。その途端、大きな手がフィロメナの手を握り、強引にぐいっと引っ張る。あまりに突然のことに驚きながらも前につんのめりかけたフィロメナに構わず、大きな手の主はぐいぐいとフィロメナを引っ張ってホールの中心に歩いていった。ルイーズの友人の男性は何が何だかわからずおろおろしているフィロメナを強く抱き寄せ、強引にワルツのポーズを取らせる。その男性のリードは乱暴で、フィロメナは転ばないようにするのが精いっぱいだ。足がもつれても、別のペアとぶつかりそうになっても、何もフォローがないのでフィロメナは不安で恐怖すら覚える。ようやく曲が終わると、「次は私が」と別の男性に抱き寄せられてフィロメナは泣きだしそうな顔をした。次はいくらか丁寧なリードだったけれど、この人もダンスは不得手だったのかフィロメナは何度か足を踏まれて痛い思いをした。
そのあとも、フィロメナはかわるがわるルイーズの友人たちのダンスの相手をして、もうくたくたになっていた。
ようやく解放された頃には、フィロメナは疲れて壁に寄りかかってしまったが、それを見てルイーズはつい失笑する。
「フィロメナ様、素敵でしたわ!でも、やっぱりお相手を選ぶのかしら?アスヴァル様とダンスなさっているときよりもずいぶん不格好でしたね」
ルイーズはフィロメナの耳元でそう囁いてから、取り巻きたちと一緒にその場を後にした。一人、残されたフィロメナは、より一層みじめな気持ちになって、人知れず涙を流したのであった。