002.こころは傷みやすい
舞踏会当日、フィロメナは深みのある緑のベルベットで仕立てたボールガウンを身にまとい、スカートの裾を慎重にさばきながら、ゆっくりとホールに足を踏み入れた。
高貴な来賓たちが大勢詰めかけているダンスホールでは、万が一の事故が起きないようにいつもの白杖も使えない。エスコートしてくれるイグナティオスだけが頼りだ。壁や扉、家具の位置関係がわからないホールを白杖なしで歩くだけで不安で仕方がないというのに、会場はすでに多くの来賓客であふれていて、人々のざわめきやそこかしこで聞こえる音で神経がみるみるすり減っていく。その上、慣れないボールガウンにハイヒールを着用していることも、フィロメナの心をたいそう不安にさせた。
しかし、そんなフィロメナを励ますように、フィロメナの耳に「大丈夫だよ、ぼくがいるから」とイグナティオスが囁く。その言葉はフィロメナの心にじんわりと沁みわたる。
「けれど、ぼくたちもたくさんの人にあいさつをしないと。フィロメナ、もう少し辛抱してくれるかい?」
「ええ、大丈夫です……私のことはお気になさらないで」
そう言いながらも、フィロメナは緊張で唇を引き結ぶ。
自分はベッサリオン家の息女としてふさわしいふるまいができるだろうか?イグナティオスの婚約者として恥ずかしくないのだろうか?
きっと、自分以外の良家の息女は麗しく、可憐で、自信に満ちているのだろう。そして、きらきらした美しい瞳で相手を見つめることができる。
たったそれだけのことが、自分には決して出来ないことがフィロメナにはとても辛く、苦しい。
フィロメナは普段、光を失った目を閉じて、その瞼は開けないようにしている。
つい最近の話だが──イグナティオスが何気なく「フィロメナはいつも遠いところを見ているね」と言ったのだ。きっと、イグナティオスだって悪気があって言ったわけじゃない。けれど、フィロメナは遠くなんて見えやしないのに、そう言われたことがとてつもなく恥ずかしく、悲しく感じたのだ。だから、フィロメナは光を失った瞳に何も映さないよう───目を伏せるようになった。でも、イグナティオスはフィロメナの気持ちの変化には気付いていないのか、目を伏せたままのフィロメナに対して何か言及することはなかった。
今日だって、そんなフィロメナの気持ちにイグナティオスは気付く様子もなく、会場で出会う人々に挨拶をし、フィロメナを紹介した。フィロメナもベッサリオン家の息女として丁寧に、そして優雅に人々に会釈をし、ひとつふたつ、言葉を交わす。
目の見えないフィロメナにとって、初対面の相手と出会うことは正直なところかなり負担であった。相手の容姿や表情が見えないのはもちろんのこと、周囲が騒がしい場所では声も聞き取りにくく、会話をするだけで多大な集中力を要する。中にはベッサリオン家よりも格上の爵位を持つ相手もいる中で、フィロメナは細心の注意と集中を以てこの場をやりすごしていた。
だが、華やかなこの場においてイグナティオスも少なからず浮かれているようで、自身の婚約者の疲れた様子にも全く気付かない。結果、フィロメナのエスコートもおざなりになりつつあった。
「フィロメナ!紹介するよ、ルイーズ・ディディエ嬢だ」
「初めまして、フィロメナ様」
まだ舞踏会が始まってもいないというのに疲労が隠せなくなってきていたフィロメナだったが、そんな折、嬉しそうにイグナティオスがフィロメナの手を引いて、ルイーズと呼ばれた女性の手と引き合わせる。
「初めまして、ルイーズ様。ベッサリオン家のフィロメナと申します」
フィロメナはルイーズと握手したまま軽く会釈し、自然な動作で手を離そうとしたものの、ルイーズは無言でフィロメナの手を握ったままであった。
「……あの?」
不思議に思ったフィロメナが困ったように眉根を寄せるも、ルイーズは沈黙を保ってフィロメナの手を離さない。困惑したフィロメナがイグナティオスの方を向くも、イグナティオスもしばし無言であった。すっかり困ってしまったフィロメナがおろおろしていると、ルイーズはクスクス笑いながらようやくフィロメナの手を解放した。
「ははは、フィロメナ、ルイーズ様はいたずら好きでね。びっくりしたかい?ここだけの話──ルイーズ様の父君のディディエ伯爵は近頃ぼくを熱心に推してくださっていて、第二王子の側近にと口添えしてくださっているんだ……」
イグナティオスも少し笑ったあと、フィロメナに耳打ちする。
そんな恩義のある方のお嬢様だなんて、と驚くフィロメナに、ルイーズは可憐な声で可愛く言った。
「フィロメナ様、幼い頃に視力をなくしたとか……なんてお可哀想な方なの。イグナティオス様からお話はよく聞いているわ。私たち、年ごろも近いことですし、どうか仲良くしてくださいませね」
「はい、私こそ。よろしくお願いいたします、ルイーズ様」
ふと、イグナティオスとルイーズが密かに笑いあうような声が聞こえた気がして、フィロメナははっとして頭を上げる。けれど、周囲の話し声や笑い声を聞き間違えたのかもしれないと思い直して、フィロメナはイグナティオスの腕に再度自分の腕を絡めようとした。だが、場の空気に当てられて気もそぞろになっていたのか、イグナティオスはフィロメナへの配慮が欠けてしまっていたようで、フィロメナが腕を絡める前に歩き出してしまっていたのだ。
その結果、フィロメナはバランスを崩し、転倒───寸前で、その身体を抱き留められた。
「大丈夫ですか」
一瞬、音のない世界に取り残されたかと錯覚するほど、その人の声だけがやけにはっきりと耳朶を打つ。
澄み渡る夜空のような静謐な、それでいて深みのある声音がフィロメナの耳元で囁いた。
ホワイトフラワー系統のエレガントな香りの中に、ややスモーキーな芳香が混じったような、マスキュリンの香りがわずかに鼻孔をくすぐる。
その人からは、そんな品の良い香りが漂っていた。
転倒しそうになった驚きと衝撃からまだ抜け出せないフィロメナは、抱き留めてくれた恩人の腕につい縋り付いてしまっていたのだが、すぐに気を取り直して姿勢を正し「ありがとうございます」とその人物に礼を言う。名前を聞こうと口を開こうとしたが、それよりも先にイグナティオスが「バルジミール辺境伯!?」と、驚愕と戸惑いの入り混じった声を発した。
「フィロメナ、だめじゃないか!目が見えないんだから、慎重に立ち振る舞わなくては。ああ、バルジミール辺境伯、婚約者を助けてくださりありがとうございます。わたしはオンティベロス家の嫡男、イグナティオスと申します」
「婚約者……」
イグナティオスはやや興奮したように早口でそう言った。本来であれば辺境伯に挨拶出来るような身分ではない彼が、辺境伯に近づくチャンスを逃すまいと興奮しているのがわかる。しかし、バルジミールと呼ばれた男性は、イグナティオスの自己紹介には特に興味を示していない風に、おうむ返しに応えた。
「はい、こちらは婚約者である、ベッサリオン家のフィロメナと申します。目が不自由なもので、大変失礼をいたしました」
「盲いた婚約者なら、あなたがもっと丁重にエスコートすべきだろう」
「は……失礼……いたしました……」
ちくりと苦言を呈されたイグナティオスは途端に委縮してしまい、先ほどまでの饒舌さがすっかり失われてしまった。そんなイグナティオスに見向きもせずに、彼はフィロメナに向き直り、聞き取りやすいようにはっきりした口調で声をかける。
「わたしは辺境伯を叙爵されているアスヴァル・バルジミールです。あなたに怪我がなくてよかった。夜会のドレスは動きにくいでしょうから、気をつけなさい」
「ありがとうございます、バルジミール様。私の不注意でご迷惑をおかけしてしまい……今後、より一層注意いたします」
「ああ」
膝を折り、深々とお辞儀したフィロメナに優しい声色で相槌を打ったあと、アスヴァルは同伴者に声をかけられたようでその場を去っていった。その場に残されたイグナティオスとフィロメナは、しばらく黙り込んでしまっていたが、その沈黙をフィロメナが破る。
「あの……イグナティオス様。ごめんなさい、私……」
「……そうだよ、まったく。バルジミール様は新進気鋭の辺境伯のうちの一人なんだ。気に入られるに越したことはないのに、苦言を呈されてしまって……きみも、もう少し自分の立場を理解して立ち振る舞ってくれないとぼくが困るんだよ。いいね、フィロメナ。もう転びそうになんてならないでおくれよ」
「……はい、ごめんなさい」
イグナティオスの、自分のことはすっかり棚に上げたような態度に少しだけフィロメナはがっかりしたが、立場と面子を重んじ、諸侯の中で必死に立身出世しようと奮闘する彼は自分が思う以上に大変なのだと言い聞かせ、フィロメナはただ謝罪した。イグナティオスはまだ少しイライラした様子で、やや乱暴にフィロメナの腕をとって自分の腕に絡ませた。そんな婚約者に荒っぽくエスコートされながら、フィロメナはアスヴァルの優しい声と腕をつい思い返してしまうのだった。
***
あの日の宮廷舞踏会では、その後もイライラした様子のイグナティオスと義務的にダンスをし、そのあとすぐさま別の女性とダンスをしに行った彼に取り残されてすっかり壁の花となったフィロメナだったが、それでもほっとしていた。やはり社交界は目の不自由な自分が飛び込むには気疲れしてしまう世界だ。こうやって、壁の花になっている方がずっといい。
あの日以来、イグナティオスはベッサリオン家からますます足が遠ざかっていた。フィロメナに八つ当たりをしてしまった気まずさからなのか、フィロメナに対して本当に腹を立てているのかはわからなかったが、彼の気がおさまらないのであれば会いたいと請うことも出来ないと思い、フィロメナはしばらく一人で過ごす時間を大切にしていた。
いつものベンチに腰掛け、あたたかな木漏れ日を感じながら小鳥のさえずりを聞き、風に乗って漂ってくる花の香りを嗅ぐと自然と心が凪いだ。フィロメナは目が見えないからこそ、目が見えていた頃より、耳や鼻、肌で感じる自然をより一層愛していた。
やはり、社交界は苦手だ。
たくさんの話し声や笑い声、色んな音が入り混じり、化粧品や香水のにおいで感覚が混乱してしまう。目が見えなくても、奔流となって押し寄せる情報量に押し流されてしまいそうになっているのだから、きっと、目が見えていても視覚から得られる情報が多すぎてフィロメナは疲れてしまっていたことだろう。
このベンチでイグナティオスと話している時間が好きだけど、イグナティオスは近頃頻繁に出入りしている社交界で出会った貴族の邸宅にも出入りをするようにまでなっているようだったから、そんな時間は今やほとんどない。
イグナティオスの心がどんどん離れていくように感じられ、フィロメナは少しさみしい気がしたが、彼なりの貴族社会での処世術なのだと自分に言い聞かせる。
そもそも、イグナティオスとフィロメナの双方が18歳になったとき、婚姻をする取り決めとなっていた。イグナティオスの心がこのまま離れようと離れまいと、最近17歳になったばかりのフィロメナは来年の今頃にはもうイグナティオスと婚姻していることになる。
そう考え至った瞬間、フィロメナはふと、ぞっとした。
両親と侍従たちが優しく見守ってくれるベッサリオン家を離れ、オンティベロス家に嫁がなくてはいけないのだ。生まれたときからの許嫁とはいえ、所詮は他人。常識だって、生活習慣だって違うだろう。そんな中で、目の不自由な自分が、貴族の嫡男であるイグナティオスの妻として、恥ずかしくないふるまいや仕事が出来るだろうか?もし、そんなふるまいが出来なかったとして──イグナティオスはフィロメナをサポートしてくれるのだろうか?赦してくれるだろうか?
急に大人になる自覚が襲ってきて不安になっているだけかもしれないが、フィロメナにはわからなかった。イグナティオスならきっと自分を支えてくれる──と、手放しで確信することが出来ない気がして、フィロメナはひとり、途方に暮れるのであった。