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001.一生懸命にさみしい

「ああ、フィロメナ......どうしてこんなことに......母が代わってあげられるものならすぐにでも代わるものを」


 ベッサリオン子爵家の息女であるフィロメナは幼い頃、高熱を出して三日三晩生死の境をさまよった。ベッサリオン子爵夫人は悲しみに暮れながら、高熱にあえぐ娘の汗ばんだ額を氷水に浸した手ぬぐいでそっと撫でる。嘆き悲しむ妻の肩を抱きつつ、もう片方の手で娘の熱い小さな手を励ますように握りながら、ベッサリオン子爵も沈痛な面持ちでフィロメナを見つめていた。


 この世界には魔術が存在するが、病や怪我をたちどころに治癒するような強力な魔術を使用できる者は歴史の上でもごくわずかだ。そのため、一般的に多くの病や怪我は医学によって治療されている。だが、その医学も未だ発展途上であり、フィロメナの重い病には到底抗えない。両親はただただ、フィロメナの回復を祈って泣くことしか出来なかった。


 四日目の朝、両親の熱心な祈りが通じたのか、はたまた神は幼いフィロメナをまだその御許(みもと)に迎え入れる気はなかったのか──フィロメナの熱はようやく下がりはじめ、奇跡的に回復の兆しが見えたのである。

 とはいえ、命が助かった代償なのか、無情にもその目からは光が失われてしまったのだった。


 元々利発で明るい娘だったフィロメナは、目が見えなくなったことにより塞ぎこむようになり、もはやその朗らかさは見る影もない。何に対しても消極的になり、自発的に何かに挑戦することはほとんどなくなってしまった。

 6歳にして、突然視界が奪われてしまったのだからその変化も仕方のないことだろう。大好きな両親や優しい侍従たちの笑顔も、花や木や、本、お人形、その他の大切な宝物たち──フィロメナの世界を彩る素敵なものたちに対する視覚情報の一切が唐突に失われてしまったのだ。

 フィロメナは泣いて、なぜ自分がこんな理不尽な目に遭うのかと猛烈な怒りを感じた。しかし、その怒りの果てに待っているものはいつだって悲しみと虚しさであった。いつしかフィロメナは怒ることにも疲れてしまい、次第に自分の運命を冷静に見つめ始めた。

 それに、フィロメナには優しい両親や侍従たちがいつだって側にいてくれた。そして、生まれたときからの婚約者であるイグナティオスも。

 フィロメナはそのおかげで、長い時間を要しながらも、ようやく自分の身の上に起こった出来事を受け入れるようになり、突然光が失われた絶望からもなんとか立ち直りつつあった。


 両親の教育方針もあり、フィロメナは光を失ってからも自分にできることは自分でできるよう、人並み以上に努力をした。そのため、視力を失って8年が経過した14歳の頃には、邸宅内の慣れた場所では白杖(はくじょう)を使わずともゆっくりであれば移動することができたし、用意された衣服に着替えたり、髪を結ったりといったある程度の身だしなみや入浴などの日常生活も、基本的には侍女の介助なく送っていた。


 いつも、イグナティオスは言う。


「フィロメナ、きみがとても心の強い女性でよかった。きみが境遇に負けずに努力をしているから、僕は安心して公務に励んでいられる」

「イグナティオス様……」


 イグナティオスは男爵位にあるオンティベロス家の嫡男であるため、まだ14歳の身ながらその日々は忙しないものであった。けれど、イグナティオスは盲目のフィロメナの身を案じてか、何かにつけてベッサリオン家を訪れては、二人で邸宅の中庭の大きな木の下にあるベンチに腰かけて色々な話をしていた。フィロメナはそんなイグナティオスの優しさが嬉しく、日ごとに恋しさが募る。


 もう、少年期から青年期に移行しつつある彼に、幼い頃の面影はなくなってしまったのかしら───想像してみるものの、その目で確かめることは叶わず、フィロメナはそのたびに肩を落とすのだ。


 けれども、イグナティオスは笑って「案外、フィロメナの好みの男じゃないかもしれないよ」と冗談めかして慰めてくれるので、フィロメナの気持ちもいくらか軽くなるのであった。


 ***


 フィロメナが17歳になった頃、すでにイグナティオスは社交界に頻繁に出入りするようになっていた。

 反面、今まで両親や自身の意向もあり、フィロメナはデビュタント以降は社交界には出来る限り露出しないようにしていた。子爵家の盲目の息女を好奇な目で見る者は多い。両親はフィロメナが必要以上に傷つくことのないよう、最大限配慮してくれており、社交界に出ることを無理強いせずにいたのだ。もちろん、婚約者であるイグナティオスも見守ってくれていた。


 しかし、やはり貴族たるもの社交界での駆け引きが重要なことであるということはイグナティオスも痛いほど実感していたようで、近頃は夜な夜な友人と夜会に出かけているようであった。

 忙しいからか、最近のイグナティオスはどこかフィロメナによそよそしい。

 ほんの2年ほど前までは、イグナティオスはいつだってフィロメナを一番に考えてくれていると強く感じていたが、今はどこかその確信に(かげ)りがあるような気がしてならない。

 だが、フィロメナはイグナティオスの優しさと真心を信じていたので、イグナティオスに対して(つい)ぞ不満なんて口に出さなかったのである。


 ある晴れた日の昼下がり、久しぶりにイグナティオスがベッサリオン家に訪れた。

 いつものベンチに腰かけたフィロメナに向かってイグナティオスが困った様子で「きみに、こんなお願いをするのは酷かもしれないけれど……」と、申し訳なさそうに切り出した。


「お願いですか?」

「ああ。実は、今度大規模な宮廷舞踏会が開催されるんだ。それに婚約者を伴って参加するようにとお達しがあってね……目の不自由なきみにとって、舞踏会に参加するなんて難しい話かもしれないけれど……断り切れなくてね。どうかな?一緒に参加してくれるかい?」

「舞踏会……」


 フィロメナは考え込むように呟いた。確かに、フィロメナは目が不自由ではあるものの、どこに出しても恥ずかしくないように、とダンスについても両親が家庭教師をつけてくれていた。

 家庭教師は優秀で、目の見えないフィロメナに──文字通り──手取り足取り、粘り強く指導をしてくれていたので、フィロメナは手本を見ることができないもののダンスステップや取るべき姿勢、パートナーからのリードのされ方を学んでいたのだ。家庭教師は、見本を目で見せられないこと以外はフィロメナを普通の令嬢と同じように扱った。フィロメナがバランスを崩して転んでも、助け起こすことはせずフィロメナが自分で立ち上がるまで待った。慣れないヒールに足の爪が割れ、至るところに靴擦れができて血が滲んでもフィロメナは諦めなかったから、家庭教師も諦めずに粘り強くフィロメナを指導した。その甲斐あってか、フィロメナは半年以上の月日を費やしながらも、目の見えている人と遜色ないような優雅なワルツを踊れるようになったのだ。


 フィロメナのワルツを見た家庭教師も、軽やかで優美に踊れていると褒めてくれた。それはただのお世辞かもしれない。目が見えない以上、慣れたパートナーでないと呼吸を合わせられないかもしれない。目が見えないくせにワルツだなんて、と嘲笑の的になるかもしれない。何より、フィロメナはワルツしか踊れない。だが、目が見えないながらもワルツを踊ることができるということは、塞ぎがちだったフィロメナの心の確かな支えと自信になったのだ。


 とはいえ、人前で踊ることは、今でも怖い。

 だが、イグナティオスの面子を潰すわけにもいくまいとフィロメナは意を決して「参加します、舞踏会」と小さく言った。


「本当に?ありがとう、フィロメナ」


 膝の上に重ねて置いていたフィロメナの手を取って、イグナティオスは弾んだ声でそう言った。イグナティオスの手は大きくて、いつもフィロメナの手を優しく包み込む。フィロメナはイグナティオスの手の優しいぬくもりを感じつつ、「けれど……イグナティオス様以外のパートナーと一緒にうまく踊れるか不安です」と不安を吐露する。

 イグナティオスはフィロメナの手を離して、快活に笑った。


「大丈夫だよ、フィロメナ。きみはぼくと踊ったあとは、無理に他の人と踊らなくっていいんだ。知らない人と踊るなんて、目の見えないきみには難しいだろうからね。大丈夫だよ、フィロメナ。他の人にもきみの目のことは話しているから、皆きみが踊れなくったって理解してくれるさ」

「そう……ですか」


 イグナティオスの言葉に、ちくりとフィロメナの心が痛む。もし、この目が見えたなら、婚約者がろくに踊れないだなんていう恥ずかしい思いをイグナティオスもしないで済むだろうに。けれど、イグナティオスがしなくていいと言うのなら、それでいいかもしれない。誰に示すでもなく、フィロメナは小さくかぶりを振って、自分を納得させた。


「舞踏会、楽しみにしているよ、フィロメナ」


 イグナティオスはそう言って、フィロメナの手の甲に口づけを落とし、そうして自らの領地に帰っていった。

 一人残されたフィロメナは、ベンチに腰かけたまま優しい風のそよぎを肌で感じながら「……踊れなくったって理解してくれる、か」とぽつりと呟いた。

 しみじみと、なんだか悲しいな、と思った。


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