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010.目には見えない愛のすべて

 フィロメナを乗せた馬車は、舗装された馬車道のおかげで揺れも少なく、滑るように進んでいた。

 しばらく続いたなだらかな道が次第に傾斜を増し、肌に感じる風が変わっていく。生まれ育ったベッサリオン領とは、空気の重みすら違うように思えた。


「……冷たい風ね」


 隙間風を感じ、フィロメナがぽつりと呟くと、同伴していた侍女が優しく微笑んだ。


「バルジミール領はベッサリオン領に比べて標高が高い分、気温も低めですから。でも、冬が厳しいかわりに、夏はきっと過ごしやすいですよ」


 侍女からひざ掛けを受け取りながら、なるほど、とフィロメナは頷く。

 今まで自分の世界が狭いことはわかっていた。けれど、こうしてアスヴァルの領地へ向かう途中で、土の匂い、木々のざわめき、風の質までが違うことに気付き、改めて自分が“辺境の地”へと足を踏み入れようとしていることを実感する。

 けれど、辺境とは名ばかりで、バルジミール領の中心部に続く街道は領地の端までしっかりと舗装されていた。


「ずいぶんと整備された道なのね」

「はい、さようでございます。バルジミール様の領地は、市井(しせい)と軍事の両方を支える城砦都市ですから。外敵の侵入を防ぐため、街全体を囲むように強固な外壁が築かれています。スムーズに移動が出来るように道はとても美しく整備されていて、秩序正しい街並みも広がっておりますよ」


 侍女の言葉に、フィロメナはすっかり感心した。辺境というからには、もっと荒涼とした土地を想像していた。だが、実際は国境を守る重要な拠点として、独自の発展を遂げているのだろう。アスヴァルは冷徹な人物に見えながらも、その手腕と責任感は確かだ。自らの領地を守り、人々の暮らしを安定させることに心を砕いていることが感じ取れた。

 さらに大きな門をくぐった馬車は、やがて速度を落としていく。


「バルジミール様のお城に到着しましたよ」


 侍女の声に、フィロメナは緊張した心を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。

 馬車の扉が開かれると、冷たい風とともに、待ち受ける人々の気配を感じる。


「長旅、ご苦労だったね」

「アスヴァル様、お出迎えいただきありがとうございます」


 いつもの優しい声が出迎えてくれたので、フィロメナは微笑んだ。アスヴァルはフィロメナの手を取り、馬車を降りる彼女をエスコートしてくれる。地面に降り立ったフィロメナに、別の明るい声が出迎えた。


「フィロメナ様!お疲れ様です、リズベットです。お久しぶりです」

「リズベット様……!ご無沙汰しております」

「フィロメナ様、またお会い出来て嬉しいです。カテリーナ・ヴォルークです」

「ありがとうございます、私もカテリーナ様に再びお目見え出来て光栄です」


 代わる代わる握手をしながら、出迎えてくれた二人に心があたたまる。


「あなたのことは、私たちが二か月間かけて評価することになりました」

「あなたが辺境伯の妻として、ふさわしいかどうか。もちろん、私たちも手助けするつもりですが……覚悟はいいですか?」


 二人は親しげにフィロメナの手を取りながらも、その声にはどこか厳しさが滲んでいた。柔らかな声の奥にある、貴族の妻としての矜持。

 フィロメナは、そっと頷いた。


「はい。どうぞ、ご指導くださいませ」


 そうして、フィロメナの新たな日々が始まるのだった。


 ***


 次の日から、早速辺境伯の妻としての適正審査が開始された。審査とは、辺境伯の妻としての仕事のうち、指示された4つの仕事を実際に行い、その手腕と適正を見るものだ。もちろん、その中でも機密情報を含む仕事については免除されるが、それ以外のものはほぼ要求される。

 フィロメナに指示される仕事は、くじによって選定が行われた。その結果、フィロメナの審査の内容に、手紙の整理と代筆、刺繍、農地管理、孤児院の慰問の4つが採択される。


「手紙の整理と代筆は、とても大切な仕事だから今から慣れておくといいですね。けれど、農地管理と孤児院の慰問は……困難を伴う仕事かもしれません。二か月で、どれだけものに出来るか……」


 カテリーナが心配そうに言った。リズベットもうんうん、と頷きながら、「うちは頭脳労働をクローハイトくんがほぼ一人で楽しそうにやっちゃうから、私に出る幕はないんだけど……たまに手伝おうと思って目を通すと、頭がこんがらがってくるの」と言う。

 フィロメナは少し考え込んだが、「やるだけやってみます」と意気込んだ。


 まず着手したのは、アスヴァルに届く手紙の整理と、その返信の代筆だ。アスヴァルに届く公的な機関以外からの領民の手紙は、辺境伯領の行政に対する請願に関わるものが多い。貴族としてある程度の領地運営に関する教育を受けてきたフィロメナであったが、実地で処理を行うのはもちろん初めてだったので最初は大いに戸惑った。しかし、過去の書状の返信の写しを参考にしたり、書庫に保管されている膨大な資料から知識を得たり、時にはアスヴァルに尋ねたりして適切な対処方法を学んでいく。

 最初の数日間は、知識を詰め込むのに必死だったが、段々慣れてきた。次第に、今まではわからなかったことがわかるようになっていき、もはや手本なしでもフィロメナは返信文を自ら作ることが出来るようになっていた。それを代筆しながら、カテリーナはその成長に満足げに微笑む。カテリーナが返信文を書き終えたとき、ちょうどアスヴァルが様子を見に来た。

 カテリーナはアスヴァルに書き上げた手紙を差し出すと、アスヴァルは無言で文面に視線を走らせる。


「これはすべてフィロメナが?」


 アスヴァルがそう言うと、カテリーナは「私はもう代筆のみしかしておりません。」と答えた。

 辺境伯の妻は夫の手紙の代筆をするとはいえ、最後には必ず夫本人が確認することとなっているので、審査期間中の現在もアスヴァルが全て目を通すことになっているのだ。しばし無言で返信文に目を通しているアスヴァルに、フィロメナは不安で胸がどきどきしながらその評価を待つ。


「悪くないな」


 アスヴァルはたった一言だけ評価をしたが、フィロメナにとっては充分な誉め言葉であったので、にっこりと微笑んだ。


 次は刺繍だ。

 もちろん、普段なら裁縫は侍女たちが行うのが一般的であるが、刺繍に限っては貴婦人の嗜みでもある。リズベットが、「針で指をつっつかない?大丈夫?」と心配するものの、フィロメナは「ご心配くださり、ありがとうございます。慣れていますので……」と落ち着いた様子で作業を始めた。指先の感覚を頼りに糸を通し、あらかじめ糸で印をつけておいた場所を丁寧に指先でなぞりながら一針一針、丁寧に縫っていく。もちろん、色がわからないため一色での刺繍ではあるが、ゆっくりながらも精緻(せいち)で見事な刺繍が出来上がりつつあった。


「フィロメナ様のお縫いになる刺繍は、相変わらずお手本のようにお美しいですね」と侍女がうっとりと言った。フィロメナは少し照れたような顔をしながら「けれど、あまりにも細かい模様は、苦手だから……」と謙遜したものの、リズベットはその手仕事の見事さに感心していた。


 農地管理は領地管理において、五本の指に入るほど大切な仕事である。

 領主が行う農地管理の仕事としては、農地を貸したい人から農地を代理で借り受け、農地を借りたい人に一括して貸付を行ったり、その管理台帳を作成したり、農地地図を作成・保管することが主である。貸付を行う前に必要であれば農地を整備し、農地の借り手が使いやすいような工夫ももちろん必要だ。

 また、領地内の作物の収穫量の把握し、適切に輸出量と自国での消費量を調整する必要もあるため、過去の記録を大切に管理していくことも忘れてはならない。

 あまりに多岐に渡る業務であるから、フィロメナは最初途方に暮れてしまっていた。

 しかし、管理台帳をチェックしていくにつれ、農地の名義人と実際の使用者の相違がたびたびあることに気付く。農地管理官に詳しく調査を依頼した結果、名義変更の手続きが必要なことを知らず、親から子へ、もしくは全くの別人へ農地を勝手に承継(しょうけい)している区画があることが判明したのだ。

 フィロメナは、まずは農地台帳の徹底的な整備が必要だと思い至り、農地の借主に対し、現在の名義人に変更はないか、生育作物に変更はないかなどの照会を行った。もし、勝手な名義変更が行われていた農地に関しては正式な承継手続きを行わせ、また、今後同じことをしないよう通達も同時に実施する。

 そして、農地の確実な管理を行うために定期的な公示も行って、周知を徹底することにした。

 少しずつだが、着実に台帳の整備を行うフィロメナに、カテリーナとリズベットは敬服するのであった。


 最後に、孤児院の慰問である。

 フィロメナは最初、苦手な部類の仕事ではないなと思っていたのだが、実際に孤児院を訪問したとき、その考えが甘く──カテリーナの言葉が正しかったことを嫌というほど思い知ることとなった。


 訪問した孤児院は、特に扱いの難しい子どもが多くいた。

 魔物や、他国の兵に家族を殺され、その経験が大きな心の傷になっていたのだ。もちろん、孤児院には子どもたちの心理面のケアを行う心理療法担当員もいるのだが、それでも子どもたちの深い心の傷は癒しきれていないのが実情だった。

 部屋の隅でうずくまる子、壁に頭を打ち付けて自傷行為に走る子、感情のコントロールが出来ない子──様々な子どもたちの怒りと悲しみがここでは渦巻いていた。同伴したリズベットからその様子を聞き、フィロメナはまたしても途方に暮れた。フィロメナ自身も、自分のことを可哀想だと思っていたけれど、やはり自分は世間知らずだったのだな、と痛いほどに実感する。


 フィロメナは子どもたちのためにどうしたらいいか、何が出来るのか──考えて、考えて、考え抜いて──しばらく、孤児院に泊まり込むことに決めた。ちょうど、職員が足りずに困っているようでもあったからだ。

 その結論に驚きながらも一緒に泊まり込むと言ってくれたリズベットに、「一人で大丈夫です。白杖も持ってきましたし、私もある程度の日常生活はできると思います。皆さんのお邪魔にはならないようにします」と宣言する。リズベットには、審査対象となる日中だけ様子を見に来てくれればいいと伝えた。リズベットはかなり渋っていたが、最終的にはフィロメナの意志を尊重してくれたのでフィロメナはほっとした。


 次の日の早朝から、フィロメナは掃除や洗濯、子どもたちの着替えの手伝いなどを行うこととなった。


「助かります。洗濯物がとても多くて洗濯が追いつかなくて」


 職員の一人がそう言いながら、洗い場にいるフィロメナのもとへ大量の洗濯物を運んでくる。

 フィロメナは洗濯桶の前に小さな椅子を置いて、「どんどん運んでください」と言いながら一生懸命洗濯板で衣服を洗った。洗濯に使う井戸水が冷たく、どんどん手の感覚がなくなっていく。でも、子どもたちが少しでも快適に過ごせるように、衣服を清潔に保ちたくて、慣れない洗濯に精を出した。時折、自分の息で手を温めながらも洗濯を続けていると、小さく草を踏みしめる音がした。


「あたらしい先生?」


 不信の色を露わにした、小さな女の子の声がする。子どもたちはてっきりまだ寝ている時間だと思っていたので、フィロメナはずいぶん早起きの子もいるのだな、と思いながら、その子の不信感を拭いたくてにっこりと微笑みながら挨拶をする。


「こんにちは。私はフィロメナです。新しい先生じゃないけれど、しばらくの間ここで皆さんのお世話のお手伝いをすることになったの。どうか仲良くしてくださいね」


 フィロメナは声のした方を向きながら優しくそう言ったが、それについての返答がなく、沈黙が二人の間に横たわる。少し困ってしまったフィロメナだったが、女の子は突然口を開いた。


「目が見えないの?」

「ええ、そうなの」


 彼女は、目を閉じたままのフィロメナが盲目であることにすぐに気付いたようだ。足音が近付いてくる。その瞬間、フィロメナは小さな両手が自分の背中を力いっぱい押すのを感じた。驚いて声も出なかったフィロメナは、椅子から転げ落ちて洗い場に倒れ込む。運よく、大量の洗濯物の山の上に倒れたので怪我はなかったが、フィロメナは突然の小さな悪意に混乱さえした。


「きゃあ!?フィロメナ様、お怪我はありませんか!?」


 呆然と倒れ込んでいたフィロメナに気付き、職員が駆け寄ってフィロメナを助け起こす。


「さっき、ノンナの後ろ姿が見えました。6歳ほどの女の子ですが、あの子は特に難しい子なんです。ノンナに何か酷いことをされたんですね……」


 諦めにも似たような言い方に、これがノンナという子の日常茶飯事なのだとわかる。フィロメナに怪我がないかをチェックしながら、悲しげな声で職員は続けた。


「ノンナは、父親を異民族に殺され、母親と二人で逃げる途中で魔物に母親を殺されたそうです。それも、幼いノンナの目の前で……。中央から派遣されてきた傭兵団がたまたま通りがかって、ノンナを保護してこの孤児院に連れてきてくれたのですが……ノンナの心の傷は深刻です。あの子は家族を助けてくれなかった大人たちも恨んでいます」

「そう……ですか……」


 フィロメナは、そう答えるのが精いっぱいだった。


 ***


 その日は一日中、ノンナのことを考えていた。他の子どもたちは、自分たちのために心を砕いてくれているフィロメナに対してある程度心を開こうとしてくれている節がある。しかし、ノンナは朝の一件以来近付いてくることはなかった。ノンナの居場所を他の子どもたちに聞いたが、「ノンナはいつも一人でいるから、どこにいるかわかんない」と返ってくるばかりだ。


 一週間もすると、他の子どもたちはずいぶんフィロメナに打ち解けて、引っ付いて甘えることもあった。元々、問題行動はあるものの、大人に甘えることは好きな子たちなのだ。職員が少ないせいで、いつもせわしない様子で孤児院の運営維持をしている職員たちには遠慮して充分に甘えることが出来ない分、子どもたちはフィロメナに甘えた。

 フィロメナはそのたびに、その子たちと会話を楽しんだり、童話を聞かせてやったり、ときには抱きしめた。しかし、相変わらずノンナだけはフィロメナに近寄りもしない。

 子どもたちがフィロメナに懐いている様子を見て、審査に来たリズベットは「心配なかったかな?」とほっとしていたが、フィロメナはノンナのことが気がかりだった。


 ある日の夜、審査のひとつである刺繍の正確さとスピードを上げようと試行錯誤していたらつい夢中になってしまい、気付けば柱時計は12時を知らせていた。早く寝ないと、と思い、白杖を持って立ち上がろうとしたフィロメナは、どこからか小さな泣き声がすることに気付いた。

 誰かが夜泣きでもしているのだろうか。しかし、その割に、子どもたちの寝室とは別の方向から聞こえる気がする。フィロメナは耳を澄まして、その声がどこからしてくるのか探った。しばらくして、その声が廊下の奥のキャビネットのあたりから聞こえてくるのに気付いたフィロメナは、静かにそちらに歩いていく。

 キャビネットに近づく足音に気付いたのか、泣き声は一層小さくなった。


「そこにいるのはだあれ?」


 フィロメナは優しく聞いた。沈黙の合間に、小さく鼻をすする声が聞こえる。


「眠れないの?そこは寒いから、一緒に暖炉の側に行かない?気持ちが落ち着くように、チョコレートを食べましょう。けど、あとで歯磨きもしましょうね」


 フィロメナは、なんとなく泣き声の主がノンナではないかと思っていた。少しの逡巡の後に、かたりとキャビネットの扉が開く音がする。不規則に鼻をすすりながら、その子どもは差し出したフィロメナの手を恐る恐る握った。


「ノンナ?」


 フィロメナの呼びかけに応じるように、小さな手に力がこもった。


 ***


 先ほどから、ノンナは何も言わずに暖炉の近くの椅子に座り、フィロメナからもらったチョコレートを食べていた。フィロメナはノンナから何かを話してくれるのを待っていたが、先ほどからチョコレートの包み紙を広げる音が聞こえるだけだ。


「もっとちょうだい」


 フィロメナが渡した三つのチョコレートをすでに食べ終わってしまったノンナがそう言うと、フィロメナは首を横に振って「今日はもうだめ。夜中だし、そろそろ歯を磨いて寝ましょうね」と言うと、ノンナはいきなり立ち上がってフィロメナのエプロンのポケットに手を突っ込み、チョコレートがないか漁ったのでフィロメナは驚き、困惑気味に「ノンナ!」と名前を呼んだ。

 ノンナはフィロメナの声に敏感に反応し、「なによ!」と反発する。


「どうせ、私たちのことかわいそうだって決めつけてるんでしょ!かわいそうな子どもたちに優しくしてあげてるじぶんってえらいなって、思ってるんでしょ!そんなに私がかわいそうなら、チョコレートくらいくれたっていいでしょ!だって私はかわいそうだもん!」

「そんな……」


 ──なんて()()()()


 フィロメナはかつてのルイーズの言葉が急に思い出されて、言葉に詰まる。

 自分でも無意識に、ルイーズと同じことをノンナにもしていたのだ。フィロメナの心に強烈な衝撃が走り、それはフィロメナの心を深い後悔で包み込む。それと同時に、ノンナの姿がかつての自分とも重なった。


 ──この子は私だ。自分の境遇が辛くて悲しくて、悔しくて、でもどうすることも出来なかった自分と同じだ。


 フィロメナは一心不乱に反対側のポケットをまさぐっているノンナを思わず抱きしめた。突然の抱擁に面食らったノンナは、フィロメナを叩いたり、押しやろうとしたりと酷く暴れた。


「なによ!はなして!」

「ごめんなさい。あなたを可哀想と決めつけている周囲のせいで、あなたは傷ついていたのね。悲しみを乗り越えようと頑張っているあなたの努力を踏みにじっていたのは、私たちだったのね。ノンナは強いのね。でも、もう一人で泣かなくていいの、周りを頼っていいの……ここはあなたの味方になってくれる人たちばかりだからね」


 その言葉を聞いたノンナは、「うそばっかり」と言ったが、その語尾は少し弱々しくなっていた。

 ただ静かに自分を抱きしめ続けるフィロメナに、ノンナの心に変化が訪れたのか次第にノンナは大人しくなってきた。それでも、まだ弱々しくフィロメナの腕を押しやろうとする。しかし、フィロメナもノンナを抱きしめたまま離さず、ノンナの頭に優しく頬ずりした。やがて、ノンナはフィロメナの服をぎゅっと握りしめ、小さくすすり泣き始めた。ノンナの熱い涙がフィロメナの洋服の胸元にしみを作る。それからノンナは耐えきれなくなったのか、ようやくフィロメナにすがりついて声を上げてないた。フィロメナは、ノンナが落ち着くまでずっとその背中をさすっていたのだった。


 ***


 次の日、フィロメナはいつも通り早朝に目が覚めた。

 ベッドサイドテーブルに立てかけた白杖を手に取り、慣れた様子で廊下に出て洗面所に向かい、顔を洗う。あまりの水の冷たさに身震いしながらも、硬めのタオルで顔を拭いた。

 昨夜のことが気がかりで、フィロメナはまたもノンナのことを考える。

 結局、昨日はノンナが落ち着くまで側にいて、その後は夜も遅いので寝室まで送っていったがやはりもう少し様子を見ていたほうがよかったかもしれない、と少なからず不安があった。


 ──不安定な心の子どもを救うにはどうしたらいいのだろう。


 この国は、ここ最近大きな戦争は起きていないもののしばしば異民族との衝突だとか、魔物の被害のせいだとかで今も決して少なくはない数の孤児がいる。孤児院に入れる子はまだ幸せなほうだ。すべての孤児を救いたい、だなんて大それた夢を見るつもりはないが、少なくともこの両手で救える子どもがいるのであれば救いたいとフィロメナは思った。

 もし──自分がアスヴァルの元に嫁ぐことが出来たとしたら、少しでもこの地の人々のためになる働きをしたいと──心から思った。


 今まで、こんなことを考えたことはなかった。

 両親や侍従の庇護のもと、世の荒波に触れることなく温室の花のごとく育ってきたフィロメナにとって、他者に尽くすことは別世界の話だった。しかし、この審査を通じて多くの人々の営みを知り、世界にはたくさんの喜びや、悲しみ、怒り、楽しみが溢れていることを知ったのだ。フィロメナの人生にとって、この審査はその枠組みを超えて、大いに重要な意味合いを持つようになりつつあった。


 朝食の時間まで時間があったので玄関の掃除をしていたフィロメナは、いつの間にか誰かが後ろに立っている気配を感じて振り向いた。その人物はしばらく経っても何も言わないので、フィロメナは恐らくノンナだろうな、と思いながらも首を傾げる。


「どうしたの?」

「……、……おはよう!」


 半ば叫ぶようにそう言うと、ノンナはすかさず走り去ってしまった。しかし、遠ざかる足音を聞きながらフィロメナはノンナの心の変化の兆しに口元をほころばせたのだった。


 ***


 住み込みで働いた二週間はあっという間だった。

 他の審査についても引き続き滞りなく行わなければならないので、慰問自体は今後、通例どおり一週間に一度訪れるにとどめることになった。しかし、そのことを告げたときの名残惜しそうな子どもたちの反応を見たリズベットは、この審査も順調であることが十分に感じられて満足げに微笑む。

 たくさんの子どもに見送られながら馬車に乗り込むフィロメナのスカートを、小さな手がぎゅっと握った。フィロメナが振り向くと、「フィロメナ様、また来てね」とノンナが遠慮がちにそう言ったので、フィロメナは笑顔でそれに応えたのだった。


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