009.許すために許されたい
次の日の夕方、ベッサリオン家に帰ったフィロメナは、王太子からの委譲を受けたアスヴァルから事の顛末を知らせる書状を早馬で受け取っていた両親にあたたかく迎えられた。母はフィロメナを優しく抱きしめ、父はフィロメナの肩に優しく手を添える。
「お父様、お母様、申し訳ございません。ベッサリオン家の名に泥を塗ってしまいました」
「何を言うんだ、フィロメナ。わたしたちはおまえの幸せが一番大切なんだよ。おまえが辛い結婚をしないで済んだのだ、何を謝る必要がある?」
「そうよ、フィロメナ。一番辛い思いをしたのはあなたなのだから、今は他の余計なことは考えずゆっくりおやすみ」
「色々な手続きはわたしがやっておくから、フィロメナは安心して身体と心を休めなさい」
両親の優しさに感謝しながらフィロメナは自室に戻った。
ようやく一人になれたフィロメナは自室のカウチに腰かけて、小さく「……疲れた」と呟いたが、それは誰に聞かれるでもなく空気に溶けて消えた。
***
次の日の朝、フィロメナはいつもの庭のベンチで座って考え事をしていた。
本当に、すべて終わってしまったのだ。
舞踏会での出来事があまりにも衝撃的すぎて、今でもなんだか現実味を帯びておらず、なんとも不思議な感覚がする。もう、このベンチにイグナティオスと一緒に座って話をすることもないんだ、と思うと、フィロメナの心にぽっかりと穴が開いたような気がした。
確かに、彼は酷い人だったかもしれない。恨んでいないと言えば嘘になる。でも、彼をそうさせてしまったことに、少なからず自分にも責任があるということをフィロメナはちゃんと理解していた。だからこそ、辛く、苦しい。もっと彼の気持ちを聞いていればよかった。両親や侍従やイグナティオスに庇護されて、ぬくぬくと暮らしていた自分には言えないことがたくさんあったのだろう。家庭教師の件だって、そんな理由があったことは知らなかった。イグナティオスは傷ついていたのに、フィロメナはよかれと思ってイグナティオスに勉強を教えていたが、イグナティオスはそれが辛かったのだ。
知らなかった。
知ろうとも、しなかった。
「ごめんなさい……イグナティオス様」
フィロメナは震える声でそう言って、涙が溢れる両目を抑える。
人の痛みに鈍感な自分は、幸せになる資格なんてない。
本当は、フィロメナは自分のことを可哀想だと思っていた。
普通の人は、盲目になんてならずに普通に生活している。でも、自分にはそれが出来ない。本当は、自分がいちばん、自分をみじめだと決めつけていた。でも愛されたいと願っている──そんな自分が嫌いだ。
イグナティオスとの婚約が破棄されて、ようやく自分の心のほの暗い部分を見つめることが出来たフィロメナは、小さな子どものように声を出して泣いた。
***
数か月が経ち、フィロメナは多くの感情を少しずつ昇華し続け、ようやく心の平穏を取り戻しつつあった。その間に年も明けて、いつの間にか2月も終わりに近づき、厳しい冬ももうじき終わろうとしている。今年、フィロメナは18歳になるが、フィロメナの新しい婚姻相手は未だ見つかっていない。一応、いくつかの貴族の令息から婚姻についての打診があったが──到底婚姻を考える気持ちにはなれず、すべて断っていたのだ。
イグナティオスとルイーズからはそれぞれ相場よりやや高い慰謝料を支払われた。イグナティオスからは現金を、ルイーズからは慰謝料相当分の価値のある宝石や貴金属を。イグナティオスの慰謝料は彼の父親が肩代わりしたようだったが、ルイーズは「自分の不始末は自分で」との想いから、父親に肩代わりをしてもらわずにルイーズ自身が所有しているジュエリーで以て支払いに充てたようだということを父づてに聞いた。
イグナティオスからの慰謝料には、手紙が添えられていたようだった。
ベッサリオン子爵は手紙を代読しようかと提案したが、フィロメナはそれを断りそっと暖炉にくべてしまった。
フィロメナは、二人からの慰謝料に関してはすべてベッサリオン領内の孤児院や医療施設に寄付する意向であることをベッサリオン子爵に伝えて、ベッサリオン子爵もそれを了承した。フィロメナは、ようやくこれで本当に終わったのだ、と肩の荷が下りたような思いでほっとした。
外の冷気ですっかり冷たくなった窓をなんとなく指でなぞりながら、ふとアスヴァルや他の辺境伯夫妻のことを思い出す。あのとき、アスヴァルたちがいなければ、きっとあのとき冷静ではいられなかったのでとても感謝しているのだが、彼らのことを思い出す度あの日のことが思い出されて辛くもあった。カテリーナやリズベットが約束通り領地へ招待もしてくれていたのだが、辺境の地は遠い。今季の冬は厳しいものだったので春が来るまでは、と丁重に辞していた。
──アスヴァル様の領地も、寒さは厳しいのだろうか。
フィロメナは、アスヴァルが体調を崩してなければいいなと思ったけれど、抜かりないアスヴァルが体調を崩すとも思えなくて、要らぬ心配かと思いなおす。そして、イグナティオスとルイーズのことも思い出して、胸がちくりと痛んだ。フィロメナは相変わらず社交界に出入りしていないから、二人の噂を聞くこともなかったけれど──二人とも、心安らかに暮らしていて欲しいと願っていた。怒りがないわけではなかったが、それでもそう願わずにいられなかった。それが自分の心への許しにもなるだろうと、フィロメナは思っていた。
「フィロメナ様」
ノックの音とともに、落ち着かない様子の侍女がフィロメナの名を少し早口で呼んだ。
「フィロメナ様にお客様が──アスヴァル・バルジミール辺境伯様が……」
侍女はフィロメナの返事も待たず、ドアの向こうからそう言う。フィロメナは驚いて、小走りでドアに駆け寄った。その途中で、うっかり足をカウチにぶつけてしまい痛い思いをしたが、それに構っている場合ではない。
震える手でドアを開けると、侍女が「応接間にお通ししております。フィロメナ様、お手を」と言ったので、フィロメナは急いで侍女の手をしっかり取った。
「こんにちは、久しぶりだね」
応接間に着いたフィロメナは、自分でも驚くほど胸がどきどきしていた。アスヴァルのことを考えていたら、まるで想像からアスヴァルが飛び出てきたかのようなタイミングでの訪問だったからだ。後ろで侍女が静かに応接間の扉が閉める音がする。フィロメナは「ご無沙汰しております、アスヴァル様」とうやうやしくお辞儀をしてから、震える足を隠しつつソファに座った。
「単刀直入に言うが、辺境伯としての職を続けるにあたり妻を娶るようにと沙汰があった。辺境伯という職責の高さから、その妻の人間性や家柄の高さも当然に求められる。そこで、フィロメナ、きみが候補にあがった」
「え……」
「だが、宮廷内から推薦があったとはいえ、その人となりや辺境伯の妻たる適性を測るための審査がある。きみがこの話を受けてくれるのであれば、ぼくの領地において二か月の審査期間を経て、最終審査を受けたのち、適格である判断を下されて初めて婚約することとなる」
「ごめんなさい……突然のお話で、頭が混乱していて……私にそんな重大なお役目が、務まるのかどうか……」
「とても大切な話だから、すぐに答えは出さずともいい。無理強いをするつもりはないから」
アスヴァルの真摯な言葉が、戸惑いを隠せないフィロメナの心に優しく響く。アスヴァルは、いつだって優しかった。ただ優しいだけではなく、フィロメナ自身を見てくれていると感じたし、そんなアスヴァルともし夫婦になれたら、お互いを慈しんで過ごせるような予感がした。
けれど、目の見えないフィロメナがアスヴァルの元に嫁いで、その責に見合う働きが出来るのだろうか。きっと、出来ない気がする。
「だが、ぼくはきみが妻になってくれたら、とても嬉しいと思う」
その言葉に、フィロメナの胸が大きく高鳴った。顔が熱くなるのがわかる。きっと、顔が赤くなってしまっていることだろう。フィロメナは赤くなったであろう顔を隠すように両手で頬を覆ったが、胸の高鳴りはおさまるどころかさらにうるさく鳴り響く。
「わ、私も……アスヴァル様のおそばにいられたら、とても嬉しいと……思います」
そう言うのが精いっぱいだったが、アスヴァルは「よかった」と応えた。
「それでは、一緒に来てくれるね?」
「……はい」
フィロメナははっきりと、そう答えた。自分の人生は自分で選択しなければ──とフィロメナは思った。彼女に、自分の人生に対する責任が芽生えた瞬間だった。
***
遡ること一週間前、ヴィレウス王子とアスヴァルは二人きりで政治的な談話をしたときのことだった。息抜きに他愛ない談笑に興じていたとき、ふと、ヴィレウス王子が言った。
「ずっと気になっていたんだが、アスヴァルに結婚したい娘はいないのか?」
口を酸っぱくして早く結婚しろと言っているのに、結婚どころか誰ともお付き合いすらしていないけど、と紅茶を飲みながらヴィレウス王子は付け足した。爽やかな笑みを浮かべながらアスヴァルの答えを内心わくわくしながら待つヴィレウス王子をちらりと見てからアスヴァルも紅茶を少し飲んで、事も無げに言った。
「おりますよ」
そのアスヴァルの答えを聞いてヴィレウス王子はますます破顔し「誰だか当ててみせようか!」とうきうきした。
「フィロメナだ」
アスヴァルが何かを言う前にヴィレウス王子がそう言ったので、アスヴァルは小さくため息をつきながら「そうですね」と素っ気なく言う。やっぱりなあ、とヴィレウス王子は目を細めつつ「それなら結婚すればいい。彼女なら家柄も人柄も申し分ないし、何よりヴェルスルやクローハイトは早くに妻を娶っているだろう?アスヴァルだけ妻がいないから、気になっているんだ」と気軽に言った。
「わたしが妻を娶らなかったのは今も昔も人間不信だからです。特に社交界の女性は見た目で他人を値踏みする御仁が多いので、結婚だなんて心の底から嫌ですね。彼女に会うまでは、特に結婚する気はありませんでした」
「でもフィロメナならいいんだ。何故?」
「彼女はわたしの恩人だからです」
どういうことだ?とヴィレウス王子は身を乗り出したが、アスヴァルはそれきり口をつぐんでしまった。もう聞くな、ということなのだろう。ヴィレウス王子は気になって仕方なくなり、ねだるような眼差しをアスヴァルに向けたが全て無視されてしまったので諦めることにした。
「問題は彼女の心の傷……か」
「そうですね。ですので、特に彼女に求婚する気はありません。元々、彼女が幸せなら声をかけようとも思っていませんでしたので」
そんなつれないことを言うアスヴァルに、ヴィレウス王子はその大きな目を見開いてアスヴァルの肩を掴み、真剣な眼差しをした。
「それはいけない。これは王太子命令だ、早くフィロメナに求婚しなさい」
「心の傷云々とおっしゃったのはヴィレウス様でしょう?お断りいたします」
「いいや、バルジミール領を治めるのに賢い妻の存在は必要だ。それに、どのみち辺境伯の妻になるのは審査が必要だろう?早く声をかけないと、彼女が他の貴族と結婚して手遅れになったらどうするんだ」
ヴィレウス王子にまくし立てられ、アスヴァルは観念したようにため息をついた。
「……では、ベッサリオン子爵に書状を出します。明日にでも」
「明日?さすがアスヴァル、早いね」
いつかと同じようなことを言って、ヴィレウス王子はにっこりと笑ったのだった。