君だって
数千年前、世界はまだ一つで神と人は個人的な親交を持つことがあった。
ただ、冥府の住人は例外であった。死に近いその性質が生きる人間たちに影響を与えないように距離を置いていた。
タナトスは道半ばで死んだ巡礼者の魂を回収しようとしていた。苦痛が消えた善良な魂を冥府に誘うべく地中に消えようとした刹那、幼い少女と目が合う。綺羅星のような焦げ茶の目はタナトスにとって印象的ではあった。
数日後、あの森で仕事をしていたタナトスはまた少女と出会った。
「神…様?」
ローブを目深に被ったタナトス神が振り向く。あの時の少女の装いはよく見ると、同じ年ごろの子より上等の布を身にまとっている。紫や青の布にはきめ細かく繊細な刺繡が施され、髪も綺麗に纏められてることから位の高い娘だと分かる。
「どうした」
話しかけてきた人間を無視するわけにも行かず、声をかけるが長居する気もないタナトスは立ち上がってまだ十もいかぬ子供を見下ろした。
「数日前、御姿を拝見しまして…」
俯きがちに喋る様子に、黒いローブに覆われた自分の姿に怖がっていると思ったが、元よりそのつもりだったタナトスはまた「そうか」と答えて地中に潜ろうとした。
「あのっ!もう一度、お会いすることはできますでしょうか」
意外すぎる言葉に踏み出した爪先に僅かに力が入る。直接人の前に姿を現したりする仕事てはなく、司る意味からタナトス神は神殿を持たない、もっとも彼女が彼をタナトス神と理解っているのかは不明だが。
「知らぬ」
冥府は常に多忙だ、彼の言葉は真実でそして地上の者にいらぬ影響を与えないためのものでもあった。今度は完全に踵を返して冥府に戻ったタナトスに少女の顔は見えなかった。
そうしてまた幾数日が経った頃、三回目の出会いだった。また死者の魂を迎えにきたその後ろ姿を逃がすまいと少女は摘んで作ったのだろう花束を供物のように差し出す。
「お話を…させて下さい!」
花は澄んだ朝露を身につけている、まるで今さっき用意していたようだ。少しの沈黙の後、ようやくタナトスは口を開いた。
「毎日、そうしていたのか」
「あっ、私が差し出せる物がこれしか思い浮かばず…」
返事にはじめてタナトスはその膝をおって花弁を指先で優しくすくう。
「終わった命は見慣れている。私に献上したいというなら、今、咲き誇る命を見せろ」
口調とは裏腹に、ローブから覗く目は優し気で灰色の瞳が陽の光を受け入れている。
「私、間違えてしまったのでしょうか」
少女には少し難しかったようだが、何かやってしまったというのは読み取れたらしく落ち込んで、花束を持つ両手を力なく下ろす。
「花を愛でることは嫌いではない」
生きた人間の相手は得意ではないができるだけ優しく少女の両手から花束を引き抜く。
「…」
少女はタナトスが花束の花を慈愛に満ちた目で見つめるのを息をのんで見ていた。
「供物は要らない。次にいつ会えるのも知らぬ。だが、私がここに訪れた時にお前を見かけたら、少しばかりとどまっても構わない」
それを聞いた少女は輝くような笑顔を浮かべた。
「タナトス様!新しく花が咲きましたの。ご案内致しますので、こちらへいらしてください」
「走るなカッサンドラ」
少女、カッサンドラはトロイアの王女だった。お転婆な姫君は度々、使用人たちの目をかいくぐって森へ出かけた。タナトスに言われた通り、生きる者たちの生き様を愛で、特に愛したものを彼に見せた。
「綺麗でしょう?」
「そうだな」
群生する花々の前に座り、通りがかる動物たちを視界の片隅で追った。冥府には無い草花の匂いと生きる者の息遣い、足音がタナトスのローブから内側へと侵入していく。午後の光とカッサンドラを眩しそうに見るタナトスは、初めて自分の主たるハデスが地上の者を妻にした理由がほんの少しだけ分かった気がした。
彼女が年頃と呼ばれる女性になっても、カッサンドラにとってタナトスは良き理解者であり助言者で、神殿が無くとも信仰する神であった。
「あのね、タナトス様」
「どうした」
「私、アポロン様と恋仲になりました」
「…そうか」
アポロン、その言葉に微かに反応したがカッサンドラは夢見心地のような目をしており、語るのに夢中だ。アポロンに泣かされた女を数多く見たことがある者としては気が気でない。しかし、冥府の神に色恋沙汰が得意な者はほぼいない、口出しなどできなかった。
その頃から死者が増え始め、タナトスはカッサンドラと会えない日々が続いた。お気に入りの人間をどれだけ気にかけていようが、タナトスは冥府の神らしい勤勉な性質と彼の母たる女神が一柱で生んだ子供の一人という特異な出自、愛憎を理解するのが困難だった。そして気が付いた時には手遅れだった。
カッサンドラの恋の末路は酷かった。アポロンは恋仲になった記念にと彼女に予言の力を与えた。しかし、その力で彼女はアポロンが自分に愛想尽きる未来を見てしまった。先にある辛さを回避したがった姫君は咄嗟にアポロンを拒絶した。彼の怒りを買い、「誰も予言を信じない」という呪いを受けてしまう。
アポロンに捨てられたカッサンドラは、トロイア滅亡の未来を見るも当然誰も信じない。彼女が縋れる相手はもう神しかいなかった。
「タナトスさまぁ、おはなしをさせてください」
迫る戦火が見えようとタナトスと語らった森に赴いた。
「タナトスさまぁ、おはなしをさせてくださぁい。おはなしをきいてくださぁい」
溢れる涙もそのままに、乱れた髪で森の草花の間を歩く。タナトスは死者の声に応える、生者である彼女の声は遠すぎた。
「タナトスさまぁ、いちばんきれいなおはなです」
泣きじゃくる娘は幼児返りしたような声だが、群生と連なった花々を摘み取ることはしなかった。その根を、茎を、折らぬように抱きしめ花束のようにかかえる。地面から離れぬ花々を抱えている姿は、膝を付け頭を垂れていてまるで祈るようだった。
タナトスが彼女を訪れたのは全てが終わったあと、もう呪いで眠りについたあとだった。
予言を誰にも信じてもらえなかったカッサンドラは神に祈った。花の女神であるクロリスがその声を聞き、応えようたとしたがアポロンの元恋人であると知ると、「あんな碌でもない神と恋仲になるような娘なぞ」と皮肉にも半分彼女の願いを叶えるかたちでカッサンドラに呪いをかけた。
眠りと引き換えに茨を城内に張り巡らせ、防壁を作った。しかし、人間はそれを虚言を吐くようになったカッサンドラに天罰が下ったとみた。結局は防壁代わりの茨も成す術なく壊され、唯発生源となったカッサンドラと彼女の周辺の茨が残ったのみになった。
「クロリス、あの子の呪いを解いてやれ」
「嫌よ、アポロンが私たちに何をしたか知ってるでしょ?あの忌々しい男の恋人なんて」
「アポロンの呪いであの子は充分苦しんだ、これからも苦しむ。あの子が起きて目にするのは、滅んだ祖国と各地に散った家族だ」
「あら、なら余計眠らせておくのがよろしいんじゃなくて?」
「あそこまで神の呪いの重ねがけをされると寿命がきても魂を連れていけない」
「なんと言われようとも解く気はありませんからね。だいたい、それなら最初に呪いをかけたあの男のところに行きなさいな」
花の女神、クロリスはアポロンに家族を殺されている。その恨みと一度行使した力を撤回などできないという神としての誇りが邪魔していた。
「アポロン」
「嫌だね。神の愛を疑うなど不敬にもほどがある」
いつ何時も光り輝く男神は噂を聞いたのだろう、名を呼んだだけでタナトスをはね除けた。
「あの娘が行使したのは神であるお前が与えた力。神の力をお前が疑うのか」
「どうとでも言いなよ。僕はあの娘の呪いなんか解く気ないから」
アポロンにもクロリスにも拒絶されたタナトスはただ業務に戻っただけだった。
「結局放っておくのかい?」
五十年が過ぎたあたりでタナトスの同僚であるカロンが声を掛けた。
タナトスが冥府に連れて来た死者をハデスらがいる場所に運ぶのはカロンの仕事、ちょうど岸に着いた際に見かけたタナトスの後ろ姿はいつも通りでそれがカロンの興味をそそった。
「魂は回収する」
タナトスの声に抑揚はないがいつものことだった。
「どうやって?」
カロンもタナトスも忙しい身、カロンはタナトスによく友人にやるように声をかけるが、タナトスは事務的に返事をするばかり。今回ですら、そうだった。
「世界から人の世が剝離し始めている」
「そうだね」
深い冥府の底からは見えないが、外に出ると星や山。押した判を剝がしていく時のように今いる世界と全く同じ景色が、それぞれの頂を点として、輪郭線が流れ星のように薄く流れていた。違うのはあの線が消えることはないということ、寧ろ日を増して濃くなっていき、いずれ別世界が出来上がる。
「魂はいずれあそこにも昇る」
「僕たちの分も含めてね」
カロンの縄張りでもある河の水が上空へと昇っていく横で二人は話している。
「お前もいずれ昇るだろう」
重みに逆らう水を指差してなぞるタナトスの動きをカロンの目が追う。
「僕の分霊がね」
「私も昇る」
剥離されていく世界だけを見上げながら告げられた言葉にカロンは好奇心で目を輝かせて、タナトスの横顔を見る。
「今まではここまで死者を連れてくるだけだったが、次からはお前に引き渡す」
「今までと何が違うのさ」
「…お前の目を見る」
「ちょっ、それ、ほんと?!あっー、可笑しっ」
一瞬の沈黙の後、放たれた言葉にカロンがふき出す。
「まぁ、僕ら神の定義なんてそんなもんだしね、出自から司る領域や意味を持つ過程がまともな奴が少ない。充分でしょ」
幾年月が過ぎて今がある。
「いつからだ?」
僅かな沈黙の後、架論は答えた。
「君たちが初等部に入ってから。奇跡的にあの時とほぼ同じ関係性を、君たちは築いていた。これを逃せばもうチャンスは無いって確信したよ」
「俺に未亜を見殺しにしろと?」
「違うよ」
識途の頭の中に共有された記憶が駆け巡る。今目の前にいる架論が浮かべている表情は、向こう側の自分が飽きるほど見た、自分が絶対と確信して疑わない神のそれだ。
「君が引導を渡すんだ」
識途の持つ神性、タナトスは魂を冥府に連れていく。本体であるタナトスと記憶の共有ができた時点で架論と同じく、俗界でも本体の力が使えるようになった識途。架論は未亜を亡き者にし、魂を引っ張れと言っているのだ。
「人間でいたかったのなら、君は奏くんを傷つけるべきだった」
「つけてたのか」
「当たり前でしょ。君が思い出せるかに全て懸かってたんだから」
すっかり夕日が廊下を染め上げ、高等部の授業も中盤に差し掛かろうとしていた。
「だけどお前は慰めることを選んだんだ。生者の道には立たない、信条の一つだろ?」
「…クロリスはこっちに」
「いないよ」
識途の逃げ道を塞ぐように即答する。
「そもそも人間のと違って神の魂の写しがそう早くに巡るわけないでしょ。やっと”渡し”の能力を持たない神が現れたとこだよ。それに能力を持ってない奏くんやクロリスの神性を持つ人間には呪いを解けない」
「…とりあえず今日は帰る。まだ時間は残ってるからそれまで何か、何か考える」
「そうだね、時間はある。短い時間が。まぁ、君は絶対に自分の神性には逆らえない」
叩きつけたときの怒りようはどこへやら、すっかり元の軽薄そうな古典教師に戻っている。
「識途くん、憎んでいいよ。恨んでもいい」
優しい、と勘違いしてしまいそうな柔らかな笑みを架論が浮かべる。
「君は選ぶから」
乱れた服装を直し、しょった鞄越しにちらりと一瞥だけして足早に彼の元から離れる。廊下を曲がると響いて気付かれるのも構わずに駆け足になっていき、気が付けば校門を全力疾走で飛び出していた。
家に帰ってきた息子が肩で息をするのを見て、両親も家政婦もまだ登校は早かったかと心配していたが、それを大丈夫だと押しとどめて自室に戻る。立ち尽くしてシャワーを浴びながら今度はぼうっとしていた。
あの男が言う通り、本体のタナトスのように自分が人間に人のような感情を抱くことができないのであれば、それはつまり今まで出会ってきた人間のほとんどを無意識に見下してということにならないか。そこまで考えて、罪悪感に今度は襲われる。
何とか髪の手入れにうつれた識途はカッサンドラのことを考えていた。未亜を昏睡状態から目覚めさせることができたとしても、魂の本体であるカッサンドラが正常でない限り未亜に未来はない。いずれまた同じような事になって若くして死ぬのだ。何より一番の問題が本体の肉体が本来なら死亡している状態であることだ。魂を救ったところで正常に戻った肉体は急激に朽ちて結局、カッサンドラ共々、未亜は死ぬのだ。
まともに寝ることもできず、疲れた頭で登校した。その日は架論も忙しいのか猶予を識途に与えているのか、一回も姿を見せなかった。ほぼずっと上の空で過ごしたはずなのにまだ疲れが抜けず、対策を練らないといけない脳はとっくに限界を見せていた。識途は自宅に向かって動かしていた足をふと止める。どこか別の場所に身体が行きたがっているように感じたのだ。後ろを振り返り、歩き出す。考えず、身体が行きたがっている方向へ歩を進める。そうして、辿り着いたのは未亜の屋敷だった。
門番の人が誰かに知らせてを入れてもらおうかと尋ねてくる。一瞬、ご厚意に甘えようとするも未亜ほどの実家相手にアポも取らずに訪問というのも気が引けた。ましてやこの事態だ、引き返そうと思った矢先、見知った姿が見える。
「おばあ様」
「庭師がお前の姿が見えたというから。早く入りなさい」
夕暮れの庭をとぼりとぼりとおばあ様の後ろを着いて歩く。いつも未亜と茶会をしていた部屋を通り過ぎてもっと奥へおばあ様は歩を進める。
一番奥の部屋、ではなくその左横に少し小さめの扉がある。今まで等間隔に並んでいた扉から急に無理やり押し込めたような空間に繋がっているであろう少し歪で小さい扉の登場に識途は少々驚いた。
入ると一見、普通のこの屋敷らしい部屋だ。夕日色に合った煉瓦に近い落ち着いた赤を基調とする家具に、外からの光によく染まるクリーム色の壁。二人ほど腰掛けられそうなソファのような横長の椅子とその上に置かれたクッションは静かに二人を歓迎しているように見えた。
おばあ様はクッションを持って座ると、ぽんとその横を叩いて隣に座るよう促す。おばあ様らしからぬ仕草にまた識途は戸惑いつつも腰掛ける。落ち着いた座り場所を見つけると、おばあ様がクッションを渡す。受け取るも、肘置きなどにすれば姿勢がみっともないことになる。その絶妙な感触を手で堪能するにとめた。
「ここは…」
やっと声を出したおばあ様に反応して識途がぴくりと反応する。
「祖父が作った部屋です。ここには勉強机がなくて、日当たりはいいけど外の景色は見えづらい造り、ここだけ違うでしょう」
時計もない部屋は世界から切り取られたようで、置いてきぼりにされるも先へ行くも自分次第のようだった。
「解放されるために、考えるために、踊るために、想うために通ったと聞きました」
息苦しさなどない、だけど何もない気もしない部屋。大切な話をされているのに緊張感が背中に手をかける度にそぎ落とされていく。
「未亜にも、ここの事を話しました。もっとも、あの子には必要ありませんでしたが」
「未亜は、誠実でしたから」
未亜は何事にも真面目で、常に努力に報いがくるような生き方をしていた。優しい考え方で他人の意見を頭の中で転がして自分の中の一部にすることも共存することもできる。
「お前がそうさせたのです」
「え」
ここ最近はおばあ様に驚かされるばかりだ。夕陽が眩しくなっておばあ様の顔を光が覆った。
「大層、美しかったそうですよ」
目を細めても光は衰えない、世界の中にある色んな仕切りが消えて一つになっていくようだ。
「お前の顔が…」
「かお?」
特段美しい造りをしていないと思ったが、おばあ様の発する次の音を待っている。
「何かが、あの子を誠実にさせたのでしょう」
光がおさまり、再びおばあ様の冷静で気品ある横顔が見える。
「人は人に、世界に誠実でありたいと思えるものに出会える時があります。でも、十になる前に見つけられる人間なんて早々いない。永遠に、何があっても美しいと思える景色を胸に秘めてあの子は生きてきました」
識途には不思議でならなかった。あの時、救われたのは識途で彼女に特別なものを魅せた覚えは全くない。
「あの子は恵まれてみえますか」
由緒ある家に生まれ、両親がほぼいない屋敷で使用人と厳格な祖母に育てられる。学校では多くの人に慕われていた。
「おばあ様だって誠実だった」
「祖父は、大事なものを遠ざけぬよう生きてきました。あの人は柔軟に生きてきたらしいけど、私には…あまり向いていませんでした。私にとって一番確実に相手に尊重の気持ちを伝える方法は、相手自身を自分なりに可愛がることではなく、その人の好きなものを尊重することです」
未亜や周りの人の肯定のおかげで識途は、自分の趣味に少しずつだが忠実に生きてきた。古くからある未亜の家の付き合いの中には、当然笠原家と同等の歴史を持つ家もあって未だに古風なしきたりや教えを引き継いでいる。家政婦を雇えるほどの所得のある識途はただの裕福な家で、当然彼の恰好を見て眉をひそめる者もいた。
識途自身、当時は息苦しさを感じていた。だが、未亜の前で自分を曲げることのできなかった識途は、付き合いを断たれようが貫き通す覚悟をしていた。その外野たちを黙らせたのがおばあ様だった。
「お前のことは憎からず思っておりました。えぇ、変わり者と言われていた祖父によく私は話を聞かせてくれとねだっていたものですから」
少しばかり早口になのはおばあ様の照れ方なのだろうかと識途の頬が緩む。
「だから、未亜とお前の付き合いにも口を出しませんでした」
「だけど、お前の事ははっきり言ってどう大事にすればいいか、私のような人間には分かりません」
そこまで言葉を聞けて、識途は納得がいった。このピアスは、自分がこういうアクセサリーを好むことを知っていて、「知っている」を示すことがおばあ様なりの尊重と愛情の表現だった。
「おばあ様、この間の話なんですが…」
人肌を色にしたような暖かさが部屋の空気になじませるように溶かされている。
「俺はやっぱり、未亜の前では変わりたくないんです」
ようやく向けられたおばあ様の目は静かで、ただただ聞く人の目だった。
「それは、無理をするということでも自分を偽ることでもないんです、俺にとっては。未亜が肯定してくれて愛してくれて、でもそれ以前にこれが俺なんです」
識途は確かに怖がっていた、自分という世界を確立させることを。だが、実現させることに恐怖していただけで、「己」は既にあったのだ。未亜が愛した識途は後から作り出されたものではなく、最初から存在していて誰よりも早く見つけたのが未亜だっというわけだった。
「どうか残念に思わないで下さい。俺もただ誠実で在りたかった。俺は幸せだったんです。だからっ」
識途の目が熱くなり、膜が眼の上に張る。
「俺が望んで未亜も愛してくれた俺をどうか見ていて下さい」
識途はずっと自分は未亜に出会ったと確信していた、しかし逆だったのではないかと思いはじめていた。彼女の本心が分からない以上、どこまで自分たちが正確に神代でのことをなぞったか不明だ。
最初に、タナトスに話しかけたのはカッサンドラだった。彼女たちが識途たちの中に、何を見出したのか、それは本人たちしか知らない。
「お前がそう言うのなら、そうでしょう」
翌日の放課後、架論の後ろ姿を見つけた識途が声をかける。
「カロン」
「思ったより早く決めたじゃないか、ん?」
識途の顔を見て、満足そうにうんうんと頷く架論に唐突に封筒を突き出す。
「追加料金。記憶の共有は済んでるから計画はどんなもんか知ってる。ただここは識途のやり方でやらせてもらう。ネクタルとあと…」
識途の注文を聞くと納得した顔で封筒を受け取った。
「まぁ、渡し賃頂いたならその要望は通すよ。タナトスには話したの?」
「記憶は共有した」
「うっわ、そういうとこ!あんだけワーワー君、言ってたけどそういうとこが傲慢なの!」
「知ってる」
「…」
まだ何か文句を言おうとした架論だったが、識途の表情を見ると一瞬、微かに瞳孔を震わせ静かな空気になった。
「もう、すっかりこっち側だな」
数日後、桶に入ったネクタルと美しい細工が施された現代風の口紅があの井戸の底から引き上げられた。
自室の洗面台で鏡に映る自分を見る識途は波一つ立たない水面のような澄んだ目をしていた。
「俺は、君の未来を見ることを諦めないよ」
たぷんと瓶に入ったネクタルを飲み干す。珍しくまだ飾られていない唇が湿った。
病院では命の期限が刻一刻と迫る未亜を、彼女の両親と古都音が見守っていた。
「おばあ様」
声に反応して古都音が振り向く。
「お願いしたいことがあります」
「…聞きましょう」
明らかに、纏う空気が違う。灯りとは違う光が識途の背後、いや彼自身から零れるようだ。古都音が手配してくれている間に最後の仕上げを済ます。
「神らしく、識途らしく、君を見送ってあげよう」
”あげよう”、それが死出の旅路への贐のつもりなのかと問いただしたくなる言葉も最早、口にすることに抵抗はなかった。
口紅を塗る。何回も幼い頃から練習してきた魅せ方、今さら失敗などしない。
いつもは開かない扉のドアノブがすんなりと開く。廊下よりも明るいその部屋に足を踏み入れると、ガラスの向こう側がざわつく気配がした。
顔は見えているものの、未だに頭や手足に包帯が巻かれている未亜に近づく。ベッドに腰かけると重みで少し未亜の身体が動く。意識のほんの片隅でまたガラス外のざわめきが強まった気がした。
「今すぐ追い出せ!」
「管理はどうなってるの?!」
未亜の両親が怒鳴り声を上げる。医師やスタッフたちが慌てて二人を落ち着かせようとしているその中心に古都音が近づく。
「おやめなさい、見苦しい」
「お義母様!」
「母さん、昔からなぜあの子を野放しにっ。今すぐスタッフを、ここを通せ!」
「私が許可しました」
「母さん!!」
「どうしてですか!」
もう外の喧騒は完全に意識の外、識途は未亜の酸素マスクを外した。意外にも健康そうな顔色が見える。
「…識、途?」
睫毛を羽のように震わせて、久しぶりに未亜は識途を目に映す。
「うん、俺だよ。未亜」
心からの微笑みを識途は浮かべた。それを見る未亜の顔は夢心地のようだ。ただ、その目の開き方は意識が覚醒した人間のものだ。
「…凄く…きれい…、あのときと、いっしょ…」
「…初めて会ったとき?」
「ううん、もう少しだけ…前。庭で死にかけた蝶を、掌に、のせてた、でしょう?」
いつもと同じ調子で会話をしていた。
「蝶を見る顔が…とても、きれいで、素敵だったの」
細りゆくはずの糸が紡がれていく。
「大丈夫だよって、言ってるようで、あんな顔を向けられたら、きっと、何も、怖くない」
「…俺は君に出会ったと、思ってた」
「私が、見つけたの」
苦し気にも、走り寄ってきた幼子の息遣いにも聞こえる未亜の声だけが響く。
「あんな素敵な表情、できる人が、口紅を付けるのを、怖がってた。どうか付けてって、思ったの。きっと、もっと、綺麗だから。私も、いつかって」
未亜の口数が増えていく。焦れていたいつかが今日、今になるのを本能的に確信しているのだ。
「うん」
「識途は、いつも、私のことを、子供扱いしたり、お姫様扱い、するけど」
まだ、終われないと未亜の目が言っている。
「本当は、識途の方が、もっとキラキラしてて、特別で、ほんとうよ、ほんとなの」
同じ人間に崇拝的な感情を持つことを許してほしいと乞うているようだ。
「未亜、それでいい」
誰よりも愛しんだ瞳が歓喜を上げる。
「途は俺が識ってる。君を連れていくよ。でも、これがさよならじゃない。また君は俺に逢うんだ。次も、何度でも、俺は君の行く先を見て、祝福を送るよ」
変わらず手入れされた綺麗な指先で未亜の髪を撫でて、その額をあらわにする。
「未亜、遅くなったね。おはよう」
そこに、初めて会った時のような明るい赤にも、これから向かう所を連想させるような紅にも見える口付けを落とした。
「識途…」
感嘆、感動、歓喜、それらが混じった息を美亜が大きく吐く。未亜が見たのは、あの日に識途が無意識に垣間見せた本性。彼女とカッサンドラが心の拠り所にしていた、世を生き抜いた者に与えられる笑み。
「とっても、素敵だったわ…」
柘榴、冥府の果実で印を付けられた未亜の魂は神代の河を下っていくだろう。識途のとっておきの案内で未亜が迷うことはない。
閉じられた目、鳴り響く心電図に悲鳴が上がる。病室から出た識途に彼女の両親が襲い掛かる。
「貴様ぁ!」
「この人殺し!」
「お黙りなさい!」
識途と二人の間に古都音が再び立ちはだかる。
「どうして!」
涙を流して訴えかける二人を憐憫と怒りの目で古都音が見る。
「躾終わった者を愛することほど、容易いことはありません」
凛とした声が場を打つ。
「反抗心に憎きを想うことも、愛しいと思うことも知らないでしょう。散々言って、手紙一つすら寄越さなかったお前たちが今さら子供扱いして、そう簡単に愛をほざくことを許すとお思いですか!」
まともに子供を知らぬまま旅立たれた二人が崩れ落ちた。医師や他スタッフがなだめているが時間がかかるだろう。
「識途」
後ろを振り向き、識途におばあ様が向き直る。
「…」
まだどこか人間離れした識途の雰囲気は無表情と言うには、何かが溢れている。
「お前たちにしか分かりえない、何かがずっとあったのでしょうね」
おばあ様の衣擦れの音。
一秒遅れて、識途が自身を抱きしめる腕に気づく。
「ありがとう」
音の意味を理解した瞬間、識途から溢れていた何かが形をもって流れる。
「うあああ゛っ」
回された腕をしかりと掴んで涙が喪失を訴える。自分がやったことに後悔はない、ただいなくなった事が悲しいだけなのだ。神として在ることを選んだ上で、泣き場所をくれた古都音に縋りつくことに躊躇はなかった。だってあの時、向こう側の彼だって泣いたのだから。