近づく
ポチャンと間抜けな音を立てて井戸に投げ込まれたのは十円玉。底を見ると他の誰かが投げただろう小銭が沈んでいて、今しがた投げ込まれたものはその他に混ざっている。
高等部の校舎裏にあるとうに使われていないこの井戸にも例によって、願いを込めて硬貨を投げ込めば叶うという噂があった。らしくなくそれにのって五円玉ではなく上乗せしたのは、半分切実な願いだったから。
見上げると高等部二年生の教室がある階の開かれている窓から廊下を歩く生徒たちが見える。その中の一人、笠原未亜、先祖に外国人がいたとかで金髪がかった髪が波打つお嬢様。
彼女の春風のような余韻を残して去った廊下を塗りつぶすかのような眩しさで視界に入ってきた男。たくさんの女子に囲まれてにこやかに歩く姿は絵になっている。
ふんっと一息つくようなため息をついてよく手入れされた指でスマホを操作した、教師に見つからないよう再び校舎裏の壁に身を潜ませる小柄な青年、船賭識途は憂鬱さを紛らわすように左手で自身の艶のある黒髪やピアスをいじる。スリープ状態の画面に一瞬映った顔は、成長途中が伺える幼さがみせる愛らしさがありながらも男子の顔つきをしていた
彼の認識では、未亜とは幼馴染と言えるほど深い仲でも歴のある関係でもない。しかし大事な人で彼女も弟のように可愛がってくれていると自負している。この間会った時、好きな人がいると未亜は識途に告白した。言われた時の衝撃、我ながら上手く隠したものだと睫毛の影が深くなる。
彼女が惚れている相手は悪い噂こそ聞かない、いや寧ろ部類としてはいい人にあたるだろう。識途の考察では、彼はプレイボーイ気質。学生同士の恋愛なんてあの人にとっては遊びでしかない。いっそ騙して何股もかけるような奴なら、遠慮せず未亜に「やめておけ」と言える。しかし、特定の相手も誰かと一線を越えたという話もこの噂好きがの女子が多い学校では聞かない。学年らしいデートをされてそれきり、という話はよく聞く。男女関わらず面倒見も良いし成績も優秀。良いとこの令嬢で蝶よ花よと育てられた夢見る少女である未亜に落とせる相手とは思えない。しかし彼女の純真さに当てられたらもしかしてと、思えなくもない。そうなったら見目の良いカップルとしてもてはやされる事に違いない。
未亜の恋路を邪魔するわけにもいかないが当たり障りのない助言しかする気もない識途は、今度逢う時のための新しいピアスやリング、彼女が失恋した時用のメイクやネイルについて検索していく。腹の内はともかく未亜にとっては変わらず素敵な人でいたいのだ。
五時限目の体育の授業が終わり、最後の総合の授業に出るために教室に戻っていく。先輩の周りを囲っていた女子を思い出しながら片手操作するスマホの検索バーは空白。タイプが偏っていないせいでどういう単語を入れればいいのか分からずにいた。そう無意識に本音まで未亜の理想通りであろうとする自分に識途は時折おり嫌気がさす。
まだ着替え終えていない人が多いのか、まばらな数の教室内の自席に戻る。後ろの方、かつ窓際位置を気に入っており今日のような指が動かない、動かしたくない時に画面を邪魔してくれる日差しがあるのは識途にとってありがたかった。
正直、識途自身今回ばかりはお手上げなのだ。面識がないだけなら接触して探りを入れればいいだけの話だが、あんな掴みどころのない人間を捕まえられるほど器用ではない。となればもう未亜の人柄に賭けるしかないなと諦めて予鈴と共にスマホをスリープにする。
識途は中等部の三年生、これから高等部に進むか他の高校を受験するかの道を決めると同時に将来も考えなくてはならない。一見、体育よりも余程年頃にとっては退屈そうな時間に出席することを選んだのは勿論未亜のためだ。彼女との繋がりを生涯にわたって途絶えさせない方法を考える時間を無駄にするわけにはいかない。
回された進路調査の紙の隅を、まだ芯の出てないシャーペンでコツコツと叩く。高等部に進む事は決定事項。問題は未亜の在学中ではなく、彼女の卒業後だ。彼女の親が経営する会社の社員にでもなるか特技を生かした職に就いて彼女の家に通うか。一番彼女が喜ぶのは後者だろう、幸いあの家で自分の存在はそれなりに認められている。よし、そうしようと複数の特技の中から条件に合いそうなものをリストアップすべく、他生徒より遅れてスマホを起動させる。素敵な人で在りたいのだ。
ネイリストや美容師など好きなお洒落に関しての職業をいつくか候補に上げて紙に書き込む。あくまで大まかな方向性を決めとけばスマホ中毒気味の手が勝手に隙間時間にでも検索するだろうと頭を休めた。
友人に軽く挨拶して今日は一人で下校する識途。未亜の家のような校風を気に入っているそれなりの家の人や裕福よりの庶民から小金持ちの家など、幅広い出の人間が通う大きな校舎-一つ一つの空間が大きく風通しや日当たりが良いせいか、身分違いでの価値観の衝突による喧嘩やいじめの話は聞かない-が小さくなっていくごとに今日の識途の中での存在を消していく。
「識途!」
とっくに迎えの車に乗って帰ったと思っていた人の声が後ろから聞こえた。
「未亜!」
咄嗟に振り向くと学校指定の鞄を持って朗らかに笑う彼女の姿がある。
「車は?」
彼女の方に自分から駆け寄っていく。
「今日は識途と一緒したいと思って、それにもし時間があったらでいいのだけど私の家で少しお話しできないかしら」
珍しい上品がかった話し方は、仕事で忙しい両親の代わりに幼い頃からよく面倒を見てきたおばあ様の影響だろう。識途も幼い頃、未亜に誘われて屋敷に行ってはぴしゃりと怒られるときがよくあった。
「お付きの人は?」
「お友達と帰るから大丈夫って言ったの」
「俺が先に帰ってたりしたらどうしてたの」
「ごめんなさい、最近私浮かれすぎているの」
少ししょぼんとした顔を見ると、それ以上は怒れない。だけど未亜は家が金持ちだし、彼女自身、見目がいいからもっと気を付けてほしいと識途は常々思っていた。
「いいよ。俺、時間あるから話し聞いてくよ」
五センチも違わない彼らの身長差なら楽に顔を覗き込める。今日は朝から気分が暗めだったせいか自然と選んでいた寒色系のメイクに少し不安を覚えながらも、未亜を見上げていつもより口角を上げて未亜を元気づける。きっと彼女のことだからおばあ様に話すだろうと早々に叱る役目を降りることにしたのだ。
「ありがとう」
笑ったのが上手くいったのか彼女も花が咲いたような雰囲気を取り戻す。
「いこ」
「えぇ」
彼女の家、屋敷は外国寄りでアーチ状のゲートが最初に見える。もう通るのも慣れたもので昔からいる門番に挨拶しながら抜けていくと庭が出迎えてくれる。これまた昔からいる庭師とも挨拶を交わしてやっと屋敷の玄関に着いた。おばあ様を筆頭に厳格な人たちが多いが、使用人との距離は近いこの家では庭師や数人の決まった給仕の人ならその姿を見ることができる。
「上がって」
「お邪魔します」
屋敷に入ってすぐには見えないが、近くにいるだろうおばあ様の気配を探りながら挨拶する。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
未亜を出迎え、鞄を持つために集まった数人のメイドの動きがいつもより早いことに緊張感が増す。
「おかえりなさい」
玄関ホールに響くしゃんとした声、おばあ様だ。
「おばあ様、ただいま帰りました」
「歩きで帰ってきたのね」
未亜よりも早く話題を出した事に思わず目を伏せたくなる。説教前の言い方だ、あれは。
「ごめんなさい、識途にお付きの人はと言われました。軽率でした」
そう言って頭を下げる頃にはメイドたちは離れたところに下がっていた。
彼女のその言葉でおばあ様がゆっくりと識途に視線を移す。
「お邪魔しています」
「来ていたのね、識途」
会釈すると不良よりだと言われそうなピアスと化粧をした格好をさして気に留めずに言葉を識途に投げかける。
「躾は貴方の方がよっぽど厳しかったのだけれど、分かっているのなら宜しい」
また未亜に視線を戻し重々しい空気を纏わせつつも、解放の言葉を告げた。
「ゆっくりしていきなさい」
歓迎しているのかよく分からない顔でこちらに向かって言うと仕事は終わったとばかりに去っていた。
「また怒られてしまったわ。識途、着替えてくるからお茶とお菓子でも召し上がって待っていて」
「うん、分かったよ」
メイドを引き連れて自室に戻る彼女の後ろ姿を見送ったタイミングで使用人が話しかけてきた。
「識途様、こちらに」
識途も使用人も慣れたもんで、幼い頃は庭、今は二階のちょっと離れた硝子扉で覆われた小さいドーム型の部屋に通される。広い屋敷の中だからちょっとした離宮と言いたくなるこの部屋は、ひいおじい様の代にお茶会のために作られたらしい。
入れようと思えば余裕で入る大きなテーブルじゃなくて丁度二人、頑張って三人分の広さのテーブルを置いたのは特別親しい人用のためなのだろうかと自分が未亜に抱いている希望に夢見たくなる。
白いテーブルクロスが敷かれたそれの前に、同じく白い椅子を引いて座る。ここに置かれた家具は全て純白で、初めて案内された時から変わらずの穢れなき姿だ。
この家ならいつもはもっと上品な菓子を食べているだろうに、摘まみやすい小さい四角いクッキーが用意されているのは自分に合わせてくれているせいか。注がれた紅茶が凪いでいるティーカップの取っ手に指を突っ込まないよう気を付ける。家での行動は外でも出ますよ、と最初に言ったのは識途の母親かおばあ様かと一瞬記憶が歩き去る。
「お待たせしました、識途」
ベージュ味のある白、真珠のような色合いのワンピース姿で現れた未亜に意識して優しい笑みを見せる。
「待ってないよ。お紅茶とクッキー、楽しんでた」
少々行儀は悪いが右手に紅茶、左手にクッキーを軽く掲げて見せると声を上げて喜ぶ。
未亜が座るため、椅子をそっと引いて早々に出ていった使用人もいない部屋の中、二人の笑い声が響く。
「それで、話って何?」
向かい合って本題に入ると未亜が頬をほんのりと赤らめた。
「あのね、陽希先輩とお出かけする事になったの」
陽希先輩、五時限目の眩い雰囲気の男を識途は思い出す。
拭ってスマホが入ったポケットに忍ばせていた手がこわばっていくのを感じた。