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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋止めの薬

作者: 村崎羯諦

「そろそろ恋止めの薬の処方を少しずつ減らしていきませんか? 吉岡さんはこの薬への依存が強くなってます。このままじゃ取り返しのつかないことになりますよ」


 医者が私を見ながら、念を押すような口調で警告した。私はぎくりとしながらも、なんとか平静を装って大丈夫ですと医者の提案を断った。いつも通り三ヶ月分の恋止めの薬を処方してください。折れてたまるもんかと思いながら私がそう言うと、医者は不快そうに眉をひそめ、言葉を続ける。


「確かにこの恋止めの薬は、惚れやすい体質に一定の効果のあります。薬を飲むことで恋愛感情という煩わしい感情に振り回されないようになって、毎日を穏やかな気持ちで過ごすことができるようになるかもしれません。でもですね、本来であれば薬に頼らず、失恋や別れを経験することで恋愛への耐性をつけるべきなんです」

「そんなことわかってます。でもですね、先生。私が惚れやすいという体質であることは事実なんです。薬を飲んでいなかった昔の私はちょっとでもかっこいい人がいたらすぐに恋に落ちてしまう、そんな人間だったんです。私に必要なのは正論じゃなくて、三ヶ月分の薬なんです!」

「でもですね。やはり、薬に依存してしまうと身体にちゃんとした免疫が……」


 どうしてもこの医者は私に薬を処方したがらないらしい。そのことに気がついた私は「もういいです!」とピシャリとはねのけ、そのまま診察室を出て行く。


「どうしても処方してくれないんだったら……個人輸入でもなんでもしてやりますよ!」


 そんな捨て台詞をはき、私は扉を乱暴に閉めた。そして、帰りの電車の中。何度目かわからないこのようなやり取りに苛立たしく思いながら、私は携帯で薬の個人輸入のやり方について調べるのだった。





*****





『恋止めの薬はその名前の通り恋を予防する薬です。恋愛状態の時に脳内で分泌されるアドレナリン、ノルエピネフリンなどを抑制し、恋愛に心乱されずに勉強や仕事に集中することができます』


 高校時代、失恋による精神不調で入院した時に知ったこの恋止めの薬。一時的な治療のつもりで始めたこの薬は、今の生活になくてはならないものになった。毎日決められた時間に恋止めの薬を飲むことで、恋のドキドキと引き換えに私は平和な日常を手に入れることができるのだから。


 恋をエンジョイする周りの人たちが羨ましくないと言ったら嘘になる。だけど、恋愛をする資格も意思もない私にとって、恋愛感情自体が不要で避けるべきものだった。


 私にはこの薬が必要だし、私が誰よりもそのことを一番わかっている。少なくとも、さっきみたいにおためごかしに依存しすぎだとか、免疫がとか行ってくる医者よりもずっと。


 私は早速海外から届いた恋止めの薬を開封する。ネットの紹介記事や翻訳サイトを駆使しながら、これが確実に恋止めの薬だということを改めて確認し、安堵のため息をつく。


 吉岡さんはこの薬への依存が強くなってます。このままじゃ取り返しのつかないことになりますよ。


 個人輸入した恋止めの薬を飲む前、一瞬医者に言われた言葉が頭をよぎる。それでも、私の何がわかるんだ、と心の中で反論し、私は届いた錠剤を水で流し飲んだ。


 この薬を飲んでいれば大丈夫。そう信じる私の元に、海外での偽装薬問題のニュースが届いたのは、個人輸入した薬を飲み始めてから二週間経ってからのことだった。






*****






 偽装薬のニュースを偶然知ったのは会社の昼休み中だった。携帯でネットニュースを流し読みしていた時に、偶然目が止まる。そこに書かれている製薬会社の名前を見て、私は自分の目を疑った。


 私は持ち歩いている恋止めの薬を取り出し、名前を確認する。そして、ニュースで取り上げられている会社のものだということがわかった瞬間、全身から血の気が引いていくのがわかった。


 最後にちゃんとした恋止めの薬を飲んだのはいつだっけ? 私は記憶を辿ってみるが、焦りと混乱で頭が回らなくなる。


「吉岡さん、顔色が悪いけど大丈夫ですか?」


 声をかけられた私は顔を上げる。そこでは隣の席に座っている同僚、大木健太が心配そうな表情でこちらを見ていた。


「……すき」

「え?」


 反射的に漏れ出た声に私は慌てて自分の口を塞ぐ。心臓がバクバクし、心配して声をかけてくれた彼を直視することができなくなっていた。


「す、すみません! 私、爽やか系の人が好きなので!!」


 このままじゃまずい。そう判断した私は席を立ち、逃げるようにその場を立ち去った。


 私は会社の廊下を小走りで進んだ。すれ違う男性社員の顔を見るたびに心がときめいて仕方なかったので、途中からは顔を俯かせて走った。だけど、廊下の角を曲がったタイミングで人とぶつかり、思わず尻餅をついてしまう。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


 私が謝罪しながらぶつかった相手に声をかける。ぶつかったのは同じ部署にいる松山裕子という女性社員だった。彼女が大丈夫ですと顔を上げ、目が合う。その瞬間、私は今まで一度も恋愛対象になったことがなかった女性に対し、恋に落ちてしまった。


「すき……」

「え? 好き?」


 大木健太とは違い、私の声が彼女に聞かれてしまう。やってしまったと私は顔を顰める。


「実は私も吉岡さんのこと頼り甲斐があるなってずっと気になってたんです。………こんな私でよかったらお付き合い───」

「す、すみません! 急いでるんで!」


 私は張り裂けそうな胸を必死に抑えながらそれだけ言って会社を飛び出す。しかし、街へ出ても状況は変わらなかった。行き交う人々全てが素敵に見え、1秒以上見続けるだけで好きになってしまいそうだった。


 あまりにも久しぶりの恋の衝動に私は過呼吸に陥っていた。そして何も考えられい私の目の前に、恋止めの薬を処方してくれそうな内科の病院があることに気がつく。一刻も早く恋止めの薬を飲まなければ。そう思いながらフラフラした足取りで病院へと近づいていき、そして玄関辺りで立ち止まる。


「ああ!」


 目の前にあった清潔感あふれる病院の内装を見て、私は膝から崩れ落ちる。


「なんて素敵な病院! 好き!!」


 とうとう人以外に対しても恋するようになってしまった私は這いつくばるように受付へ行き、助けを求める。そのまま私は素敵な看護師さんに案内されて、奥の診察室へと連れて行かれる。


 中に入るとそこには四十代くらいの男の医者が座っていた。もちろん私は会った瞬間に、その医者に対して恋をしてしまった。医者が私に症状を尋ねてくる。私は愛しさと苦しさが混じった気持ちで訳がわからなくなりながら、叫び声に近い声で医者に訴えた。


「恋止めの薬をください!」


 それから私は今までの経緯と症状を捲し立てるように説明した。医者がは相槌を打ちながら私の説明をじっと聞いてくれており、その真摯な態度が一層私の恋心を燃え上がらせる。


「恋によって感情が揺さぶられるのは日常生活に支障をきたすので、精神安定剤を処方しましょう。ただ……恋止めの薬は処方すべきではないと私は考えます」


 そんな! 悲鳴にも似た私の叫びに、医者は動揺することなく、落ち着いた口調で言葉を続けた。


「恋をすることは素敵なことです。それなのにどうして誰かを好きになることを止めようとしなければならないのですか?」


 医者が真剣な表情で私に問いかける。その表情にグッとハートを鷲掴みにされながら私はそこで言葉に詰まってしまう。どうして薬を飲んでまで恋心を抑え込まなくちゃダメなのか。私は記憶を辿る。そして自分が恋止めの薬を飲み始めたあの頃の記憶が蘇る。


「私は……恋をしていい人間じゃないんです」


 私が絞り出すように言ったその言葉に医者は肯定も否定もすることなくただ黙って頷いた。


「溢れる気持ちがどうしても止められなくなって、馬鹿な私は想いを寄せていた人に恋心を打ち明けたんです。ですけど、その時に返ってきた言葉が……気持ち悪いと言う一言だった。だから私はあの時理解したんです。私みたいな人間は恋をすべきじゃないんだって」


 医者がそうですかと呟く。


「この世に恋をしてはいけない人なんていませんよ」


 医者の言葉は私を包み込むかのように優しかった。


「人が人を好きになると言うのは自然の感情だし、どんな人間であろうとそう感じる権利があります。だから、薬で無理に恋を止めるなんてする必要はないんですよ」

「ですけど、私が十代の女子高生だったらまだ許されたかもしれないですけど、私のような人間が恋に振り回されたり、恋で頭がいっぱいになるなんて……自分で言うのもなんなんですが、いけないことなんだと思います」

「それは偏見ですよ」


 私の言葉に医者が答える。


「恋で頭がいっぱいになっているのは十代の若い女性だけ、なんてのは単なる偏見です。老若男女誰だって恋はしますし、恋でご飯が喉に通らないことも誰にだってあるんです。みんな恋をしているんです。もう一度言いますよ。恋で頭がいっぱいになっているには若い女性だけなんてのは単なる偏見で、思い込みなんです」


 医者の力強い言葉。その言葉を聞いた瞬間、私の胸がどこかすーっと軽くなるような気がした。そして先ほどまではただただ苦しいだけだった胸の痛みも、この感情を受け入れた瞬間、痛みは消え、代わりに晴々とした爽快感すら覚えるようになった。


 私は恋をすべき人間じゃない。


 私はいつの間にかそう言って自分自身に呪いをかけていたのかもしれない。そう思うことで昔の失恋の痛みから、そして今の自分の感情から目を背けていたのかもしれない。


「ありがとうございます。先生。なんだか……目が覚めたような気がします。こんな私でも恋をする権利はある。だったら、いっそのこと徹底に恋にのめり込んでやります!だから、その手始めといったらなんなんですが……」


 言葉を続けようとしたところで昔の辛い記憶が蘇る。それでも私は勇気を振り絞る。私にも、いや老若男女全ての人間に恋をする権利がある。私はそう自分に言い聞かせ、言葉を続けた。


「先生のことが本当に好きです。お友達からでいいので、お付き合いしてもらませんか?」


 医者は私を見て、それから少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「吉岡さんは人としてとても魅力的な人だと思います。ただ……」


 医者は私の顔を見つめながら、言った。


「私は男性ではなく女性が好きですし……それに吉岡さんみたいに一回り年上の方は正直タイプじゃないんです。すみません」

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