苦しみを比べることに意味はない
とある漫画を読んで思ったことのまとめ的な
ある漫画に恐らく鬱で苦しんでいる主人公が「自分も確かに苦しんでいるが、他にもっと苦しんでいる人がいる」みたいなことをいう描写があった。その主人公は子供の時に両親が揃って自殺してしまって、自殺者を止めるために警察官になったんだが自分も病んでしまった、というような設定だったんだが、つまりは件の台詞は主人公の願望でもあるんだな、と思った。
辛くとも自分は死を思いとどまることができるのだから、自殺をしてしまった人たちよりは苦しくない。自殺した人が、両親が、自分と弟を残して死を選んだ苦しみがこの程度のものであってほしくない。もっとどうしようもない苦しみで、どうにもならないから最後の手段として死を選んだのであってほしい。このくらいの苦しみで死を選んだのであってほしくない。
自分よりも苦しんでいる人がいる、という考えはある意味で、後ろ向きの希望だともいえる。社会の仕組みとして使われたこともあるし、なんなら親が子に言い聞かせることだってあるだろう。もっと苦しんでいる人がいるんだからお前も我慢しろ。頑張れ。お前はまだマシだ。
別に他に苦しんでいる人間がいたところで、お前の苦しみは薄まらない。他の人がお前の苦しみを肩代わりしてくれるわけではない。お前が他の人の苦しみを肩代わりしてやれないように。だけど苦しみというのは主観的なものなので、他の人の苦しみで和らぐというか、相対的にマシになることもありえないではない。それこそ気のせいだけど。
苦しみ、痛みというのは主観的なのだ。他人から見てわかるものでもない。他人からは無責任なことしか言えない。大抵の人間は苦しむのは嫌なのだ。痛いのや苦しいのが好きという人も、それを快楽に転化できるから好きなのであって、そうでなければ求めないだろう。
真面目で責任感のある人ほど鬱になりやすいのだという。そういう人ほどどうしようもないことを自責して鬱々と悩んでしまうということなのだろう。ある程度問題を他人の所為にできる人は(本人は)鬱にならない。まあ実際のところ、鬱は脳機能障害に分類されるらしいが…。
全てを他人の所為にする人でないかぎり、本気で物事をお前の所為にするのは、お前の所為にした方が都合が良い人間である。ちなみに責任の所在がはっきりしない、客観的に因果関係をいうことが難しいことの話である。明らかに非がある場合の話ではない。ともかく、全てを自分の所為にするのはとても傲慢なことだし、自らサンドバッグに名乗り出るにも等しい所業だ。健全な精神で痛いなら止めた方が良い。
それを前向きに、自分のためになるように使えるのなら、他者と己を比べてもいいだろう。だが無理をするために使うのではだめだ。それをやると、潰れてしまう。壊れてしまったものを直すのは難しい。
人間が他人の苦しみに鈍感なのは、ある程度仕方のないことだ。あまり他者に同情・同調しすぎると本人が生きづらくなってしまう。自他の線引きは大事なのである。ただ同調はしなくとも相手を慮ることはできるし、一定の寛容さはもった方がいい。だからといって、親が子供のやったことですから…と言い出すような形になると本末転倒なのだが。寛容はある意味で我慢なので、他者に強いてはならない。
自殺はよくないことだが、己が死にたいと思っている事まで否定する必要はないと思う。死にたいほど辛いのなら、死にたいのは仕方ない。でも、可能ならば生きてほしい。死ぬ勇気が持てないだけだとしても。
ちなみに僕も学生時代、死にたかった時期がある。自殺未遂もしたことはないが。痛いのも苦しいのも嫌だし、失敗した時のリスクが無視できなかった。田舎住みだし、自殺に使えるものが手軽には手に入らなかったのもある。一番は、自分が死んだらアイツらは喜ぶんだろうな、と思ったからだ。少なくとも、自分のしたことを悔いて省みることはあるまい。自分が死ぬことで相手を諫めようなどというのは戦国時代の発想である。現代人にはあまり効果がない。そもそもそれは、相手に取って己が大切な人間だから意味があるのだ。