『二章』㉓ 兄と妹
ーーレイス・フォーカスに親はいなかった。
どこの国のどこの街、どこの路地裏かなんてもう覚えていない。
ただ、人と世界の汚れが集まった、この世の肥溜めみたいな場所だった。
食べるもの、寝る場所には当然ながら毎日困り、今日生きるために必死で盗みは生活の一部で、それが正しいことだと、世界の廻りだと信じていた。
ーーと、いうより。それしか生きる方法を知らなかったのだ。
なにせ、物心がついた時から薄汚れた裏社会にいたのだから、裏社会が全てだと思うのは自然な流れ。
親を探そうと思ったことはない。
興味がないから。
この生活から抜け出したいと思ったことはない。
これしか知らないから。
だから、本来なら「悪い」行いだとされるそれが少年の中では「正しい」行いだった。
例えば、盗み。
例えば、脅迫。
例えば、殺し。
流石に殺しはしたことなかったけれど、それ以外は全部やった。全ては生きるために。
一ニ才の時だった。
自分には特別な力があって、並大抵のやつには負けないと自負し始めていた頃。
ある程度の、一般的には悪いと呼ばれる仲間が出来た時。
一人の少女に出会った。
その少女は八歳くらいで、親に売られた憐れな子供だった。その少女を買ったのは、少年がたまに世話になる、「罪人の家系」らしい、裏社会では有名な家だった。
その子には、どうやら珍しい魔法があったらしく、それを見込んで、その力を欲してその「一族」は買ったらしかった。
その少女には買われた時から、いいや売られた時から感情というものがないらしく、常に無表情で無頓着、それもまた購入基準として満たしていたという。
ーー気味が悪ィガキ。
それしか思わなかった。
仕事をして、その「家」に行く度に、その少女は「家」の奴らに虐げられ、責められ、鍛えられ、暴力を浴びて。
なのにそれでも涙の一滴も流さない、人形のような女の子だった。
ある時。
少年はその少女と二人きりになる機会があって、訊いた。
ーー嫌じゃねェのか?
ーー何が?
ーー何がって。あいつらに殴られたりするのがだよ。嫌じゃねェのか?
ーー別に。何とも思わない。わたしを殴りたいなら、蹴りたいなら、犯したいなら好きにすればいい。
ーー死んじまうかも知れねェぞ?
ーーそうなったら、わたしは幸せだね。
意味わかンねェガキ。
そう思った。
死ぬことが幸せ?まさか、そんなわけあるはずがないというのに。
死んだら何もできない。
自分が失われるんだぞ。
それから時々その少女と会って、話て、わかったことがあった。
こいつは、こいつには、自分がないんだ。
だから、死ぬことが怖くないんだ。
少女と出会って一年が過ぎた。
ーーオマエ、傷増えたな。
ーーそうかな?
ーー気にしねェのか?
ーーどうして気にする必要があるの?
ーー………まァ。いいけどよォ。
どうしてこんなに、コイツのことを気にするんだろうと、自分が不思議だった。
それ以上に、コイツがコイツのことを何とも思っていない無頓着に、イライラした。
それが決定的に爆発したのは、少年がとある罪人の女にボコボコにされた時だった。
確か、名前は殺戮の復讐者。エマ・ブルーウィンドだったか。
「その年にしてはよくやるわ」
「……あァ?」
「あなたの力、罪人にするには勿体ない。あなたの力は、いつかこの世界を正しく出来るかもね。ーー正義を見誤らないように、気をつけなさい」
上から目線でそう言うと、ソイツは消えていった。初めて負けた。悔しいと思った。物を浮かすしか脳のない魔法に負けたことが、心底腹立たしかった。
ボロボロになって、家とは呼べないボロ屋に帰った。
ーー少女がいた。
驚いた。
ーーなにしてやがる、テメェ。
ーー……今日、来る約束してたから。
そう言えば、そうだった。忘れてた。
ーー帰れ。今日は話す気分じゃねェ。
横を通って家に入ろうとしたら、腕を掴まれた。
ーー怪我、してる。喧嘩?
ーー関係ねェだろォが。帰れ。
引き剥がすと、また掴まれる。
ーーやだ。会う約束してた。話す約束してた。だから帰らない。
ーーあァ?殺されてェのか、テメェ。
ーーやだ!帰りたくない!
ーーっ。
強く腕を掴まれて、少年は微かに目を見開く。初めて聞いた彼女の感情的な声。初めて見た彼女の感情がある表情。
どちらも悲しい色をして、泣いていた。
胸が、痛くなった。
ーーレイスが、傷だらけなのイヤだ。
自分はいいくせに。
ーーレイスが悲しそうにしてるのイヤだ。
自分はいいくせに。
ーーレイスは、いつも強くていてほしい。
負けたばかりなのに。
泣いて、泣いて、悲しそうにして。
少年の腕に縋り付いてる少女を見て。
心底バカな奴だと思った。
でも、だけど。
その、他者からの初めての優しさに、少年は微かにーー嬉しいと思ったから。
自分が傷ついて泣いてくれるような奴が、これから先、休むことなく、死ぬまで、利用価値が尽きるまで痛めつけられるのは許容できなくて。
「罪人の一族」の家から少女を連れ出した。
ーーオレが助けてやる。
ーーレイス?
ーーオレがオマエを一生守ってやる。
ーーいいの?
ーーあァ。約束だ。
ーー………うん。
なンて嬉しそうなツラしてンだよ、オマエ。
クスリと笑って、少年は彼女の手を強く握って走った。
いつ見つかるかわからない。期間限定の幸せ、平和かも知れない。それでもいいからコイツに月並みの幸せを、笑顔を。
ーーそのちっぽけで、神にも譲れない大きな願いは、一日も叶わなかった。
圧倒的な強者、絶対的な悪の前には、平和も愛も優しさも正義でさえも、無に等しい。
少年と少女は「一族」の長に捕まり、理不尽並の力に吹き飛ばされて、引き離されて。
少年は目の前で、地獄を見た。
少女を目の前で嬲られた。
そして初めて知った。
あれだけ自分の傷に無頓着だったのに、痛めつけられてる時は泣き叫ぶんだと。
ーーやめてくれ。
ーーアァァァァァァァァァ!!
ーーやめてくれよ。
ーーアァァァァァァァァァぁァァァァ!!
ーーやめてくれよ!
「ーー後悔しろ。自分の行動に。お前の選択が、この子を殺したんだ」
無感情の声が、冷たい地下の部屋に冷酷に響いて。少年は絶望に染まった顔を涙と鼻水でクシャクシャにしたまま、固まっていた。
固まっていたのだ。
何もできなかったのだ。
地面に転がって、立ち上がることすらできずに。守りたいと思った少女がどんどん血に濡れていくところ、命が薄くなっていくところを、見てることしかできなかった。
ーーれ、いす……。
ーー……っあ。
ーーぶ、じ?
顔は血で染まり、腕はひしゃげ、胴は抉れ、脚は曲がっているのに。どこまでも他人のことを気にして。
少女の声にハッとなり、少年は慌てて駆けつけて、抱き寄せて、だけどもうじき死ぬとわかってしまって。
ーーごめン、ごめン!オレが、オレのせいで……!
ーーう、ううん。レイスは、何も悪く、ないよ。わたし、うれしかった、よ。一緒に、逃げようって、言ってくれて。
ーー大丈夫。助ける、何とかなる!必ず助かる!守るって、約束しただろォが!勝手に死ぬンじゃねェぞ。死ンだら地獄だろォが天国だろォが、追い掛けてぶっ殺すぞ!
ーーうん。そうなったら、わたしは幸せものだね。
いつか聞いた言葉と同じだけど。
どこか意味合いが、雰囲気が違った。
大丈夫。助かる。まだ何とかなるはずだ。
そう強く思い、少年は少女を地下から連れ出して走った。コイツを助けてくれる、正義のヒーローってやつに会うために。
ーー頼む。頼むよ。
誰でもいいから。
なんだって言うことを聞くから。
ーー助けてくれよ。
大切な、人なんだ。
たった一人の、家族なんだ。
ーー来いよ、ヒーロー。助けてくれよ。
だけど世界はどこまでも暗くて、冷たくて、人の思いを、願いを嘲笑う。
夜の街だ。血塗れの少女を抱える血塗れの少年だ。気味悪がって誰も助けちゃくれない。腕の中の命は刻々と天上に吸われて、消えそうになっているのに。
「こっちよ、きなさい」
その声が光に見えた。
バッと見ると、いつかの女だ。
「早く、来なさい!」
怒声じみた声に引っ張られるように足を動かして、少年は女についていく。案内されたのは小さな家だ。そこで女は少女を治療してくれた。
だけど。
「この子はもう助からない。アタシはこの子から痛みを奪っただけ。根本的な治療じゃない。仮に治療ができたとしても、もう助からない」
「…………….」
「最期に話せる時間を作ってあげただけよ。それを棒に振るかどうかは、あなたが決めなさい。…………「 」」
言っている意味がわからなかった。
助からないってなんだ。
コイツは死ぬのか。
なんで最後にオマエがそんなこと言うんだよ。なんで期待させるんだよ。
ーーレイス。
小さな声だった。
手を握った。
ーーレイスは、海を見たことある?
ーーねェな。
ーーわたしもない。海はね、すごく青くて、お魚がたくさん泳いでて、キラキラしてて、キレイなんだって。
ーーそうか。
ーー見てみたいなぁ……。
ーー見れるさ。オレが連れてってやる。明日にでも行こう。
ーー……うん。そうだね。
そんな、諦めてる声で。
微笑みで。
言うな。
ーーレイス。
ーーどうした。
ーーありがとう。わたしを、助けてくれて。
ーー何言ってやがる。オレは、オマエを。
ーー助けてくれた。連れ出してくれた。それだけで、わたしは救われてたんだよ。
ーー…………。
ーーだから、ありがとう。
ーー…………。
「ありがとう。ーーお兄ちゃん」
何も言えなかった。
兄と呼ばれて、兄と慕ってくれていたことに気づけなくて、慕ってくれた人を守れなくて。
顔を上げると、既に少女はーー妹はもう眠っていた。肩を揺らせば起きそうなくらいに、自然と。それでいてどこか、幸せそうに。
ーー泣けなかった。
ーー力がなければ何も守れないと知った。
ーー正義では何も守れないと知った。
ーー圧倒的な悪にならないと、救えないと知った。
ーー誰かを守れるほど、自分は強くないと知った。
その晩。
少年は妹の手を握ったままそこから動かなかった。
泣けたのか。
泣いたのか。
ただ、握っていた。
ーー妹の名前が『レイシャ』だと知ったのは、S級罪人と呼ばれるようになってからだった。




