『一章』㊼ ラプンツェルは嬉々に笑う
「……まったく。どこまで甘いのよ……」
「そんなこと言って。……ボロボロじゃない」
満点の星空が絵本みたいに美しい、風が吹けばシャラシャラと音を鳴らしそうに鏤められた天体が幻想的な夜の下、アカネはエマの頭を膝上に乗せた状態で地面に座っていた。
星の亡骸、ではない。
無機物の雨が未だに降る世界の終わりみたいな空間で、二人の少女は互いに目を合わせる。
どっちもボロボロで、似たもの同士。
「……はぁ。負けちゃったなぁ」
まるで今までの苦労が水の泡になったみたいに、けれどどこか垢が取れたみたいに息を吐くとそう言って、エマはアカネから夜空に目を移す。
「正しいことをしてると思った」
ひとりごちた呟きを、アカネは静かに聞く。
「アレス騎士団を殺して、罪人でも善人を平気で殺す奴は殺してきた。そうやって、世界を少しでも浄化するために、たくさん人を殺してきた。それが世界のためで、平和のためで、正義のためで、笑顔のためだと……疑わなかった」
「………、」
エマは夜空の星を掴むように手を伸ばした。
「守りたかった。みんなの笑顔を掴んで、無くなることがないように、必死になった」
「……….、」
「だって、だってさ。理不尽に呑まれて負けて、涙を流すのは絶対に間違ってるでしょ。だから、その原因であるアレス騎士団と、王族を皆殺しにすれば世界は正しくなるって、それをするアタシは誰よりも正しいって思ってたんだ……」
「……今は、どうなの?」
エマは薄く笑って、手をおろす。
「悔しいけど。間違ってたのはアタシだったみたいだ。ハルくんにやられて、言葉をぶつけられて、気づいたよ。正しい世界を築くなら、アタシが誰よりも正しくあるべきだった。……人なんて、殺すべきじゃなかったんだ」
「じゃあもうアタシは命を狙われることはないね」
冗談っぽく言うと、エマは苦笑した。
「アンタは別だよ。今この場で動けてたら、絶対に殺してた。恋敵だもん」
「物騒だね!……って、恋敵?」
聞き間違いかと思って首を傾げると、エマは悪戯っぽく舌を出して片目を閉じて笑っていた。
「悪いけど。あなたより先にあの人に恋をしたのはアタシだから」
アカネは顔を真っ赤にして、
「な、じゅ、順番なんてないよ!恋に順番なんてない!」
恋は心の熱さだから。
恋は心の高鳴りだから。
あの人を想う気持ちは、「自分」にもエマにも負けるつもりはない。譲るつもりはない。
アカネの乙女な反応にエマは呆れるように笑うと息を吐いた。
「……この世界は、まだ歪んでる」
心なしか、それともただの気のせいか。
エマの体が微かに重くなり、冷たくなり、声に力がなく、目色の光が薄くなりつつある。
「きっと、全部を治すのは無理なんだろうね。誰かを救っても、誰かは救えない。表を助けても裏では誰かが苦しんでる。どっちも助けられるのは、どっちに手を伸ばしても大丈夫な人で、迷うことなくどっちも背負うことができる人だけで。多分、それは………」
区切ると、エマは離れたところでギンを枕にしているハルを見た。
「彼みたいな、ヒーローだけなんだろうね」
憧れるように。
恋焦がれるように。
「……エマちゃんが、どれだけ世界を憎んでいたのか、少しはわかるよ」
アカネがゆっくり口を開くと、エマは疲れ切った顔で彼女を見る。
「エマちゃんの言う通りだよ。あたしもこの世界を憎んでた。誰も助けてくれないこの世界を、心底呪った。だからエマちゃんが世界を正しくしようとしたことは、その気持ちは、痛いほどわかる。あたしが一番理解できる」
「………、」
「だからね。正そうと思ったその「正しい心」だけは否定しないで。方法が間違ってただけで、エマちゃんの心までが間違ってたわけじゃないから。誰がなんて言おうと、それだけは、そうだから」
「フッ。アタシはあなたを殺そうとしたのよ。そんな相手の心を肯定するの?」
「するよ。だってエマちゃんは、初めてあたしを守ってくれた人だから」
「ーーーー」
その言葉を聞いて。
その笑顔を見て。
エマ・ブルーウィンドは幼く目を見開いた。
見た目は変わってて、大人になってるあたしの友達。
どんな理由があったとしても。
どんな思惑があったとしても。
ーーあなたがあたしを助けてくれた事実は変わらない。
「……ははっ。まったく、何を言うのかと思ったら………。アンタを助けたのは、アタシの気まぐれで、利用するためだって言ったのに……」
徐々に震え始めたその声は、次第にか細く小さくなっていき、腕を動かす力すらもうないのか、顔を隠すことも出来ずにエマは泣いていた。
「きらい。きらいきらい。アンタなんて大っ嫌い。アンタのせいでアタシのお父さんとお母さんは死んだんだから。アンタのせいでアタシはこうなっちゃったんだから……っ。そんなこと言われても、全然嬉しくなんてないから……っっ」
「………うん。ごめん」
代わりに涙を拭って、頬を撫でた。
そのアカネの手に、エマは頬を寄せる。
まるで母親にそうするように。
あるいは、涙を拭ってくれた友に心を許すみたいに。
「ごめん、じゃないわよ……ばか。全然、ごめんじゃない。許さない、絶対許さない」
そして、そっと彼女は言った。
ボロボロと、また、泣きながら。
ーーどれくらい、泣いていなかったのだろう。
「もっと早くに、みんなと会いたかったよぉ……っ。みんなと、いたかったよぉ……ッ」
エマの中で、ありえなかった「もしも」が生まれ、夢のように頭の中に流れ、幻のように目の奥で再生される。
ーー平和な街の、のどかな朝。
「あ、エマ!今から川に釣りしに行くから一緒に行こうぜ!ユウマのやつだけじゃつまんねーし!」
「ふざけんなハルてめぇ!」
「もー。喧嘩しないでよ二人とも!」
ーー木漏れ日が綺麗な、森の中の草原。
「できたー!どうこれ?セイラに似合うと思わない?」
「おいエマ。セイラにそんなかわいい系は似合わねぇぞ。どちらかと言えば熊の骨で作った王冠の方がいいんじゃねぇか」
「いや魔獣の骨だろハル」
「確かに」
「ほぉ。是非貰いたいものだな」
「「セイラさん!?」」
「死ね!!」
ーー装飾が煌びやかな、都会の中。
「エマちゃん!こっちきて!これすっごいかわいいよ!」
「わー!ほんとだね!あ、これとかアカネちゃんに似合いそう!」
「これはエマちゃんに!」
「「これはハルだね!」」
「「…………」」
「あたしが見つけた」
「アタシが見つけたの」
「「ぷ。あはははははは!」」
ーーそうして夢は夢で終わる幻が、拭われるように消えて現実にエマの想いが回帰する。再生が終わる。
「……ねぇ、アカネちゃん」
叶わぬ夢を諦めた少女は息を吐くと、力を振り絞るように腕を動かし、手首に巻いていた赤いリボンをアカネに渡した。
アカネは受け取り、エマを見る。
「ひとつ、頼まれてくれないかな。〈ノア〉にアタシは、依頼を、します……」
息が浅くなる。
呼吸が途切れ途切れになる。
エマの全てから、力が失われていく。
「この世界を、守って。正しく、して。悲劇の神様を、倒して。涙を、とめて。おねがい」
「エマちゃん……」
「みたいんだ、その景色を」
切なくて、きれいなえがおだった。
なんで、答えればいいのだろう。
どんな言葉を返せば、彼女は納得してくれて、託してくれるんだろう。ただ依頼を受けるだけではダメだ。
これは、彼女の人生を懸けての夢だった願い。生半可な覚悟で背負っていいものじゃない。
それでも彼女がアカネに自分の夢を託し、こうして笑ってくれるということは。
悲劇を知り、世界の残忍さを知っているアカネにならきっと、できるとーー。
「約束は、できない……」
ここで、綺麗ごとはダメな気がした。
「だって、あたしはまだ弱いから。強くなろうと決めたけど、まだ弱いから」
嘘はダメな気がした。
「エマちゃんの理想のために、あたしが動くって本気で思ってる?だとしたら甘いわね。散々罵倒して殴ってきたくせに」
ーーちがう。言いたいことはそうじゃない。
なのにそんな、思ってもいないことを口にしたのは、多分、彼女の依頼を受けてしまったら、もう終わりなんだと思ってしまって。
「……うん」
「友達だけど、悪役なんだから。最後まで悪役でいてよ。なんで、こんな、きゅうにっ」
「うん。……そうだね」
「あたし、あたしは、あたしは……っ」
「アカネちゃんーー泣かないで」
そっと。
優しく。
エマは泣き微笑を浮かべながら、最後の力を振り絞るようにアカネの涙を拭った。
その行為が余計に、アカネの涙腺を壊す。
冷たかった。
熱が、失われていた。
断るつもりなんて最初からなくて。任せてとか大丈夫とか、とにかく彼女が安心できるような言葉を残そうとしたのに、まるで駄々をこねる子供みたいに、アカネは現実逃避の思いを吐き出した。
「泣かないで、なんて。そんなの無理だよ……」
「……うん」
どうして、みんな。
こうなった時、アカネに何かを望むのだろう。
そして、エマは気づいているだろうか。
かつて、自分を助けた両親とおばあちゃんの想いを、今の自分が抱いている事実に。
大切な人に悲しんでほしくないという、神秘の想いに。
弱い笑みがあった。
「……死期は近かった。もともと、死ぬことが前提で契約したようなものだから。アカネちゃんを殺して、王族と騎士団を殺して、アタシも終わる予定だったから」
「エマちゃん………っ」
「ハルくんに、謝っといてもらえないかな。一緒に「家に」帰れなくてごめんねって。明日、一緒に笑い合えなくてごめんねって」
「やだ、やだよ、エマちゃん……っ」
それは。
最後の大きな、一呼吸だった。
「泣くな、サクラ・アカネ!アンタはアタシと違って、悲劇の神様に勝ったんだから!アンタなら、きっと「大丈夫」だから!」
泣きながら、首を必死に横に動かした。そんなことないから、いかないで。どこにもいかないで。
ーーそう、言おうとして、けれどエマの真っ直ぐな目に押し負けて、アカネは弱い言葉を呑み込んだ。
それに満足し、エマは頷いて。
満面の笑みで、こう言ったのだった。
「あぁ!生きたなー、アタシ!たくさん生きた!」
後悔なんて、微塵も感じさせない笑顔で。
明るい声で。
大人だけど、どこまでも子供のように元気に。
その笑顔に、応えたいと思って。
「大丈夫。任せて。いつか、必ず。あたしが悲劇の神様を斬ってみせる。あたしの異世界物語は、ハッピーエンドにさせるから。だから、だから!」
頬を伝う涙もそのままに笑ってエマを見た。
「ーーーー」
「その世界で、またね。エマちゃん!」
かえる声はなく。
ただ静かに、幸せそうに目を閉じて。
エマ・ブルーウィンドはこの日。
二三年の戦いに幕を降ろした。
:::::::::
ーー暗闇だった。
闇の中を歩いた。
「一緒に歩くよ」
「ーーーー」
「はぐれちゃうといけないから、ちゃんと手を握ってるのよ?」
「ーーーー」
「お疲れさま」
「ーーーー」
ーー暗闇の中だった。
けれど、寂しくは、もうなかった。
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ーー満点の星空だ。
幾星霜の星たちが、煌めいている。
星が、奔った。
「……届いたかな」
「届いたさ。だって、こんなに幸せそうな顔をして眠ってるんだから」
「……ねぇ、ハル」
「どうした」
「もう……いいかな」
「…………あぁ」
栓を外すみたいに。
涙も、声も。抑えることも我慢をすることもなく、アカネは叫ぶように泣き続けた。
悲劇なんて知らない星空の下に少女の泣き声は響き続けて。
魔法がある世界でも、「涙を止める魔法」だけはどこにもなかった。
あるいはもしかしたらそれこそが。
本物の奇跡で。
ーー本当の魔法なのかもしれない。
真暦一六〇〇年、六月五日。
第S級指定罪人・殺戮の復讐者。
エマ・ブルーウィンド。
ーー死亡。




