『一章』㉞ 死の色
ーー記憶が、逆流する。
血の匂いが、悲鳴が、怒号が、容赦なく世界を満たしていく。
ーーどうして、なんで、こんなことに。
「……と、うさん」
呼んでも動いてくれない。
どんどん、どんどん、どんどん血が広がって。
「……お父さん」
頬に着いた血と、瞳から流れる涙の透明が混ざり合ってーーそれは、悲劇の色をしていた。
「ーーお父さん!!」
**********************
「ーー調子に、乗るなぁアアア!!」
最高潮の苛立ちと共に、青色の斬撃が空気を裂きながら『黒』の少女へと迫る。
エマ・ブルーウィンドが放った斬撃が、真っ直ぐに『黒』の胴体を真っ二つにしようと唸り、しかしその望みは叶わない。
「ーーーー」
「……チッ!」
夜を凝縮したような、形が定まらない影の剣をたった一度軽く振るっただけでエマ以上の威力、規模、密度、圧力の斬撃が不気味に奔り、二つの殺意が衝突、不可視の衝撃波が拡散された。
強風が吹き荒れる中、エマは意識を切り替える。剣では勝負にならない。
遠距離は分が悪い。かと言って近づけば影の剣と黒の羽衣、二つの脅威に絡め取られる。
ーー隙がない。
勝負をしているように見えて、実はそんなことはない。
ただこっちが一方的に攻撃を放っているだけでは勝っているとは言えない。
むしろ、それだけ多くの攻撃をしておいて傷一つつけられていない最悪の現実を重く受け止めるべきだ。
「なめるなよ、剣の姫!」
まさに夜の子。
死の神に相応しい名前だ。
剣を放り捨て、パン!と両手を合わせた。同時に『黒』がその場から一歩も動かずに剣を持った右腕を振り抜こうとゆっくり上げていく。
ーーなにもさせやしない。
エマの周囲の空気が吹き荒れる。エマの青暗い魔力が色を与え、力を与え、望む結果を出すべく本領を発揮する。
力む必要はない。
特に大技でもない。
ただ、そう。
浮遊魔法を使うだけ。
無機物を操るだけの三下魔法とは言わせない。
「獅空印」
言った直後。
空気を超圧縮、形を形成。
巨大な青黒い獅子が虚空を奔り、『黒』を獲物として認めて大顎を開けた。
ーーーーーーーだが。
「ーー殺す」
それは、一体何を斬ろうと振り抜いたのか。
人か。空間か。時間か。神か。次元か。世界か。
派手な音も何もない。
スッと『黒』が影の剣を上から下へ振り降りした瞬間、エマの獅子どころか舞踏場そのものが黒色に呑まれて、消滅した。
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ーーその人が助けてくれたと知ったのは、退院してから三日後のことだ。
「ーー具合はどうだい?もう平気かな?」
警察の制服ではなく、私服で訪れたその人を見て、あか音は少し戸惑った。
施設の中。
応接室で少女はその男と向き合っている。
紗空透。
あの雪が降る日。両親を探した日。高熱で倒れたあか音を病院まで運んでくれた命の恩人。
今日は、あか音の様子を確認しに来たという。
特に知り合いでもないのに心配になって訪ねてくるとはなかなかのお人好しのようだ。
……とはいえ助けてくれたのは事実だから無下にもできず、あか音はソファの上でちょこんと座っているのだが。
ーー正直気まずい。
だって逃げたし。
大人だし。
手とか、握っちゃったし。
「僕の手、よかった?」
とか普通にぶっ込んできたのであか音は顔を真っ赤にしながらテーブルに置いてあったホットココアを容赦なく男にかけて黙らせた。
「ギャァぁぁぁぁあああああああ!顔が、顔が焼けるううううう!ココアに殺されるー!」
顔を押さえて左右に転げ回る男。
あか音は内圧を抑えるように何度か息を吐き、それから尋ねた。
「ココア……あいや、キザ男……ちがう、変態さんはひまなんですか?」
変態認定された男は私物のハンカチで顔を拭きながらソファに座り直して、
「最終的に変態で落ち着く?キミの目には僕はどう写ってるんだ。……暇っていうより、キミのことが心配だったから来たんだよ。決して暇だったわけじゃない」
「じゃあ何か予定があるんですか?」
「帰ったら家の掃除がある」
「結局それ暇じゃないですか」
「暇じゃない。有意義な時間の潰し方と言ってほしい」
「それを世間では暇って言うんですよ」
などと言いながら、男はテーブルに置かれたコーヒーを一口飲んで、
「でもその様子だと心配は無用だったかな。思ったより元気そうで何よりだよ」
心底安心したように目を細める男。あか音はそんな彼の態度に何故か少しだけイラついてしまう。
そんな目で見るな。
まるで悲劇のヒロインを見るようなそんな目で。
この場から早くいなくなりたかった。
「はい。助けてくれてありがとうございました。じゃあ、あたしはこれで失礼します」
ソファから立って、応接室を出ようとし。
「お父さん」
その一言に、あか音の全身が熱くなった。
ピタッ、と足を止めて、ゆっくり振り返る。
男は、あか音をまっすぐ見ていた。
その、優しい目色。
「一応警察だからね。キミを保護した際に施設院長から色々訊いて、個人的にもキミのことは調べさせてもらった」
凝然と目を見開くあか音は男から目が離せない。
「三浦あか音。都内の小学校に通う一〇才の少女。性は施設から与えられたもので、本当の苗字は不明。両親も行方知らず。……施設の前に捨てられていたっていうのは、許せないね」
「………、」
「学校では成績優秀でクラスの子供たちからも先生たちからも慕われている優等生……だった。クラスの男の子に暴力を振るって大怪我をさせたことがきっかけで学校にい辛くなり不登校。そーいった抱えきれないストレスが爆発して体調が悪いことにも気づかずに雪が降る寒い日に家出をしてどこにいるかも分からない両親を探してーー」
「うるさい!!!」
それこそ。
ストレスを爆発させるような声だった。
キッ、と。明確な敵意を乗せてあか音は男を鋭く睨んだ。
「何も知らないくせに知ったような口をきかないで!他人のくせにあたしを語らないでよ!お巡りさんには関係のないことでしょ!」
学校のことも。
両親のことも。
自分のことも。
「もう帰って、帰ってください!あたしはもう大丈夫ですから!心配しなくて大丈夫ですから!」
「………大丈夫っていうのは、心も体も落ち着いていることを言うんだよ」
「何が言いたいんですか……っ」
男は愁眉を寄せるとゆるく首を横に振って、
「いや。何でもない。ごめんね、少し踏み込み過ぎた。警察の悪い癖が出てしまったよ」
そう言うと、男はあか音の横を通り過ぎて扉を開ける。
「また来る。それじゃあね。あか音ちゃん」
男が応接室を出て行った後、あか音はしばらくその場に立ち尽くしていた。
あの時の、クラスの男の子に言われた天涯孤独という一言の時は我を忘れるくらいの怒りに支配された。
自分には親がいないという現実を改めて知らされたから。
なのに、今。
似たようなことを男に言われたのに。
「……………、」
あか音の心は、怒りよりも寂しさに占拠されていた。
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ーー少しでも反応が遅れていたら消し炭になっていたと、浮遊城の中庭に飛び出したエマは死の感覚を脱ぎ捨てる。
一ー今のは、魔法なのか?
「……第二王女、レイシア・エル・アルテミス」
浮遊城の巨大な破壊痕たる大穴から死を運ぶ女神の足取りで歩み出てくる『黒』の女を見ながらエマはその名を呟く。
第二王女は失踪事件で有名になった悲劇のヒロインではあるが、それ以前から、それこそ出生直後から、国上層部の中では有名だったと聞く。
今回、エマに〈ノア〉、アカネの情報を与えた、『黒い女』。
彼女が言っていた。
ーー第二王女は初代国王、ローラ・アルテミスと同じ目、〈空の瞳〉を持ち、そして同じ魔法を持って生まれた特異点なのよ。
詳しいことは分からない。興味もないがおそらく世界の最奥に眠る秘密なのだろう。
だがローラ・アルテミスと同じ魔法という情報だけで、彼女がどれだけの脅威になるのなかは想像するのに難しくなはない。
理由はわからないが、アカネには使えず『黒』は力を行使できる。
ローラ・アルテミス。
〈空の瞳〉。
「まるで『薨魔の祭礼』に立ち会ってるみたいだよ。まったく面倒臭いったらありゃしない」
「ーー殺す」
「聞き飽きたっつーの、そのセリフ!」
ドン!と、両者が同時に地を蹴った。地面を抉るほどの踏み込み、そして走力、速度。
その果てに二人の少女が真っ向から衝突し、大気が揺れた。
影の剣の袈裟斬りを下から突き上げた土の壁で防ぎ、その土壁を至近距離で『黒』に向かって投げ飛ばす。
直撃。
初めての攻撃成功、しかし喜んでもいられない。手応えが皆無。それを証明するみたいに土壁が縦に真っ二つに切断、健在の『黒』が死の羽衣を纏って悠然と立っている。
「ーー!くどいのよ、お前ええええ!」
「ーーーー」
中庭の大地を浮遊魔法の特性「浮かぶ」を利用して抉り、めくり、持ち上げる。
それらは巨大な杭だった。
計五本。
「死ね!!!!」
落ちた。




