『一章』㉜ 存在の否定
もうしばらくこの駄作にお付き合いください。
もうラストスパートに入っております。
長くしてすみません。
飽きた人ごめんなさい。
「ーーねぇアカネちゃん。正義って、なんだと思う?」
不意にエマがそう言って、アカネの無気力な瞳が彼女に向く。空色の双眸に映る金髪の少女は、一体どこから持ち出したのか、木製椅子に腰掛けて不敵に笑んでいる。
ただし、宙に浮いた椅子に、だ。
「……どういう、意味」
「だから。正義だよ正義。いるでしょ、悪を懲らしめる正義のヒーロー。正義ってさ、悪を罰するってことなのかな?」
「………知らない」
「そりゃそうだ。考えようとしてないもん。……そうだね。じゃあこうすれば真面目に考えてくれるかしらん?」
「?何をーー」
気の軽いエマの声に怪訝になった直後、アカネの全身に電流が走った。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
否。
電流ではないーー激痛だ。
エマが晴れ晴れとした笑顔で凶行に出たのだ。
血が止まっていた右肩の創傷、短剣で貫かれた傷口を広げるように彼女は指を突っ込んでアカネの体でーーアソビハジメタノデアル。
ぐりぐりと、優しく、撫でるように。それでいてどこまでも悪辣に、愉快げに、恍惚に頬を緩めながらアカネの絶叫を最高の音楽として聴き入る悪魔のように。
「ああああああああ!い、やっ、あああああ!」
痛みが手加減を知らない。体の内側から無数の刃で刺されているようなどうしようもない痛みが「ねぇねぇ、早く答えてよ。じゃないともっとほじくっちゃうよ、ほらほら」悪戯好きの童のような無邪気で笑う楽しげな声が悍ましくて恐ろしくて「あ、あ、ああああああ!い、やめ、あ、いっつ、ぅあああああああああああああ!」血の匂いが鼻について吐き気を催し、けれどそれを容易に丸飲みする激痛がアカネに『痛み』以外を教えず「あ、今こつって音がしたけど骨に当たったかな?……ありゃりゃ。こりゃ大変だ、血がいっぱい」呑気な口調で真っ暗なことを言う拷問者は、滂沱し血に染まる現実の少女が気を失いかけていることに気づき、ようやく狂気の指を止めた。
意識が朦朧とし混濁する中、エマが指についた血をぺろりと舐めたのがギリギリ分かった。
「で。正義ってなんだと思う?」
最早死の音に聞こえる問いかけだ。
もうあの『痛み』を味わいたくなくて、アカネは何でもいいからとにかく答えることにした。
「……人としての、正しい道理、行い」
辞書に載っているようなことだ。
エマはうんうん、と頷いて、
「お手本通りの綺麗な回答で何より。流石は王女様だね。……でも不正解だ」
最後に途端に冷えた声でエマはアカネの回答を否定した。
彼女は言う。
「正義の正体はねーー理不尽だよ」
妙に確信めいた声色だった。
何となく、分かる気がした。
「外面は白くて綺麗だけど、中身は黒くて汚れている。正義という名の理不尽は、助ける相手を選んでる。誰でも彼でも救うご都合主義で採算度外視の本物のバカなんてこの世にはいない。正義のヒーローはみんなを救う?ーーいいや違う。正義は救える人間だけ救うんだ。救えない人間は救わない。救えなかった人間は誰にも教えない」
「…………、」
「優先順位ってやつだよ。海で二人溺れてても、いじめっ子、いじめられっ子だったらいじめっ子を救うのがヒーローだよ。……だっていじめっ子なら絶対嘘をついて真実とは逆の事を言って助かるだろうからね。僕はこの人にいじめられてました、この人は溺れたふりをしています。……こういえばあとは狂った善の流れに身を任せればいいだけ。………救われるべき人間が救われない。それが今の世界なんだよ。ねぇ、アカネちゃん。こんなのが、本当に正義って呼べるのかな?」
誰よりも正義の助けを求めていた人が救われない無情。
誰よりも正義を信じていた人が正義に裏切られる絶望。
それは、とても残酷だ。
そして、否定は出来なかった。
だって多分、その通りだから。
「呼べないよね。そんなのは、正義でも何でもない。ただの悪だ」
「……二人とも、救うべきだったってこと?」
「違う。いじめっ子を見捨てるべきだった」
ズレがあった。
正義の形が歪んでいる気がした。
「助ける人を選ぶなら。死体を量産するなら。それは正しく悪であるべきだ。善が笑うべきなんだ」
「それじゃあ……、結局みんなは、助からないじゃない。助ける相手を選ぶ事が理不尽なら、エマちゃんのそれは、正義じゃない……」
エマはそっと息を吐いて、
「分かってないな王女様は。アタシはね、正義を元の形に戻すだけ。最初に言ったじゃん。正義って悪を罰することなのかなって。ーーそうなんだよ。
だから悪は全て殺す。正しくある義の下に。選定をして命を選ぶなら、理不尽が善と悪を見極められないなら、アタシが変える。命の価値も分からないこの国に、そのトップに。本当の正義を教えてやるんだよ。」
「……矛盾、してるよ。エマちゃんの正義は、死ぬべき人が正しく死ぬように手を貸すことなの?」
「言い方が悪いなぁ。せめて世界を綺麗にするためにゴミを捨てるようなモノって言ってほしいよ」
ケロリとそう言ってのける彼女は、果たして自身が掲げる正義が歪んでいることに気づいているのか否か。
選定は、正義ではない。
「………狂ってるよ」
正義に陶酔し、本質を見失っている。
だがそこで、正義の執行者は鼻で笑い、アカネにぐんっと顔を近づけた。
息がかかる距離で、言う。
「アタシと同じことを思ってるくせに」
「………な、にを」
「正義に対して期待なんかしていないでしょ。狂ってるのはアタシじゃない。この世界だ。それを知ってる「目」をしてるよ、あなた。世界を、人を、神を、正義を憎んでる。そうでしょう?」
鬼人に言われた一言をアカネは思い出す。
ーーこっち側の「目」。
アレは、罪人のような殺意と自欲にまみれた「目」というわけでなく、それと同質の暗さを宿らせているという意味か。
反射的に答えようとした。
でも言葉は出てこなかった。
考えようと、意識しないようにしていただけで。
自分は、世界を恨んでいるのか?憎んでいるのか?
確かに世界にも人にも神にも正義にも期待なんかしていないけれど、それは憎悪を抱く程だったか?
パキャン、と音がした。
手足の拘束の、鎖が外れた音だ。
エマが短剣で斬り断ったのだ。
解放された喜びはなく、アカネは地面に転がったまま動かずに自問を繰り返す。
ーーあたしの心は、そこまで淀んでいたのか?
「自分を誤魔化すなよ、レイシア」
温度を感じない、しかし心の中に入り込むような魔声があった。
「人間不信なんてそうそうなるようなモノじゃない。なりたくてもなれるようなモノじゃない。何かきっかけがあったはずよ。他者が自分のためだけに命を懸けて守ってくれないと信じられないなんていう強欲は普通じゃないもの。だってそれは、死んでからようやく信じるって言ってるのとなにも変わらない。自分のために死んでくれた騎士しか信じないなんて、流石は王女様ね。傲慢だわ。信頼条件が命を差し出すことなんて素敵。……まぁ、あなたのために命を投げ出す人なんているわけないし、だからずっと一人だったわけだしね?」
「………、」
違う、とは言えなかった。
だってそうだ。
ハルたちこともエマのことも。
信じたい思ったのは命を懸けて、体を張って守ってくれた時だもの。ショックを受けた時も、自分のためではなく「レイシア」のために命を懸けていたのだと知ったからだもの。
他者を信ようしないことは歪んでいる。
だけど、その信用を置くために強制していたことが命を差し出させることなんて。
ーーキモチワルイ。
「そこまで堕ちたら、もうこっち側よ。あなたは自分のために他者に死を強要させる化物なんだし」
ーーばけもの。
「ねぇ、レイシア。あなたは本当にアタシが間違っていると思う?正しい人が正しく救われない世界に、価値なんて、真の正義なんてあると思う?」
ーーしんのせいぎ。
「人間不信の始まりは何だった?どうして全てに絶望した?あなたの一六年は、全てを肯定できるくらいに美しいモノだったの?」
ーーちがう。
「あなたは知ってるはずよ。なにもかも」
囁く。
囁く。
囁く。
甘く暗く、危険に。
「思い出して。あなたの怒りを。哀しみを。素直になって。正直になって。ーー自分を一人にしたこんな世界を、あなたは許せるの?ーーいいや」
嗤う。
口を三日月のように裂いて。
愉快げに。
「全ての悲劇の原因である自分を、あなたは許せるの?」
その瞬間。
涙と血でぐしゃぐしゃになった少女の顔が苦しそうに歪んだ。
拭い去れない後悔が服についた汚れのようにジワジワと広がり、目立つように浮き上がってくる。
そして。
「ーーハルくんは、死んだわよ」
「ーーーー、」
それはアカネを叩きのめすには十分だった。
「あなたをアタシから取り返そうとして、アタシに殺された。可哀想にね、ハルくん。最期の最後まで結局あなたに信用されることもなく、酷い女のために死ぬなんてさ。ーーまぁでも、あなたとしてはよかったのかな?これでようやくハルくんのことを信じられそうね?クスクス」
「う、あぉあああああああああああ!!」
発狂。
激発。
喉が潰れるくらい、文字通り血を吐きながら叫んでアカネはエマに殴りかかった。だけど当然アカネの素人感丸出しのパンチなんて当たるわけもなく、ひらりと躱され逆に蹴りを喰らい、少女はみっともなく地面を転がった。
痛い。
痛いけど。
体の痛みじゃなくて。
「っあ。……はる、はる、ハルぅぅ……!」
あの少年が、もういない。
いない。いないのか。いないってなんだ。喋れないってことか。会えないってことか。触らないってことか。笑顔が見れないってことか。
ーーアカネ!
「ごめん、ごめんハル!ごめん!うわああああああああああ!」
こんな悲劇を。
こんな結末を。
こんな悪意を。
望んでいたわけじゃないのに。
「……これがっっ」
歯を軋らせる声が出た。
憤怒と哀しみを混ぜた、激情のひとみ。
「こんなのがあなたの正義だって言うの!?ハルを殺すことの、どこが正義なのよ!!」
彼は間違いなく善人だった。
アカネなんかより、ずっとずっと善人だった。
なのにエマの正義は、自分を邪魔する全ての者を悪とみなしている。
だから、殺す。横暴が、暴論が、理不尽がまかり通る狂気の思考。
故に、アカネの言葉なんて通じるはずなかった。
彼女はこう言ってきた。
「?何を言ってるの。ハルくんを殺したのはアカネちゃんでしょう?」
「は、ぁ…………?」
意味が。
わからなかった。
「直接手を下したのはアタシかもしれない。でもさ、そもそもあなたがハルくんたちと出会わなければ、あなたさえいなければこんなことにはなっていないんだよ」
「ーーーー」
「あなたがこの世界にいるからみんな死ぬんだ」
言葉が出なかった。
代わりに膝から崩れて、胎児のように身を丸めてうずくまった。耳を押さえて全ての音を遮断して、目を閉じて全ての光を拒絶する。
悪魔の笑い声。
悪魔の姿。
ーー違う。
これは。
ーーお前のせいだ。
アタシの声で。
ーーキモチワルイ。
アタシの姿だ。
唐突に、何かが切れる音がした。
ギリギリ保っていた精神の糸が切れた音だったかもしれない。
全部、アカネのせいだった。
アカネがハルを殺した。
アカネがみんなを殺す。
アカネがみんなを不幸にする。
その通りだ。
そんな人間に、居場所なんてあるはずない。
だって、そうだったから。
だから、あの時も。
ーーアカネがいたから。
「ーーあなたさえいなければ。みんな幸せだったのにね」
アタシがいなければ……?
あた し、が
ーーぁ。




