『一章』㉛ 春雷
ーー正義のヒーローに、会いたかった。
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「ーーん」
意識が暗闇の中から浮上する。
重い瞼を徐々に開けていき、薄く霞む視界と曖昧な自我が辛うじて命があることをサクラ・アカネに教えてくれていた。
異世界に帰ってきた感覚とは違う。それよりももっと馴染みのある、眠りから目覚めるような多少の重さに似た覚醒で、しかし途端に鋭い痛みが走ってアカネの全てが強引に引き戻された。
「………っ。いっ、た……ぁ」
顔を顰め、痛みの発信源を見る。右肩。制服は見事に血で真っ赤、けれど血は止まっているようだ。アカネ史上最大の大怪我ではあるが、呑気にそんなことを言っている場合でもない。
むしろ、この事実を重く受け止めなければならないのだ。
右肩の裂傷があるということは、つまり、アレは夢ではなかったということだ。
ズキリ、と胸が痛んだ。
怪我なんか、していないのに。
周囲を見回し、怪訝になる。
「……どこ、ここ」
そこは、異様な空間だった。
ドーム状の天蓋を巨大な骨のような岩組が雑な隙間を開けて覆って走る、人体の肋骨じみた天井。
夜の色が濃く、星辰の輝きが肋骨天井から漏れてーー吹き抜けになっているから仄かに光を落としている。
半球状の大広間の壁面には満月を剣で突き刺して嗤う不気味な妖精が描かれていてどこか不気味。
床には下から単に伸びるように錐状の突起が規則的に生えていて、まるで悪魔を呼ぶ儀式場のような雰囲気だ。
「ならあたしは、生贄ってところかな……」
大広間中央、アカネは岩塊で作られた十字架に縛り付けられ、神の子の処刑のような状態に陥ってる。
「ーー悪魔っていうよりは明るい未来のための生贄だと思うけどな」
と、どちらも大して意味は変わらないことを言った平坦な声が歪な空間に響く。正面前方、逆U字型の出入り口からコツコツと足音を立てて入ってくる影が一つ。
エマ・ブルーウィンド。
金髪の少女が星明かりに照らされて目の前に立った。
「おはよ、アカネちゃん。気分はどう?」
「………エマちゃん」
冷酷な現実が冷たい刃を振りかざしてアカネの心を斬りつける。彼女の自然の笑みが全てを肯定していて、アカネは傷ついた表情で苦くエマの呼ぶしかない。
最早「ない」とわかっていて、現実だと認めたのに、それでも見苦しく夢であってほしかったと願ってしまう。
こんなのは、嫌だ、と。
「………なにか」
知らず、声が出た。
「何か、理由があるんだよね?」
「うん?」
自分を誤魔化すための、真実を虚実にするためピースを見つけて無実のパズルを完成させるための、足掻くような声。
言葉自体はなんでもいい。ただ、エマが罪人ではないという確信が得られれば、それだけで。
「誰かに命令されてるとか、操られてるとかさ。……だって、だって。エマちゃんがこんなことするはずないもん」
「…………、」
「エマちゃんは優しくて、少しドジだけど可愛くて、おばあちゃん想いの女の子だもん。何度もあたしを助けてくれたし、あたしのためを思って泣いてくれた」
「…………、」
「あたし、嬉しかったんだ。エマちゃんだけは「レイシア」じゃなくて「アカネ」としてのあたしを見ていてくれているって思ったから。だから、エマちゃんは絶対こんなことしない。……だって、だってさ………」
「…………、」
「あたしのともだーー」
「あはははははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハはははははははははははははははははははははははハハハハハハハハはハハはハハははハハハハハは!!」
勇気を振り絞って言ったその貴重な言葉は、人を弄ぶのは楽しいとばかりに嗤う、悪魔のような凶笑に食い尽くされて、誰の耳にも届くことはなかった。
アカネが呆然とする中、腹を抱えて嗤う悪魔の少女が言う。
「どこまで馬鹿なのあなたっていう女は!全部、全部、全部!ここに至るまでの全部が嘘だったことくらいいい加減に気づけよ!笑笑笑ww(嗤)!マジデウケルヨオマエ。お願いだから笑わせないでよ、アハハハハハハハハハハ!」
「………、」
「状況がわかってない頭がお花畑なあなたに教えてあげる!何でそれに拘ってるのか知らないし興味もないからどうだっていいけど、きっとコレを言えば理想も夢想も泡のようにはじけてきえるだろうからねぇえええええ!!」
ーーだめ。
「ハナから「アカネ」なんて知らねーんだよ。アタシの目的は「レイシア」だ!第二王女以外興味なんてないんだよ!!!!!」
それは決定的であった。
哄笑している少女が、一番近くにいると感じていたのに突如として世界の果てよりも遠い場所に行ってしまった絶望と喪失が、アカネの心を再現なく蹂躙した。
真っ暗だった。
急激な脱力感に襲われ、まっすぐ前を見ることが出来ず、視界は闇一色で。
心が、おわる。
治りかけていたモノが壊される痛みは絶大で。
何にも学習しない愚かで馬鹿な自分に、心底嫌悪した。
わかっていたはずだ。
思い知ったはずだった。
ーー人間は、信用するに値しない生き物だと。
なのに、過去の惨劇から何にも学ばなかった愚者は一時の感情を優先して安易な救いの道に走ってしまった。
信頼できる友達だと勝手に思い込んで、とっくの昔にボロボロだった心を委ねて。
何ともまぁ滑稽なはなしじゃあないか。たった一日の付き合いで心を許し、命を助けられ、自分のために怒ってくれたり泣いてくれただけで歩み寄るなんて。
この世界も。アカネには優しくなかった。
信じたいと思い、信じられますようにと願い、信じられると心を許して。そのすべてが悉く握り潰された。
ハルたちも。
エマも。
あたしなんか見ていない。
何もかもがあたしじゃなかった。
その絶望がアカネに知りたいもないことを教える。
ーーそういえば、酒場区域で助けられた時、"幻色石"をまだつけていたのに、エマはアカネの髪色を『銀』だと言っていなかったか?
仮面の女に襲われた時。
あの罪人は殺気も敵意も何もないとハルが言っていたのに、何故あの場面では濃すぎるほどの殺気を感じた?
例えば、傷を負ってでも助けるという人の良さを際立たせてアカネの心を揺らし、この時のための信用を勝ち取るためにエマ自身が放った殺気で、全て自作自演のフィクションだったのではないか?
つまり、全てが嘘。
あの笑顔も涙も怒りも。ーー頬の痛みさえも。
「どう?わかってくれた?」
俯くアカネの耳元で、エマが面白そうに囁いた。二人だけの内緒話しをするみたいに。
「アタシはね、最初からあなたが目的で〈ノア〉に近づいたの。まぁ正直、実際に自分の目で確認するまでは情報筋のことは信じられなかったけど、会ってびっくり。目の前に、あの第二王女がいるんだもん。しかも何でか知らないけど王女は人間不信。これは使えると思ったよね」
エマは空中に浮かびながらくるくる回って、
「普通に殺すんじゃつまらない。だからアタシのことを信用させた上で、どん底に落としてから殺そうと決めた。人間不信の女なんて、同調して少し泣いて命懸けたらイチコロだからね」
「おばあちゃんの、ネックレスは……」
エマは空中で回るのをやめると清々しい笑顔で親指を立てて、
「もちろん嘘だぜ☆」
結局。
あの時あの瞬間。エマの話しに納得して、探し出したいと思った時からアカネがこうなることは決まっていたのかもしれない。
弱りきった心が、傷だらけの精神が限界だったからエマを選んで。
でもそれは間違いで、ただの悪い幻でしかなかった。
……じゃあ、どうしろと?
悉く色んな物を失うアカネに世界は、神様は何を望んでいる?どうせ壊れてなくなるのに、どうして甘い夢を見せる?壊れる瞬間が見たいからか?一六才の女の子が一人ぼっちで暗闇に押し潰されて泣く様が面白いからとでも言うつもりか!?
そんなのーー死んでいるのと何も変わらない。
ーー変わらないじゃないか。




