『一章』㉓ 傷の価値を知らぬ者
眠りたい時ほど目は冴えて、夢を見たい時ほど眠りは遠くなっていく。
宿のベット。毛布にくるまり横になっている少女は、きつく瞼を閉じて現実から逃げるのに必死だった。
酷いことを言った自覚はある。けれど本音を吐き出した自覚もあるから少女の内心は複雑だ。
やっぱり、聞かないほうがよかったのかもしれない。
何も知らないままぬるま湯に浸って身も心も腐乱死体のようにぐずぐずのぶよぶよになって、己のことすら不確かで曖昧な、本物なんて到底呼べない、錆ついた信頼を寄せていれば、こんな苦しくて辛い思いはしなかっただろう。
この世界で生きていく?
笑わせるな。
どの世界にも、少女の居場所なんてありはしない。「この」世界に捨てられて、「あの」世界にも捨てられて。
なら。
それなら一体、どこの世界なら少女は月並みの人生を歩むことが出来るのだろう。
どこまで、悲劇の沼に浸かっていればいいのだろう。
「ーーアタシもよく、そうやって毛布にくるまって夢の中に逃げようとしてたよ」
不意に声がして微かに驚くが、わざわざ飛び起きてリアクションを取る気にもなれなかった。
流石に全く覚えのない声だったら話は変わるが、幸いにもその音には聞き覚えがあった。
鈴を鳴らすような、可憐な声。
エマだ。
「おばあちゃんが死んだ時も。両親のことを考えた時も。イヤなことがあった時も。現実を見るのが辛くなって、泣きたいのに泣けなくて。……そういう時はいつも、夢の中に救いを求めてた。だって、夢でならみんなに会えて、幸せだったから」
「………、」
「でも気づくの。ああ、これは夢なんだって。本当じゃないんだって。夢から醒めた時、待っているのは前より胸が痛い現実だけ。突き付けられる。神様の底意地の悪さを。世界の理不尽を。……悲劇の密度と味を」
まるで優しく振る雨のような、じんわりと胸を湿らせる静かで切ない声色で言葉を紡ぐエマに、少女は唇を噛みながらも同族意識を抱いた。
分かるのだ。
彼女の気持ちが、痛いほどに。
少女も、そうだったから。
「でも、楽なんだよね。逃げた方がずっと楽なんだよね。辛い痛い苦しいに立ち向かうなんて、そんな強いことは出来ないもの。そもそも強かったら、最初から逃げてなんかいないもの。……向かい風の中に立つことが出来るのは、ソレを追い風に変えることが出来る一握りのヒトだけなんだよね」
「………、」
「アタシは。そんな人たちがスゴイって思った。羨ましいって、そう思った」
ギシ……っと。ベットが軋んだ音を立てた。横を向いて寝ている少女の後ろに、エマが座った気配。
「アカネちゃんは、アタシがスゴイって、羨ましいって思えた人だよ」
「………、」
意味が。
分からなかった。
「ビクビク震えながらもアタシのために叫んでくれた。恐怖を押し殺して罪人と戦うハルくんたちの許へ戻ろうとした。それは、誰にでも出来ることじゃない。多分、大多数ができない。みんな、動けない」
そんなことない、と声に出さずに呟いた。
表面上だけならエマが言う通り勇気ある人に見えるのだろう。
書類審査だけなら間違いなく合格だ。
だってその四角四面にはネットで検索したような美辞麗句しか書かれてなくて、中身なんてないし誰でも口に出来るような、バーゲンセールで売られている一個一〇〇円の文字で作られた価値の安い言葉でしかないのだから。
だって、少女は動いていない。
やめて。
戻って。
言っただけで、実際に行動には移っていない。
「そういうことじゃないよ」
まるで少女の思考を断ち切るようにエマは言う。
「言えること自体がスゴイことなんだよ。あんな状況で誰かのために何かをしようと思えること自体が、奇跡みたいなものなんだよ。……それは。ハルくんたちにも同じことが言えるんじゃないかな?」
「………、」
「ハルくんたちは、アカネちゃんをーー」
「ーーあたしのためを思って?」
鼻で笑うような声が低く響く。
エマの声を遮った少女は、毛布の中から出ずに言う。
「あたしのためを思ってって、どの辺りが?王女だったことを隠していたこと?髪の色を変えていたこと?一体、何があたしのためだったって言うの?こっちの気も知らないで歯の浮くようなことばかり言って、信じてほしいなんてほざいて。……あぁ、あぁ、確かに少しは信じてみてもいいかもって思ったよ。でもそれは幻想で、一時の感情が見せた夢でしかなかった。隠し事をする人間を、あたしのためだって嘯いて隠し事をする人間を。どうやって信じればいいの。……どうすればよかったの!」
「アカネちゃーー」
「うるさい!」
バッ!と。
毛布を乱暴にエマへとぶつけてベットから出て、少女は窓の前に立った。
月光に淡く照らされながらエマを睨む少女の蒼い双眸は、空の色の瞳は、嵐のように荒れていて、今にも雨が降り出しそうな、そんな目をしていた。
「あんただってそうだ。あたしをいちいち期待させないで!あんただってあたしが王女だからあの時助けてくれたんでしょ!あたしはスゴくない、スゴくないよ!弱虫で臆病で、何にも出来ない女なんだ。それなのに、あたしの気持ちを理解した気になって美辞麗句を並べないで、ムカつくのよ!……一人の辛さを知らないくせに。何も知らないくせに。友達、なんて。友達だなんて呼ばないで!あんたのことなんて友達って思ってないんだから!…………もうこれ以上あたしに構わないでよ赤の他人なんだから!!!!!!」
ーーパァン!!と。
月明かりだけが光源の部屋に音が響いた。
銀髪の少女はその音の衝撃に呆然となり、固まっていた。
微かに横を向いてしまった顔を正面に戻せば、エメラルドカラーの、綺麗な瞳の片方から痛そうに涙を流すエマがいた。
遅れて、ヒリヒリとした痛みが頬に伝わり、平手打ちを喰らったのだと悟る。
悲しそうにこちらを睨む金髪の少女は言う。
「アカネちゃんが、アタシを友達って思っていないならそれはそれで構わない。一方通行でも大丈夫」
「………、」
「だけど。あなたにアタシがあなたを友達と呼ぶ権利を奪う資格なんてない。あなたと友達になりたいと思ったアタシの心をバカにする資格なんてないっ!」
「そんなの……っ!」
そっちの勝手な都合でしょ。ーーそう言おうとして、しかし言えなかった。
ぐっと、胸倉を掴まれると引き寄せられて、互いの息がかかるくらいの距離で、こう言われた。
「そもそも!あんたのためだからこっちは命を懸けたんだ!友達のために命を懸ける行為が、そんなに信じられないか!?」
「ーーーーっ!」
鈍器で頭を殴られたような衝撃があった。
思わず下がろうとするが、そんな逃避なんて許さないとばかりに、エマは言う。
「あんたの悲劇に、アタシを巻き込むんじゃないわよ!!!!」
くらり、と。
エマの手が胸倉から離れると、少女は窓に背をつけて、そのままズルズルと床に座った。
………そういえば、エマ・ブルーウィンドは何も知らなかったんじゃないのか?"幻色石"は〈ノア〉であるセイラたちが付けたもの。
で、あるならば。
依頼人である金髪ツインテールのこの少女は、銀の髪の少女の正体が第二王女だと知る由もなかったはず。
つまり。
エマは、「レイシア」のためじゃなくて……。
「今言ったことは、多分。アタシだけの気持ちじゃないと思う」
「………、」
「誰かのために傷を作るって、簡単なことじゃないんだよ」
「………、」
「簡単なことじゃ、ないんだ……」
寂しそうにエマは言うと、部屋から出て行った。
その後ろ姿を、少女は見てることしか出来なくて。
ーー涙は一滴も、流れてはくれなかった。




