『一章』⑫ 希う、雷
ーー走ったところで何かが変わるわけでもない。
自分の醜悪さに気づいても改善しようと思えなければ汚れが落ちることはない。
真っ白だったキャンパスは、とうの昔に傷だらけの黒色だ。パレットナイフで薄く薄く削ぎ落としても意味はない。
人を信じるという心の働きは錆び付いて、もう使い物にはならない。
異世界に来たところで、サクラ・アカネが劇的に変わるワケではないのだ。変われるわけがなかったのだ。
だって。
人は化物だ。
ヒトを傷つけて嗤う怪物だ。
アカネの周りには、そういう人しかいなかった。
だから心は次第に摩耗して擦り減って、自動的に信頼という情を彼方の向こうへ追いやった。
必要がないモノだと、不要なモノだと、儚いモノだと確定印を押して手が届かない心の箪笥の奥へと仕舞い込んだ。
それは、そうだろう。
トイレに閉じ込められ。
水をかけられ。
大勢の人から寄ってたかって、指を差されて罵詈雑言を浴びせられ、迫害されて、心が無事なわけない。無事なわけがないじゃないか。
一〇代の少女が人にも世界にも絶望して、何の期待も持たないで闇に沈むのは当然だ。
正義という名の優しさを諦めるには十分過ぎるエピソードだ。
それを、なくす。
急に変えろと言われても。
「いってぇなぁ!どこ見て走ったんだ!」
「ーーっ。すみません」
エマから大分離れた地点で男の人とぶつかってアカネは一度足を止めてから頭を下げる。
どこを見て走っていたのかこっちが知りたいくらいだ。
どこへ走っても、どこへもいけないのに。
それでも走らないと「影」に追いつかれてしまうから、アカネはすぐに足をーー、
「おい。誰が行っていいって言った」
「ーーっ!」
途端、アカネの細い肩を男の手が掴んだ。
予想外の衝撃に驚愕したアカネは条件反射で振り向いて目を丸くする。
とにかくデカイ、巨漢だった。
さっきは相手も碌に見ないで日本人の悪癖である『すぐ謝る』が出たから特に何も感じなかったが、いざ視界に入れてみればぶつかった男は筋肉の塊だった。
日光に焼けた黒い肌に筋骨隆々とした肉体は力士よりも大きく、熊よりも威圧的で、アカネなんて魚卵か何かのように軽く潰せそうだ。
巨漢の隣に手下みたいな男も含めて、この場にいる全員が赤子のようだ。
巨漢がアカネの顔をみて目の色を変える。
「んん?よく見たら黒髪の嬢ちゃん、お前結構、つーかかなり可愛いじゃねーか」
「……そんなことない、ですから。もう、行ってもいいですか」
「ダメだ。お前は今日から俺の女にする。丁度今日の夜は暇だったからな。ガハハハ!」
巨漢と金魚のフンみたいな男が下品に嗤う。
酔っているようだ。まるで話しが通じそうにない。忌避感に従い逃げようとするが何故か足に力が入らず、地面に縫い付けられているみたいにピクリとも動かない。
ーー怖いんだ。
目の前の巨漢が。
期待することなく周りを見れば大半が肩を竦めて呆れたように息を吐き、傍観しているだけでアカネを助けるために動こうとはしていない。
少し、安心してしまった。
これが普通だ。これがアカネが知っている人間だ。わざわざ自分の身を危険に晒してまで他者を助けるなんて誰もしない。
メリットがない。
正しかった。
アカネは正しかった。
歪んでいるけど歪んでいなかった。
人間なんて、信じない方がいい。
人間になんて、期待しないほうがいい。
だからーー。
「ーー何やってんのよ筋肉ダルマああああああああああああああああああああ!!」
彼女の登場には本当に呆然となった。
赤いリボンに金髪ツインテールの少女、エマ・ブルーウィンドが駆けつけて来たのだ。
頭には鍋をセットして手にはお玉を持った少女は
いつもの流れで転んだが、すぐに立ち上がるとアカネを守るように勇ましく立って巨漢を睨んだ。
「誰だ、お前」
「通りすがりの美少女よ。この銀髪少女はアタシの友達なの。それ以上近づかないで」
「……エマちゃん」
巨漢は子供の反抗を見るように笑って、
「ガハハハハ!そんなチャチなモンで俺をどうにかするってのか?おいおい俺は鍋の具材じゃねーんだぞ、友達思いの美少女料理長!ガハハハ!」
「ええそうね。あんた出汁を取って終わりにしてやるわ。……嘘今のやっぱなし。アンタの出汁とかすごく不味そう」
エマの嘲る言い方に巨漢はスッと笑みを消して苛立たしげに彼女を睨んだ。
「調子に乗るなよクソカギが。そこの女は俺のモンだ。痛い目に遭いたくなかったら今すぐそこをどけ」
「いや」
「殴られてぇのかよ?」
「そっちの方がまだマシね」
「あん?」
エマのその堂々たる一言にはさしもの巨漢も怪訝になったらしい。もちろんアカネもだ。
エマ・ブルーウィンド。彼女は気持ち程度の装備品全てを外して放り投げ、それから細い腕を組むと言った。
まるで朝の挨拶のように当たり前に。
平然と。
凛と。
「ーー友達を見捨てるくらいなら、傷を負ったほうがマシだって言ってんのよ」
「ーーーー」
意味が。
分からなかった。
だってあたしとエマちゃんは、別に……。
「はっ!泣かせてくれるねぇ!だったらこうしよう!お前が今この場で服を脱いで俺に謝ればーー」
「ーー友達助けるためなら服なんていくらでも脱いでやるわよ!女なめんじゃねぇ!!!!」
それは恫喝だった。
ビリビリと空気を伝ってアカネの肌を叩く、力強い声だった。酒場区域全体に轟くような女の叫び。
上着を脱ぎ、上半身だけ下着になった、白い肌を恥ずかしげもなく堂々と見せつけるエマの姿に巨漢は微かに怯み、そしてアカネは呆然となる。
こんなの、知らない。
こんな人、知らない。
さっきまで酒場区域の雰囲気にビビっていた同年代の少女には、とてもじゃないが見えなかった。
……どうして、そこまでするの。
だって、アカネはエマのことなんて何も考えていなかったのに。友達、なんて。応えることは出来ないのに。
「……もう、いいよ。もういいよエマちゃん。あたしのことなんて、放っておいてよ……」
「そんなの」
彼女は振り向いた。
少し、寂しそうに笑っていた。
友達に、そんなこと言ってほしくなかったみたいに。
「そんなの、出来ないよ」
「ーーぁ」
唇から漏れたのは頼りない吐息だけだった。
ここまできてもまだアカネの心は開くこともなく、エマを信頼しようともしない。
「友達」なんていう夢物語の登場人物に手を伸ばすことは出来なかった。
交わした言葉は少なくて。
互いのことなんて何も知らない。
ーーそう。何も知らないのだ。
それはアカネだけじゃなく、エマにもハルにもセイラにもユウマにもギンにも同じことが言える。
なのに、なのに、だ。
彼女はそれでもアカネを友達と呼び、こうして身を危険に晒してまで助けようとしてくれている。
信じることは難しいけど。
友達なんてすぐには言えないけれど。
自分のためにここまでしてくれた人が、果たして■以外にいただろうか。
目の前でそんな人が傷つくのは、アリなのか?
「……め、て」
今度はもう。
吐息だけではなかった。
「もうめんどくせぇんだよ!」
その姿に。
少しでも報いたいから。
「やめてっ、やめてよぉぉおおおお!」
「ーーその依頼。俺が受けてやる」
それに、前兆なんてなかった。
その人影は颯爽と天から舞い降りると巨人の拳と見紛う男の一撃を簡単に片手で受け止め、一人の少女の依頼を一瞬で達成していた。
圧倒的劣勢を切り裂く勇壮な声。
最初、誰だか分からなかった。後ろ姿も理由の一つだが、単純にあの巨漢の一撃を造作もなく片手だけで防いだ人が「彼」だとは思わなかった。
ハル・ジークヴルム。
説明はいらない。
ただ、彼がそこに立っていた




