『三章』⑬ 刻まれた恐怖の証
ノーザンがレヴィの部屋を出てしばらく経った後、アカネたちは「案内人」の話を一旦置いておいてそれぞれ小休憩という名目で自由行動を取っていた。
アカネの何気ない一言で小さい溝が出来てしまったことは言うまでもないだろう。
溝、とはノーザン自体思ってないかも知れないが、アカネからしてみれば自分の発言の結果こうなってしまったのだから胸が痛い。
「まぁそんな落ち込むなよアカネ。ほら、肉食うか?」
「いらない……」
「じゃあジュース飲むか? うめーぞ!」
「いらない」
「……そ、そうですか」
『エリア・酒』のメインストリートをアカネとハル、それからギンは歩いていた。街の喧騒の中、ハルはしょんぼりしているアカネを元気付けようと、自分が食べていた肉やら飲み物を渡そうとするが効果はゼロ。逆にハルまでしょげてしまって、二人の足下をちょこちょこ歩いているギンが口を開いた。
「何この空気。おれまで病んじゃうよ」
なんなら体調壊しそう、まで思ったがギンはそれを口にしなかった。言ったらもっと空気が沈んでしまうと思ったのかもしれない。
ともあれ犬に気を遣わせるなんて碌でもないんだから、とか思わないでほしい。
それほどまでにアカネは今回の一件でダメージを負ったのだ。
だって、自分からノーザンを助けたいと言ったのに、自分の発言で彼女を傷つけてしまった。そんな気はなかったにせよ、傷つけてしまった事実は変わらない。
アカネは歩きながら呻いた。
「うぅ……。ごめんなさいノーザンさん。あたしの最低発言のせいで……。あぁ、ダメだ。今日のあたしは全然ダメだ……」
ますます肩を落とすアカネが見てられず、ハルは肉を食べ終わると笑いながら、
「大丈夫だアカネ! アイツもお前のせいとか思ってないぜ! 俺が保証する!」
「ハル……。でも、あたし……」
「ずっと落ち込んでても何かが解決するわけじゃねーんだ。もっと前を見ろよ。失点は取り返せるんだから」
笑ってそう言ってくれたハルに、アカネは数秒見惚れてしまった。
やっぱり、この男の子は人に勇気と前を向く力を与えてくれる。そういう言葉を無償でかけてくれて、どこまでも優しい。
ハルの言う通りだ。
失点は、取り返せる。
アカネはフッと笑って、
「じゃあ早く取り返さないとね。逆転も狙っちゃうんだから」
「その意気だ。にしし!」
なら早速行動に移ろうと思い、アカネは「案内人」候補を探すために必要なことを思い浮かべた。
まず第一に、前提条件として「案内人」は「アイオリア王国」の「アネモイ」出身じゃないといけない。
そして「アネモイ」出身者でも地元の土地勘が鈍い人や、信頼できない人間は採用確率は非常に低い。
ある程度の土地勘を持っていて、尚且つアカネたちが信頼できる人間じゃないと「案内人」という大役は務まらないだろう。
何故なら相手は「ドロフォノス」。
罪人の中でもトップクラスの連中で構成された「一族」だ。何か一つでもヘマをすれば、食い殺されるのは明白。
少しでも優位に立ち、盤面をコントロール出来なければ勝負にならない。
アカネは『エリア・酒』の街並みを見回していると、不意にあることに気がついた。
「? ねぇハル。なんか、気のせいかな? 街の人たち、あまり元気がないように見えるんだけど……」
「んん……?」
アカネにそう言われ、ハルは目を凝らすように辺りに視線を振った。
すると、ハルは怪訝な顔をして、
「確かに。なんかヤケに暗いな。さっきまでは賑やかだったのに、今はその名残すらねぇ」
「本当だね。何かあったのかな? お腹でも痛いのかな?」
「それだ」
「そんなわけないでしょ」
「いてっ」
ハルとギンが冗談を言い合い、アカネは軽く少年の青白い髪の毛頭を叩く。
ハルが感じた通り、『エリア・酒』の全体的な雰囲気が、かなり落ち込んでいるように見えた。原因はもちろんアカネには分からないが、流石にこの短時間で急変し過ぎな気がしてならない。
怪訝な様子でいるアカネたち。
すると、そこへ耳を叩くような大声が街に響いた。
「どいて、どいて! 誰か、誰か医者を連れてきて! 早く!」
「なんだ?」
緊張感、それから必死、更には焦燥の色を感じる声が「エウロス」の『エリア・酒』を包み込む。アカネたちがそちらに目をやれば、一人の女性が人混みを掻き分けながら走っていた。
銀色のドレスに、崩れた化粧と髪の毛。
「誰か、誰かぁ……っ! この子を医者にッ。この子を助けてぇ……!」
女性が周囲の人たちに懇願するように呼びかけた。彼女の言葉を聞いて、アカネたちは女性に注目する。よく見ると、銀色のドレスを着た女性は細い腕で誰かを抱いていた。
血に染まった幼女。
腕が、足が、ぐにゃりと明後日の方向に向いている、凄惨な姿。
息を呑んだ。
瞠目した。
「な……っ」
「お願い、お願いだからぁ……っ。誰かこの子を助けてぇ……っ!」
涙で化粧も崩れ果て、体裁なんか気にしない、周囲の目なんてどうでもいい、本当に腕の中にいる子供のために必死になっている女性。
その姿に、その目を瞑りたくなるような光景に、何故か街の人たちは誰一人として近寄らず、助けようともしない。
違和感のある状況。
しかしそれを深く考えるよりも前に、アカネたちは急いで銀色ドレスの女性の元へと駆けつけた。
「大丈夫ですか!」
「何があった⁉︎」
道のど真ん中でへたり込んだ女性は、駆け寄ったアカネたちに縋るような目で言う。
「お願い、お願いします……っ。この子を、私の子供を助けてッ。ひどい怪我をしてるの……っ!」
そう言われ、アカネたちは彼女の腕の中に視線を落とす。
間近で見る、子供の姿。
惨い。その一言に尽きた。
遠目で分かった子供の重症具合は、しかし近くで目にすると想像を遥かに超えている。腕や足がズタボロなのは言うに及ばずだが、他の箇所も酷い有様になっている。まるで高スピードのトラックに轢かれたかのように、幼女の全身は見るも無惨な傷に打ちのめされていた。
アカネは思わず、口元を手で押さえた。
涙が出そうになる。
「ヒドイ……っ。どうして、誰がこんなことを……っ」
人が出来る所業じゃない。悪魔か、鬼か。とにかく人間の心を地獄の底に置いてきた咎人がするような悪虐非道だ。
ハルは涙を堪えるアカネの肩に手を置いて、子供を見ている。
すると、ハルが言った。
「おいアカネ。この子はまだ死んでねぇ。息があるぞ」
「……え?」
信じられないとばかりにアカネは顔を上げて子供を見る。もう助けられない死んでいる、と思い込んでいたが、注視してみると確かに呼吸を感じる。虫の息だが生きている。
アカネは安堵の息を吐き、「よかった……」と呟いてから母親である銀色ドレスの女性に話しかけた。
「詳しい話は後でお伺いします。とりあえずこの子をすぐに病院へ連れて行きましょう。この街には病院は?」
母親の女性は涙を拭いて、
「ひとつだけ、あります……。でも、病院には行けません。行っちゃいけないんです……っ」
「行っちゃいけないって、どうしてですか?」
「それは……っ」
我が子がこんな状態なのに病院へ連れてってはいけないなんて意味が分からないとアカネは怪訝になってしまう。
この世界には魔法がある。病院へ行けば腕の良い治癒者がいるはずだ。元の世界では助からない大怪我も、この世界でなら助かる可能性は十分あるのに。
そんなこと、アカネに言われなくても皆が理解しているはずなのに。
アカネの疑問に、銀髪ドレスの女性は次の言葉を言い淀み、口を噤んだ。
何か。
アカネたちには知り得ない理由があるのだろうか。
「でも行かないとお子さんは助かりませんよ!」
「行けないんです、行けないんですっ!」
「でも……っ!」
最早ここまでくると強情のレベルを超えていた。というより、アカネには謎に思える『恐怖』が確実に女性を蝕んでいるのが分かった。
行きたくても行けない。
だから病院ではなく『医者』を探していたのか。
まるで天国へ行きたいのに地獄の閻魔がその道を閉ざしているため向かえない善人の魂のようだ。
アカネは女性が必死にそう訴えかけてきて戸惑ってしまう。
何か手はないのか。
このままでは子供は死んでしまう。
女性の、母親の心も死んでしまう。
「どうして……っ」
気がつけば、アカネは歯を食いしばると周囲に視線を振った。周りで傍観している、街の人々。
「どうして誰も助けようとしないの! 病院に行けないなら誰か医者を呼んでよ! 呼べないなら多少の知識がある人が応急処置をするとかできるでしょ! 目の前で子供が死にそうになっているのに、どうして誰も動こうとしないのよ!」
アカネの怒声に、街の人々は目を逸らしたり気まずそうにしながら口を閉ざす。その行動自体が更にアカネの癪に触ったが、何を言っても無駄な気がして少女は次の行動に出た。
せっかく貰った変装グッズだが、やむを得ない。アカネは刀剣魔法を発動し、刀剣の「柄」部分だけを顕現。幼女の手足を処置するために副木として、包帯はハルの変装グッズの付属品として付いていたためそれを使った。
それでも骨折レベルの怪我を悪化させない処置だ。この幼女の命を削っている原因そのものは、大怪我はこんな応急処置じゃ治るはずもない。
アカネの行動に、母親であろう銀色ドレスの女性は涙ぐみながらお礼を口にするが、それを言われるのはまだ早い。
「病院に連れて行けないなら、せめて治癒者を探さないと……」
「治癒者って言っても、そんな都合よく見つかるとは思えねぇぞ。……それに」
「ハル?」
ハルは言葉を区切ると、未だに誰も助けようとしない街の人々に視線を振った。
「ただでさえこんな意味わかんねー状況なんだ。治癒者を探し出したとしても、そいつが協力してくれるとは限らねぇんじゃねーか?」
「そんなこと……」
ない、とは言い切れずにアカネは言葉を詰まらせた。街の人の様子から見れば、ハルの言葉は説得力があり過ぎる。
だが、ならどうしろと?
病院にも行けない。
治癒者も協力してくれない。
人が人を助ける行為をここまで否定されるなんて、そんなのは悲劇だ。あまりにも酷すぎる。
「––––なら。「エウロス」の人間じゃないならその子を治しても問題はないじゃろう?」
そう言って、どこからともなく姿を現したのは、白い髪を足下まで長く伸ばした幼女だ。白いワンピース姿で、素足。喋り方がお婆ちゃんみたいで。
その子を視界に入れた瞬間、アカネは目を見開いた。
「め、メイレスさん……!」
「ふっ。救世主登場ってところかの?」
「ばあちゃん! そんなのいいから早く治してやれよ!」
「はいはい。わかったわかった。そう焦るなハル坊」
メイレス・セブンウォー。
「アリア」の町長にして謎に包まれた存在が、優雅に悠然と現れて、アカネの中で不思議な安堵感が広がった。
知っている、知っているのだ。
メイレスは、傷を癒せる。
それは泥犁島でノーザンの致命傷を治したことで実証されている。
アカネはメイレスに縋るように、
「メイレスさん、メイレスさん……っ」
メイレスはアカネの真横に来ると屈んで笑う。
「もう大丈夫じゃ。この子は儂が治す」
「お願い、します……!」
有言実行。
神の奇跡。
淡い翡翠色の輝きが、銀色ドレスの女性とその腕の中にいる少女を包み込み、二人を癒した。
母親の女性は流れていた涙から擦り傷、娘である少女は全身を蝕む怪我の嵐。それら全てが、まるで時間を巻き戻すかのように癒え、白い肌が露出した。
浅かった呼吸が規則正しいリズムを刻みながら復活し、それを見届けた母親の女性が奇跡を目の当たりした表情で呟いた。
「……あ、あの」
メイレスは治癒を終えると微笑して、子供の頭を撫でる大人のように母親の女性に接した。
「心配するでない。お主の娘は生きておる。家に帰って二人でゆっくりするといい。きっと悪い夢だったと、明日にはそう思えるはずじゃ」
「……あ、ありがとうございます。ありがとう、ございます……っ!」
「うむ。さぁ、行け。ここは危ない」
「はい、ありがとうございました、本当に!」
涙ぐみながら、銀色ドレスの母親はそう言うと、娘を抱き抱えながら街の中へと走り去っていった。その後ろ姿に安堵したアカネは嬉しそうにしながら息を吐き、それからメイレスに視線を移した。
「メイレスさん。助けてくれてありがとうございます。それから無事でよかったです」
宝石鳥から会っていなかったから、再開できたのはシンプルに嬉しかった。
どこで何をしていたのか。
どうしてこの街を選んだのか。
訊きたいこと、話したいことが山ほどある。
だからアカネは続けて喋ろうとして、しかし、その瞬間にメイレスに人差し指で唇を触れられた。
沈黙、その合図。
「しー。積もる話は後にしよう。今はここから離れるのが先決じゃ」
「離れる? なんで––––」
「いいから来るんじゃ」
「え、えぇえええ!」
半ば無理矢理にメイレスに腕を掴まれて、アカネはどこかへと連れて行かれる。その後ろ姿を、ハルとギンは首を傾げながら見ると、ゆっくりついていった。
そうしてメイレスに連れられてやってきたのは、「エリア・酒」の一番端の区画にポツンとある、誰も住んでいない一軒家だ。
アカネたちはリビングへ入る。綺麗に整頓されている。メイレスが部屋の中央に備え付けられたソファに座ると、その対面にアカネとハルも腰を落ち着かせる。その様子を見届けると、メイレスが軽く指を振るった。途端にキッチンの方から人数分のカップがリビングに空中を踊るようにやってきて、遅れて骨董品に思えるティーポットが飛んでくる。
ティーポットがカップに紅茶を淹れ、それぞれの前にそっと置かれた。
「あの、メイレスさん。ここは……」
「ここは最近まで使われていたが、もう誰も住まわなくなった家じゃ。勝手に使って悪いが、今は仕方ない。ありがたくいさせてもらおう」
全く悪いと思っていない様子でそう言うと、メイレスは紅茶を一口啜った。つまりそれは不法侵入なのでは? とか思ったがそれを言えば話が逸れるのでアカネもとりあえず紅茶を飲んだ。
それから、アカネはカップをテーブルの上に置いて、
「それでメイレスさん。どうしてあの場を離れなきゃいけなかったんですか? ……どうして、あの人たちは誰も助けようとしなかったんですか?」
メイレスは紅茶を飲みながら、
「しなかったんじゃない。出来なかったんじゃ」
「出来なかった?」
メイレスの妙な言い方に、アカネは眉を顰めた。出来ない、とは物理的な話か? だとすれば意味不明だ。あの時あの瞬間、誰もが手足を拘束されていたわけではない。だから誰でも動けて助けることが出来たはずだ。
「そうじゃない。もっと根本的な話じゃよ」
「え?」
アカネの怪訝を察してメイレスが呟く。
続けて、白い髪の幼女は言う。
「肉体的な、物理的な話とはまた違う。……そう、言うなれば「掟」じゃな」
「……「掟」?」
「例えばアカネ。お主は誰かに人を殺せと言われたら殺せるかの?」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか」
「そうじゃろうな。それは誰もがそうで、そういう風にルールが決まっているからじゃ。ルールを破れば例外なく罰せられる。その方法はルールを定めた当事者たち次第。重いにせよ軽いにせよ、罰は皆が恐れる。だからしない。だから破らない。だから守る」
ルールはどんなモノにも存在する。
スポーツは言うに及ばず、会社や学校、交友関係に家族。中には恋人同士で決めているかも。
とにかく生きる上で人間の隣には常にルールが息を潜めている。
ルールを破れば罰則。
スポーツなら退場。
会社ならクビ。
学校なら退学。
交友関係なら絶交。
家族なら絶縁。
恋人なら破局。
そういう風に重い罰を強制的に強いることで、ルールを犯させないように行動を制限し制約させる。
故に、ルール。
しかし、ルールはなにも人間間だけに用いられたモノではない。
皆もご存知だろう。
誰しもが恐れる絶対的なルール。
––––それが『法律』だ。
法律は皆が無意識に守る。
盗んだらダメ。
人を殺したらダメ。
それが当たり前だからだ。
「……まさか。人を助けちゃいけないっていうルールが、法律があるから誰も助けなかったんですか?」
「それがルールじゃ」
「そんなの……っ!」
自分で悪い予感を働かせて思考を巡らせたアカネは、メイレスの返答に怒髪天を貫いた。思わず立ち上がって、カップの紅茶の水面が揺れる。
分かっている。
メイレスは何も悪くない。
悪くないから、誰に怒っていいか分からなかった。とにかく叫ばないとやってられなかったのだ。
だって、そんな残酷な法律があっていいのか。
人を助けたらいけない、なんて法律は、まさしく人道に反するじゃないか。
「落ち着けアカネ。ばあちゃんの話はまだ終わってない。そうだろ? ばあちゃん」
隣に座っていたハルにそう言われて、アカネはとりあえずソファに座り直した。
それから、メイレスを見ると彼女は頷いた。
「うむ。助けられないルールがあるのは本当じゃ。しかしそのルールが適応されるのはこの街に根付く大きな『法』を破った時だけ。……それが「生命税」の滞納じゃよ」
「生命税……っ」
聞き覚えのある胸糞悪い税金に、その『法』にアカネは嫌悪と怒りを明確に抱いた。
カイと二人でいる時に、少しだけ説明してくれた。
命を買っている。
生きる為に必要な支払い。
「あそこにいた親子は、生命税を払えんかったんじゃ。だからあの傷を負った。だから誰も助けられなかった。生命税を滞納した者は助けるべからず。例えどんなに重症でもの。……命の税は、自らの命で支払え、ということじゃろうのぉ」
「……っ。だからって、人を見殺しにするなんて間違ってるよ! そんなのは法律でも何でもない、ただの横暴な子供のわがままだ!」
アカネの怒りを、メイレスもハルも、ギンでさえも静かに受け止めていた。
彼女の言葉は、感情は正論だ。普通に考えて人の命が金と同等なんてありえない。まして、金が払えないだけで命を対価にされるなんてどうかしている。
だけど、何より一番許せないのが……、
「「エウロス」の人たちは、どうしてそんなルールを守っているのよ。守る義理も道理もないじゃない……っ!」
ルールを守って人を死なすなら、そんなルールに価値なんてない。存在意味も理由もないし、守る必要もない。そんな塵屑ほどの価値もない誓約に縛られるくらいなら、いっそのこと破って下剋上をした方がまだマシだ。
アカネの隣に座っているハルが、彼女の気持ちを察するように背中にそっと手を置いた。
それから、ハルは手をそのままにしながらメイレスの方を向いた。
「この街の現状ってやつを、俺たちは知らない。ついさっき来たばかりだし、深入りしたってろくなことにはならねぇだろうな。だけど、「生命税」なんてもんを知っちまったらどうにかしてやりたいって思うだろ。そんで、俺たちがそう思うことをばあちゃんが分からないはずないんだ。……だから、何かあるんだろ? わざわざ俺たちに「生命税」の話をした理由がさ」
「……ふむ。ここでハル坊が怒鳴らないあたり、成長しているようで儂は嬉しいよ。そしてご明察。儂はな、この街を変えてから「アネモイ」に行きたいと思っておる」
「変える……?」
予想外のことを言われてハルたちは少しばかり驚いた。ギンが首を傾げて思わず呟いたのも無理はない。
変える、とは。
当初の予定にはないからだ。
ハルは立て続けにメイレスに訊いた。
「変えるってのは、どういう意味だ? ばあちゃんがよくわかんねえ事言うのはいつもだけど、今回ばかりはその度が過ぎてんじゃねぇのか? だって、ばあちゃんが言ったんだぞ? この街で騒ぎを起こすなって」
メイレスは紅茶を一口飲んで、
「そうじゃ。騒ぎを起こせば自然と首都である「アネモイ」に情報がいく。そうなればこちら側が攻めに来たことも「ドロフォノス」に気づかれてしまう」
「だったら……」
「じゃがな。目の前の不幸を見過ごした先に明るい未来はないと、儂はそう思うんじゃよ」
メイレスのその言葉に、ハルもアカネも口を閉ざした。彼女の思考は、想いは〈ノア〉の活動目的と同じだった。
困っている人がいたら誰でも助ける。
それはメイレスも同じ。
思えば、泥犁島の時もメイレスはアレスの言葉に負けず、ノーザンを治してくれた。
そして勘違いをしてはならない。
メイレスはこの街の現状を説明してくれただけで、見捨てるとは一言も言ってはいないのだ。
アカネはまるで失意の下から光を見たかのような瞳で、メイレスを視界に入れた。
白い髪の美幼女は、唇を緩めた。
「助けたいんじゃろう? ならそうするといい。その行動は、絶対に咎められるモノではないんじゃから」
「メイレスさん……」
「それに。儂がこの街の状況を打破したい理由はそれだけではないしの」
アカネとハルは首を傾げた。
メイレスは持っていたティーカップをテーブルに置いて、
「「案内人」候補に、儂は一人推薦したい者がおる。其奴がこの街に……いや。この街を脅かす人間なんじゃ」
「それって……?」
メイレスは笑った。
イタズラに人を弄ぶような、神に似た顔で。
「––––ベルク・ドロフォノス。この街では区長と呼ばれている男じゃよ」
♢♢♢♢♢♢
––––らしくないことをしたと、ノーザンは少し後悔していた。
「エリア・酒」から「エリア・淫」に入る、その境界門の前だった。
あの部屋から飛び出して、色々考えながらあてもなく歩いていたら、いつのまにかこんなところにまで来ていたのだ。
「……はぁ。私はどうしていつも……」
その場の感情で全てを台無しにしてしまう。
全部そうやって、いい流れを自分から絶ってしまう。「ドロフォノス」の家を飛び出して、適当な男に抱かれた時も。拷問を受けた時も。
まるで子供じゃないかと、怒りさえ覚えてしまう。
私情なんて挟む必要はなかったし、そんな甘さなんて捨てなきゃいけないと理性では分かっていた。
それなのに、それが出来なかった。
何故か。
嫌だったのだ、本当に。
……自分のせいで、仲間が死ぬのは。
「……仲間、なんて。私もどうかしちゃったのかしらね」
元々は敵だった。殺し合った関係だ。
だけどあの人たちと、サクラ・アカネたちと短いけど同じ時間を過ごしてわかったことがある。
あの人たちは、根っからの善人だ。
偽善じゃない。
本当に、根本的に、心から優しくてお人好し。
観察していた。
いつかボロが出るんじゃないかと。
綺麗ごとばかり並べて、言葉と行動が噛み合わなくて、いつか瓦解して崩れ去る無様を、ノーザンは少し期待していた。
だが。
––––ねぇノーザンさん、見て!
––––おいノーザン聞いてくれよ! ユウマの奴がさぁ!
––––ノーザン。お前って甘いの好き?
––––先にシャワーを浴びるか? ノーザン。
––––撫でるのが上手い……? これが母の手か!
どいつもこいつも、本当に。
ついさっきまで敵対してたのに、自分たちが信じると思った相手にはとことん警戒心を解いて。逆にこっちがバカみたいだった。
疑心暗鬼に囚われて、くだらない懐疑心を抱いて。
「……手に入らないモノだと思っていたのだけれど」
仲間。
あの家に囚われていた時には、なかったもの。
光の向こう側にあるような、手を伸ばしても届かない価値のあるモノ。
初めて知った。
だから、失いたくない。
これ以上、自分のせいで自分の周りの人間が傷つく様を見るのは、耐えられないのだ。
「それが甘さだと言うんだから、この世界は本当に腐っているわよね」
人知れず呟いてから、ノーザンはふと顔を上げた。何やら「エリア・酒」のメインストリート付近が騒がしかった。
なにかあったのか? まさかサクラ・アカネたちが何かしでかしたのか? そんな懸念が脳裏を過り、足をそちらに向けようする。
だがその瞬間、とてつもない悪寒がノーザンの背筋を這い登った。
ゾ……ッッッと。
全身の産毛が逆立ち、鳥肌が止まらず、ブルリと震える。
反射的に背後を振り返った。
『エリア・淫』のある方向。
心臓の音がうるさい。
ドッドッドッドッ……と、動悸が激しい。
走ってもいないのに息が切れる。汗が頬を伝う。
目が『エリア・淫』から離れない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
ノーザンのキレイな瞳が、限界以上に見開かれる。
そして目が離せなくなって数秒、ノーザンはその悪魔を視界に捉えた。
薄茶色の髪の毛に、いかにも高級そうなスーツ一式。しかし見た目は少し太っていて、まるで親のスネを齧りまくって育ったお坊ちゃんのような雰囲気の男。
「……どうして、アイツがここに……っ」
見間違うはずもなかった。
だって、アイツは……。
『なっはは! こんばんわ、ノーザン。さて、今日も楽しい楽しい「お仕置き」を始めようか』
「どうして、いるのよ……っ」
「ドロフォノス」から逃げ出して、捕まって、拷問をされた時、いたんだ。
否。
ノーザン・ドロフォノスを徹底的に痛めつけた張本人。
「『本家』の「ドロフォノス」。ベルク・ドロフォノス……!」
あの日々を思い出すだけでも身体が痛みを思い出してしまうのに、その痛めつけてきた相手を見ればどうなるかなんて知れたことだった。
歯がカチカチと鳴る。
恐怖で足が地面に縫い付けられる。
境界門のど真ん中。
このままここにいたら確実に鉢合わせ。
全てが台無しになる。
なのに動けない。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
また痛いことをされる。怖いことをされる。死にたいと思うことをされる。死んだ方が楽だと思えるようなことをされる。痛いことをされる。痛いは嫌だ。痛いは嫌だ。熱いも鋭いも鈍いも重いも冷たいのも嫌だ。全部嫌だ。
「はぁっ、はぁっ!」
過呼吸が、抑えられなかった。
このままだと、死ぬ。
何もなし得ずに、娘すら助けられずに。
歩いてくる。近づいてくる。足音が聞こえる。
そして。
ギュッと、死を覚悟したように両目を閉じた瞬間だ。
「こんな所でなにしてんだノーザン? 腹でも痛えのか?」
「……っ!」
と、そう言ってノーザンの肩を叩いたのは、青髪のアホ面少年、ハル・ジークヴルムだった。ハッとなって顔を上げて、彼をみた瞬間全ての緊張が解けたみたいに全身の力が抜けてしまった。
しかしだからと言って奴の存在を忘れたわけじゃない。ノーザンは急いでベルク・ドロフォノスの方へと視線を戻した。
いない。
「……消えた」
「え、何が? 腹痛が?」
「……違うわよ」
見当違いもいいところなハルの発言にツッコミを入れた後、ノーザンは息を整える。
予想外の事態。
想定外の人物。
これは、急いで情報を共有した方がいい。
変な意地なんて捨てて協力し合わないと、全員殺される。
ノーザンは息を整え終えると、ハルを見た。
嫌な汗が、頬を伝う。
「ジークヴルム。みんなに伝えてほしいことがあるの––––」
「???」
ベルクの名を口にすると。
地獄の日々が記憶を掠めた。
♢♢♢♢♢♢
「んーーーーー? どぉーしてここに「落ちこぼれが」がいるんだろうねぇ?」
「エウロス」の建物の屋根の上。
正確には「エリア・淫」付近の家屋の屋根だ。
そこの上に小太りの男が一人立ち、手で庇を作りながらどこかを見ていた。
男は最初、本当に驚いた様子から怪訝になり、それから興味を持った面持ちに変わると笑う。
酷薄に。
悪魔のように。
舌舐めずりすら伴って。
「なっはは。久しぶりじゃないか、ノーザン」
♢♢♢♢♢♢
「とりあえず、これ飲んで落ち着けよ」
「……えぇ。ありがとう」
場所は変わって喫茶店。
「エリア・酒」にもこんなにオシャレな店があるんだなと驚いたハルは、しかしその驚きを頑張って隠す。そんな反応をするよりも、ノーザンの様子が明らかにおかしいことの方が気になったのだ。
ハルはノーザンが水を飲んだことを確認してから口を開いた。
「大丈夫か?」
「ええ、ありがとう。もう大丈夫。取り乱しちゃってごめんなさい」
「気にすんな。で? ベルク・ドロフォノスがさっきいたってのは本当なのか?」
先刻の話だ。
たまたまノーザンに会って話しかけた矢先、ベルクがいたと聞かされた。いきなり過ぎて状況が掴めなかったし、もっと落ち着いた場所で話した方がいいと判断して今に至る。
ノーザンはハルの問いに頷いてから、
「本当よ。「ドロフォノス」、『本家』の人間。正真正銘のクズよ」
ノーザンがギュッと膝の上で震える拳を握ったことをハルは知らない。しかし声だけで判断していいのなら、彼女からはベルクに対しての忌避感を十分感じた。
ハルは少し目を細めて、
「お前、アイツが怖いのか」
「……っ」
図星か。
ノーザンがハルの言葉に体を震わせた。その、肉体にも魂にも刻まれたような恐怖は、ハルの身にも伝わってくる。
そういえば。
ノーザンとはあまり二人で話したことがなかったなと思う。
罪人で、敵対同士。
仲間になったのもつい最近で、互いのことなんて何も知らない。だからノーザンがどうしてここまでベルクに恐怖を抱いているのか分からないのだ。
いいやそもそも、だ。
どうしてノーザンが、罪人の道を歩んだのか。
ハルはノーザン・ドロフォノスという人間のことを、何も知らない。
「俺の名前はハル・ジークヴルム。雷の真六属性だ。大好物は肉で、〈ノア〉で何でも屋をやってんだ。困ってる奴がいたら誰でも助けるぞ」
と、唐突にそんな自己紹介をハルにされて、ノーザンは驚いた様子で口をポカンと開けていた。
「な、なに。いきなり何を言い出すの?」
「いやぁ。考えてみればノーザンとこうして二人で話したことないと思ってさ。だからほら、そういう時はまず自己紹介からするだろ?」
「そ、それはそうだけれど……タイミングってものがあるでしょ。今はそんな話をしている場合じゃ……」
「してる場合だぞ。だって俺、お前のことよく知らねーもんよ」
名前と、正体と。
「ドロフォノス」だけど「ドロフォノス」を憎んでいて、娘がいることくらいしか。
「だから教えてくれ。お前のこと、もっと知りたいんだ」
「……」
しばしの沈黙があった。
突然「あなたのことを教えてください」と言われて戸惑わない人間はいない。だからノーザンの反応は正しいと言える。けど、それだけじゃない。怖がっているようにも見えたのだ。自分の過去を他者に話すことを。それを忌避して、殻に篭るように。
でもハルは知っている。
彼女が、アカネにだけ自分のことを話した事実を。
宝石鳥の部屋の中で、ノーザンはアカネには心を許して語っていたのだ。
それはアカネがノーザンに近寄って、思いを交わした結果だ。ハルはアカネよりノーザンとは近しい存在とは言えない。
でもそれだと一生何も進まないから。
「……あなたたちは、人のデリケートな部分にズカズカと足を踏み入れてくるのね」
「靴はちゃんと脱いでるぜ? にっしし!」
「ノックはしてほしいのだけれど」
などと二人は少しだけ笑い合った。
そして、ノーザンは軽く息を吐く。
視線は、コップに注がれた水に向けて。
言った。
「……私が生まれたのは、「ドロフォノス」の数ある屋敷の内の一つだった––––」
ノーザンの中で古い過去が、刻まれた恐怖の証が再生された――――。
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