プロローグ
漆黒の空間、昼か夜さえ分からないその場所に音が響く。
キイィ、キイィ――と、不協和音がこだまする。
やがて、その音が止まり、別の音が生まれる。
荒々しい言葉だが、その声は紛れもなく女性のそれである。
そして、驚愕する彼女の目の前には、一人の少年がいた。
「お、お~い……大丈夫、か?」
若干の恐怖心を抱きながら彼女は声をかける。それは、自身への害の可能性よりも、未知なるもの、得体のしれないものへ向けたものだった。
彼女のそれにはもっともな理由があった。一つは場所、光すら届かないこの場所は“隔世の峡谷”と呼ばれる谷の最下部に当たる。存在するのは環境に適応するために特殊進化した生物のみ。平凡な生命であればすぐに淘汰されてしまう。
そして、二つ目は少年の状態。むしろこっちの方こそを彼女は訝しんでいる。何しろ少年には両目がなかったのだから。目元にまかれた包帯はまさに目元が赤黒く染まっており、何よりもその目元の部分が窪んでいたのだ。さすがの彼女もこれには驚きを禁じえなかった。加えて、少年は呪詛のような文言をただひたすらに繰り返していた。
「お、お~い……。聞こえてますか~」
もう一度声をかける。が、反応はない。おそらく、すでに意識はないのだろう。
その様子から、すさまじい過去があったのは容易に想像できる。
そして、彼女はしばらく様子を見ることを決め、数分後にたった一言、
「こいつぁ面白い。こいつにしよう」
と、言って彼を抱え、また不協和音を響かせたのであった。
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昔々、あるところに一人の幼い王子様がいました。彼は生まれたときから聡明で、3歳のころには魔術が使えました。彼は同時に良き人格者でした。彼は三男でしたが、5歳のころには既に多くの臣下が『彼こそが次の王』と、彼に忠誠を誓い始めました。彼はとても良い眼を持っていました。それは、とてもとても綺麗な“魔眼”でした。その眼は神の力にも匹敵するほどの潜在力を秘めていました。
しかし、そんな完璧な王子を快く思わない存在がいました。王子の兄弟たちと神様です。王子の兄弟たちは一身に寵愛を受ける王子を嫉みました。神は王子の力を恐れました。
そして、王子が10歳になる直前、神は王子の力を排除するため、彼の兄弟たちを唆しました。
『かの王子は忌み子である。放置しておけばこの国は滅びるだろう。これ回避したくば、王子の両目をくり抜き、隔世の狭間に捨て置くべし』
王子の兄弟たちはこぞって時の王に訴えました。そして、王子はその齢ながら、根も葉もない罵詈雑言を浴びせられ、10歳を迎える前に、捨てられました。
かくして、可能性の塊であった王子は、死んだものとなりました。
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「だが、お前は生きていた、ということか」
一息つき、彼女は一言だけ彼に感想を返す。
彼をねぐらに持ち帰って二日が経過し、ようやく目が覚めたので軽く聴取していたところである。
最初こそは暴れたが、一発かましたらおとなしくなったとのこと。
と、今度は彼にボールが回ってくる。
「まあ、この状態で、とは微妙ですが……。にしてもあなたは何者ですか? ここで生きているということはただの人ではないのでしょう?」
少年が慎重な面持ちで問う。その眼はないはずなのに、まっすぐ彼女を射抜いているようでさえある。
すると、彼女は少しだけ笑みを浮かべ、
「まあ、言い得て妙だな。確かに俺は普通の人ではない。……ああ、そうだな、一言で言うなら、元魔王だ」
と、恥ずかしそうに、自嘲するように彼女は言った。
「そうですか、納得です」
ため息交じりに少年は返す。
「驚かないんだな。まあいい。で、お前、名前はなんという? それと、感謝の一つくらい言ったらどうだ?」
「ああ、そういえばそうですね。僕はキセロ=グラフィカと言います。その、先日は助けていただき、ありがとうございました」
そう言って、キセロは頭を下げる。
「ほう、やけに素直だな。てっきり反抗するかと思ったぜ。ああ、俺はナールティア=アクチノム=プルトアドスだ。まあ、長ぇから、適当にルティとか、ナーティとでも呼べ」
彼女、ナールティアも名乗る。
「そりゃあ、命の恩人ですからね。感謝ぐらいは素直にします。で、こんな身ですが何かできることはないでしょうか? 折角ですし、感謝の気持ちぐらいでも……」
と、彼が言い終わる前にナールティアの顔に悪い笑みが浮かべられる。
「そうか。実はな、もう頼みたいことは決まっている」
キセロが瞬時に警戒する。目が見えないにしても、その口調は十分に悪のそれに足りたからだ。
「これはもう決定事項だ。お前には、俺の弟子になってもらう」
「……へ?」
キセロの口から思わず変な声が出てしまう。これはさすがに予想外だったらしい。
「いや、だから弟子にするんだよ、お前を」
「誰の?」
「俺のだ。聞いてなかったのかよ。ちなみに拒否権はない。いいな?」
「どう、して……どうしてですか?」
少し震えが垣間見える声でキセロは問う。
「そりゃあ、お前、俺が気に入ったからに決まってんだろ」
調子のよい声でナールティアが返す。
「それに、お前、恨んでんだろ。人間と神を。そして、復讐したいんだろ」
「……っ?!」
心の奥を鷲掴みにされたような気分だった。隠そうとしていただけに余計に平静を保てなくなる。
そして、ナールティアは間髪入れずに追い打ちをかける。
「俺もな、いろいろとあったんだよ。だからな、お前の気持ちはだいたいわかる。恨んで当然だ。お前は捨てられたんだからな。何もしていないのに、社会から捨てられることのつらさは分かるつもりだ。だから、俺が手伝ってやろうってんだ」
言い終わると同時にナールティアは不協和音を響かせる。
「ああ、言ってなかったな。俺はな、両足がないんだよ。魔族に、仲間に裏切られた。そして、ここに捨てられこの様よ。笑えるだろ」
「えっ……!?」
ナールティアは笑うが、キセロはその事実にさらに平静を割く羽目になった。
「足がなけりゃあ、上には行けねぇ。だが、お前なら行けるだろ? なに、物のついでに俺の分のお使いもしてくれってだけだ。な? 安いだろ?」
何が安いのだろうか。キセロは徐々にこの命の恩人に対しての認識を改めなければならなかった。
そして、キセロが何度も逡巡した後、
「分かりました。なりましょう、あなたの弟子に。俺は復讐したい、あいつらに。あの自身のために理不尽を振りかざす奴らを消したい……」
そう、静かに、されど力強く答えた。
「よし、これで成立だな。なら、早速我が弟子に贈り物をしてやろう」
—ズチュ
と、彼女に続いて生っぽい嫌な音が届く。
「じゃあ、ちょっと痛てぇが、我慢しろよ」
次の瞬間。キセロの右目に激痛が走った。
「ああああああ!」
思わずのたうち回りそうになるが、体は動かない。
数十秒後、激痛が収まると同時に彼女が語り掛ける。
「よし。成功だ。やはり因子はあったのか……。キセロ、目を開けていいぞ」
「え?」
それは唐突だった。
右目。もう見えないと思っていた光が刺したのだ。
「こ、これは……!?」
「おう、俺からのささやかなプレゼント。俺の右眼だ」
そう、飄々と彼女は言ってのける。が、キセロにとっては度し難いことである。
「な、なんで? こんな大事なものを俺なんかに……、っ!?」
殴られた。
「いいか、その眼があるうちは決して自分を卑下するな。それはすなわち与えた俺への侮辱に値すると思え」
今までと違い、どこか温かい声に感じた。
「それに、言っただろ。『俺がお前を手伝ってやる』って」
思わず声主の方に視界を移してしまう。
この返事だけは面と向かって答えたい。そんな気持ちを抱いていた。
「はい」
しっかりとした口調で答える。
視線の先、そこにはさっきまでの口調からは想像できないような美女がいた。