第五話 夜を行く者たち――ライフ・アズ・ナイオストーカーズ――
この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。
背後で鋭いものが、ガラスを引っかく音がした。
例えるなら、猫が窓で爪研ぎをしているような音だ。
とっさに後ろを振り返って、後悔した。
窓の外から覗き込んでいる赤い瞳と目が合ったからだ。
もの言いたげな潤んだ瞳としばらく見つめ合った後、私は気まずくなって目を逸らした。
窓に背を向けた途端、どっと疲れが肩にのしかかる。
私は亡き妻を偲ぶために二人が新婚時代を過ごした城に来ていた。
ところが私たちの城は今、砂糖菓子に群がる蟻のように無数の夜族に覆われ、とてもではないが思い出に浸る雰囲気ではない。
そして、夜族を引き寄せている砂糖菓子も私の頭痛の種の一つだった。
俯き加減だった顔を上げ、前方を見る。
接客用の長テーブルの向かい側に月の女神のように美しい女がいた。
十代半ばに見えるが、その外見に騙されてはいけない。
今、私の目の前にいるのは上古の時代から生き続けている大妖魔。
夜の眷属を束ねる闇の女王にして、我が血脈の母なのだ。
そして、彼女が片時も目を離さずに覗き込んでいる古びた銅の円盤こそ今回の騒動を引き起こした元凶であった。
その円盤の名は『陰陽照魔鏡』、または『三角縁神獣鏡』。
私の知る限り、この世で夜の眷属をの影を映すことができる唯一の鏡だ。
通常、私たちはどんな鏡にも映ることはないし、写真やビデオのような映像を残すこともできない。
あの鏡は私たちが何百年、場合によっては千年も目にしていない自分の素顔を見るためのただ一つの手段なのだ。
外に群がっている連中の気持ちは私にもよくわかる。
しかし、母様の子供の中で一番歳経た私でさえあの鏡に指一本触れることも許されていない。
もっと若い奴らがあの鏡を一目拝めるようになるまで最低でも後二百年はかかるだろう。
それでも諦めの悪い眷属は母様の機嫌を損ねない程度の距離を保ちながら彼女の後を付け回している。
少なくとも母様が私の城に滞在している間、連中がこの付近から離れることはないはずだ。
これだけの数の血族が一カ所に集えば、遅かれ早かれ何かの問題が起きる。
思い出の城を守るためにも何時までもこんな状況に甘んじているわけにはいかなかった。
私は咳ばらいをした後に思い切って口を開いた。
「あ、あの母様。ちょっとよろしいでしょうか?」
「ん、許す。申せ」
「そろそろ、外にいる奴らを何とかしてもらえませんか?」
母様はインターネット電話で友たちと話をしているところを邪魔された孫娘そっくりの顔で私の方を見た。
「いきなり何を抜かすかと思えば……息子よ。お前はまだこの鏡が何なのかわからんのか? これは我が血脈の始祖である女王ヒミコより受け継いだただ一つ形見。妾が千年の時をかけて取り戻した掛け替えのない宝ぞ! そなたはこのような貴重な品を無知な若輩者どもの手に委ねよと申すか?」
「いや、決してそのようなことは……」
母様は私に向けて目と牙を同時に剥いた。
夜族にとって血の濃さと生きてきた年数は、そのまま力の差に直結する。
圧倒的な迫力に私は怯んで反射的に首を引っ込めた。
「それとも、妾に外にいる輩を一匹残らず根絶やしにせよと? それならばずっと簡単だし、大して時間をかからんぞ」
「い、いいえ、そこまでしていただかなくとも結構です!!」
ま、不味い。
どこでステップを踏み損ねたのか、私は完全に母様の機嫌を損ねてしまったようだ。
麗しい顔が見る間に険しくなっていく。
「大体、そなたはいつも細かいことに拘りすぎるのだ! いつまでも死んだ人間の女にめそめそしおって! 想いを繋げた相手を亡くすこと、生きてきた道筋を見失うこと、どちらも夜を生きる我らの業だ。これほど長く生きていて何故それがわからぬ!」
母様の剣幕も防戦一方だった私だが、今の言葉でむくりと反感が頭をもたげた。
私のことならいくら罵倒されてもかまわない
しかし、妻の思い出を軽んじられるのは聞き捨てならない。
私は母様にささやかな仕返しを試みる事にした。
「お言葉ですが、母様。貴女もかつて私の前で孤独を嘆き、消えていく記憶を偲んで泣いたことがございますぞ」
「何を申す! 妾が子の前でそのような真似をするわけがなかろう」
「今の貴女はそうかもしれません。しかし、始めて私たちが出会った頃はそうでもなかったですよ。あれは大和の朝廷の狩人に追われて、二人で古墳に立て篭もった時のことです。貴女は私の目の前で赤い涙を流しながら、亡きヒミコさまのことを懐かしがり、彼女の記憶が消えていくことを嘆いていたではありませんか?」
「そ、そうだったかのう……?」
私は、そうでしたとも、と如何にも自信ありげな仕草で胸を張った。
もちろん、今私が言ったのは全て出鱈目だ。
だが、私の倍以上生きている母様は記憶の量が多すぎて、私の言ったことが本当か嘘かとっさに判断することはできない。
彼女には自分の半生を綴った防忘禄があるが、小さな図書館並みの蔵書量を誇るそれを今すぐ調べることなど不可能―――。
「ふむ……では、今そなたが言ったことが真か否か調べて見ようか」
「なんですと―――」
「確か、この機械のだな。このボタンとこのボタンを押して……」
母様は孫が遊んでいたニンテンドーDS良く似た機械を取り出した。
それを両手の人差し指でぽちぽちと弄くり始める。
こ、この人は何時の間にこんなに電子機器を使いこなせるようになったのだ!
この前まで電子レンジの使い方さえわからなかったと言うのに!!
モニターを覗き込んでいる内に母様の眉間に小さな皺ができ、やがてそれはどんどん大きくなっていく。ま、不味い。雲行きが物凄い勢いで怪しくなってきた。
危険な臭いを感じ取ったのか。
外の眷属たちは既に沈没寸前の船から逃げ出す鼠のように姿を消している。
私も席を立って、差し足忍び足でダイニングルームから逃げ出そうとした。
だが、扉に辿り着く寸前、夜族の動体視力でも捕らえきれないほどの速さで首根っこを捕まれた。
「は、母様、申し訳ございませぬ! 実は、今夜孫娘の授業参観がございまして……」
「今は深夜だぞ。こんな時間空いている学校があるものか。このどら息子が! 母様を謀ろうなどと百世紀早いわ!」
「母様、お許しを、おぎゃあああ―――――!!」
***
さて、我輩は最近兄者が伴侶を亡くしたと聞いたのである。
兄嫁の訃報を耳にした優しくスマート、クールかつヒップな我輩は、陰気な上にナードでニートで、女にもてない兄者を慰めるべく彼の人の城に赴いたのである。
「おお、今宵は素晴らしき夜であるな! こんな夜は我輩好みの味わいまろやかで喉ごしすっきりなAABB型の女性の母乳を静脈注射するのに限るのである!」
ところが、元気良く挨拶しながら客室足を踏み入れた途端、我輩はボロゾーキンのようなもんを踏みつけてしまったのである。
うわあ、ばっちぃ! えんがちょなのである!
我輩は慌ててお気に入りのナイキのスニーカーを絨毯に擦りつけた。
あ、いや待てよ。
良く見ると我輩が踏んでのはボロゾーキンじゃなくて……。
「おお、これは我が兄者! 一体どうしたのであるか? まるで、母様の機嫌を損ねた上に死ぬほどお仕置きされたような姿ではないか?」
「黙れ、道化者……私は今、命の儚さと死の理不尽さについて瞑想をしておったのだ」
「そうか? 我輩にはまるで『牛の群に踏み潰されたガマガエル』のようにしか見えないのであるがな。まあ、ともかくそんな陰気なことはもうやめて、これを見るのである! これぞ我輩のエスプレッソなインスピレーションが生み出した究極の記憶媒体! ニンテンドーDSを大胆に大改造した、その名も『ヴァンピールくんDX』! このコンパクトなサイズに聖徳太子もびっくりの記憶容量、百年分の記憶を楽々収納、検索できるのである! どうだ、兄者? 嬉しいであるか? これで兄者も健忘症に悩まされなくて済むのであるぞ?」
我輩の計算通り、兄者は約0.0二秒の記録的な速さで跳び起きた。
しかし、気のせいか兄者の目が、なんと言うか、とってもドス赤いのである。
「そうか……やはり、あれは貴様の仕業か……そうか。そうだったのか!」
兄者は一人でブツブツ言った後に、にっこりと我輩に笑いかけたのである。
でも、口が笑っていても眼と牙がちっとも笑っていないのである。
これには我輩もちょっとびびったのである。
「そうだった、弟よ。お前の言う通りだ。せっかく百年ぶりに兄弟が再会したのに瞑想などしている場合ではないな。さあ、こっちへ来て一緒に話をしないか?」
「そ、そうであるか? 我輩も兄者と話ができるのは嬉しいのである。しかし、兄者、目が恐いのである。顔が近いのである。何故、我輩の首をぐええええ――――」
***
「飛行機と言うものに乗るのは五十年ぶりだが、最近の飛行機は随分と快適になったものだな」
僕がたっぷりと時間をかけて整えた内装を見渡しながら、母様はまるで外見相応の少女のように溜息をついた。
「はい、今宵この航空機にはパイロットを除いて、僕たちしかおりません。母様を悩ましている若者たちも上空三千メートルまで追いかけてくることはありません。どうぞ、ごゆるりとお休み下さい」
ブラッディローズの花弁を乾かした紅茶を注ぎながら、僕は内心ほっと胸を撫で下ろした。
どうやら、母様は僕の航空機を気に入ってくださったようだ。
旅客機を一機、接待用に改造にしておいた甲斐があったというものだ。
馬鹿みたいな頑丈な兄たちと違って、僕は母様の機嫌を損ねたら即、命に関わる恐れがあるからな……。
薔薇の紅茶を一口啜った後、母様はにっこり笑って言った。
「そうだ。そなたが前にくれたあの『ヴァンピールくん』とか言う機械がこの間役に立ったぞ。馬鹿な息子が妾を謀ろうとしたゆえ、たっぷりと仕置きをしてやったわ」
「兄上には気の毒なことになりましたが、僕は母様のお役に立てて嬉しいですよ」
口では驚いて見せたが、僕は物覚えの悪い長兄が母様の機嫌を損ねたことをとっくに知っていた。
そして、今ごろ奇天烈なことで定評のある次兄が僕の依頼で開発したあの機械を持って、長兄の城を訪れていることも。
後で長兄の城に仕掛けた盗聴器を回収したら、さぞかし面白い会話が聞けるに違いない。
八世紀以上生きている長老同士が本気で殴りあうなんて滅多にあることじゃない!
ああ、もう今から楽しみで体が震えてくる。
まったく、これだから吸血鬼は止められないのだ!
あとがきのやうなもの
と言うわけで、吸血鬼の掌編集『ストーリー・オブ・ナイトストーカー』の本編はこれで終わりです。
最後に、各章の登場人物の設定をばちょっと公開。
『母様』
吸血鬼一族の最古老の一人。
実は歴史上、実在していたと思われるある人物。
邪馬台国はどこかですって? そんなのとっくに忘れちゃいましたよ。
子供たちに慕われつつも、恐れられ、でもやっぱり頼りにされているゴッドマザー。
ちなみに、今でも電子レンジには働き者の妖精さん住んでると信じて疑いません。
『長兄』
気紛れで放浪癖のある母様に代わって、吸血鬼一族をまとめる大長老。
でも、作品内での扱いは酷いです。
アイルランドの少数民族出身。イングランド人とフランス人が大嫌い。
でも、息子の奥さんは英国籍で、結婚の時には一悶着あったらしい。
長く生きた不死者特有の健忘症に悩みつつ、反抗期真っ盛りの孫娘に手を焼く。家族の中じゃあこの人が一番人間臭いかも。
『次兄』
とく描写していなかったですが、実はネグロイド(黒人)系の吸血鬼。
本人曰く、キリスト教徒の博愛主義とイスラム教徒の大らかさを併せ持つ密教信徒。
その性格はエキセントリックかつクレージー、そして死ぬほどアグレッシブ。
最近は、輸血機械を使って吸血する方法を編み出したが、同族には今一受けが悪いようです。
『三男』
どす黒っ!!
天使の外見と悪魔の腹黒さを併せ持つ少年。
若いのは見た目だけで、実は年齢は四百歳を超えている。
一族の中では若輩者であるが、その経済力と政治力は侮れない。
最近は地下資源の輸入ビジネスでロシア政府と接近を図り、チェチェンの人狼たちと激しく敵対している。