生きている人間はなにをやり出すかわからない
ずいぶん昔の話だけど
小林秀雄が
生きている人間はなにをやり出すかわからない、鑑賞に堪えない、死んだ人間の方が輪郭が鮮明だ、というようなことを書いて
坂口安吾が
人間はなにをやり出すかわからんから文学があるんじゃないか、こんなことを書く小林は魂に於いて文学とは完全に縁が切れている、というような批判をしていた
その批判を読んで、もっともだ、と以前は思ったものだけど
生きている人間はなにをやり出すかわからない、という困惑は
現在において切実かもしれない
死んだ人間は、少なくとも、もう済んだ、という安心はあって
でも、生きている人間は
本当になにをやり出すかわからない
強い関心を持っていたわけではないけれど
なんとなく好感を抱いていた
そんな人が
ぎょっとするような差別的な言葉を広く発信して
一部の人々から批判されて
一部の人々から絶賛されたりする
強い関心を持っていたわけではないから
なんとなくの好感は消え失せて
こころがあまりにも離れていく
おちおち好感も抱けない
そんなに難しいことなのだろうか
そんなに贅沢な要求なのだろうか
好きになった表現者には
露骨な差別心を示してほしくないし、個人の生活や尊厳を踏みつけるような排外主義や愛国主義に染まってほしくないし、性差別的な言動をしてほしくないし、性犯罪を起こしてほしくないし、恣意的に情報をつなぎあわせただけの願望丸出しで根拠薄弱な陰謀論に陥らないでほしいし、魂に関心などなく金を巻き上げてデタラメを吹聴しているとしか思えない悪質な宗教に入れ込んでほしくないし、品性も良識もない戦争翼賛的な政党、政策、政治家の応援に熱心であってほしくないというような
そんな願いは
こちらのわがままか
きっと難しいことなのだろう
きっと贅沢な要求なのだろう
きっとこちらのわがままなのだろう
生きている人間はなにをやり出すかわからない
なにを考えているかわからない
なにを言い出すかわからない
そんなのは当たり前のことだけど
あまりにも残念な出来事が多い
あまりにも失望と幻滅が多い