きみが一番大事にしているもの
あれから、何年もの月日が流れた。
季節は幾度も移り変わって、あの......不可思議な少年時代の記憶を、少しずつ薄れさせていった。
あれから......あいつがぼくの前に現れる事はなかったけれど、ぼくはあいつの気配を存在を、闇の中に感じる時があった。暗闇の中に何かが潜んでいる、気配がして目を凝らしても、あいつが現れる事はなかったけれど......あいつは今でもぼくの側にいると......そんな気がした。
あいつは一体......何処へ行ってしまったんだろうか......
あの頃ぼくがいだいた不安と恐怖は......一体何だったんだろうか......
そして......ローラは今どうしているんだろうか。あいつもローラの事を、好きだったんだろうか。ローラは、あいつの事を好きだったんだろうか。
......ローラ......
ローラは誰もが好きになる特別な女の子だった。
今でも時折思い出すのは、ローラのカールしたブロンドの髪がぼくの頬に優しく触れて......ローラの柔らかい唇がぼくのおでこにキスをした、あの保健室での淡い出来事だった。
あの病院で────
ぼくが目覚めた時、側にいてくれたのはローラだった。ぼくが目覚めた時、最初に見たのもローラだった。ローラはいつでもぼくに優しかった。ぼくは......ローラの優しさに、いつまでも包まれていたかった。
二十歳になったぼくは、あれから親しい友人を作る事も出来ずに、一人孤独の中で生きてきた。そんなぼくに、声をかけてきたのは、同じ大学に通うサム・プライズだった。
彼が校庭でサッカーの練習をしている所を、ぼくは何度か見かけていた。
あの日、ティムの姿を目で追っていた時の様に......ぼくは彼の姿とサッカーボールの行方を目で追っていた。
「ねぇきみ、ぼくと一緒にサッカーをする気ある?」
突然声をかけてきた彼に、ぼくは返事もせずに逃げ出していた。彼は遠ざかるぼくに向かって、大きく手を振っていた。
......逃げ出すなんて。
ぼくは恥ずかしくなって、背を丸める様にしながら、彼のいる校庭を後にした。その後も、時々校庭で彼の姿を見かけたけれど、以前の様に彼の姿を目で追ったりはしなかった。
もしぼくに親しい友人が出来たら......もしぼくに......愛する女性が出来たら......
またあいつが現れて......ぼくの一番大事にしている人を奪っていくかもしれない────
ぼくは今でも、そんな恐怖と戦っていた。学校の校庭を通り抜けようとした時、後ろから声をかけてきたのは彼だった。
「ああ、やっぱりきみか!」彼はぼくに笑顔を向けた。
「きみはサッカーが好きなの?」
「......今はもうやっていない」
「それって、すごく残念だな」
彼はぼくの肩に手を触れると「サッカーが出来なくても、見る事は出来るよな」と言って笑った。
彼はそう言うなり、ぼくの目の前でボールを蹴り上げ、リフティングを始めた。
彼と一体化したボールは、足の上を右へ左へ飛び跳ね、上へ下へと見事な動きを見せるとぼくの目を心を釘づけにした。彼の周りに人が集まり始めたのに気付きぼくはこっそりとその場を離れようとした。
「ハァ─ィ、サム!見事なリフティングね」二人組の女の子の内の一人が言った。
「あぁ、きみ達か。そこの彼にぼくのリフティングの凄さを見せてたとこさ」
彼は口元に、悪戯っぽい笑みを浮かべている。ぼくは、立ち去るタイミングを逃してしまった。
「サムのことを、知らない人がいたなんて驚きだわ」
ぼくの顔を見て連れのもう一人の女の子が笑みを浮かべた。
「そこにいる彼が、またサッカーを好きになってくれたら嬉しいんだけど」彼は白い歯を覗かせて笑った。ぼくは二人の視線を浴びて顔を赤らめた。
「サム。こんな所で才能を見せびらかしてないで、早く練習に戻ったら」そう言ったのは、最初に声をかけてきた女の子だった。彼女の髪は見事な赤毛で、背がとても高くて、ヒールを脱いでも、ぼくと同じ位の高さがありそうだった。
「なに?あたしの髪の色がそんなに珍しい?」
ぼくはすぐに赤毛の女の子から視線を外した。けれど、赤毛の女の子はぼくに詰め寄って来た。
ぼくが困っているのを見てもう一人の女の子が笑った。彼女は短いデニムのスカートをはいて、爽やかな青い色のシャツを身につけていた。青いシャツと胸元の間には、短めのネックレスを付けていて、それは彼女の綺麗なブロンドの髪を引き立たせていた。
ぼくは、いつまでもブロンドの髪の女の子を、じっと見つめた。
すると彼が、突然ぼくの肩に腕を回してきた。彼は急かす様な仕草をすると、ぼくに名前を尋ねた。
「ジェイ......」とぼくが言うと「そう、彼の名前はジェイだ」と彼は女の子達に言った。
「ジェイ。赤毛の彼女はキャシーだ」彼がぼくの肩に両腕を回しながら言った。
「ブロンドの彼女はシンディ」
「よろしくねジェイ」シンディが笑顔でぼくに声をかけた。
すると赤毛の女の子が視線を投げかけて来た。
「よろしくジェイ。知らないと思うけど、サムはあたしと付き合ってるの。あんたはシンディと付き合ってみたら?」
ぼくは驚いて思わずサムの顔を見た。彼は、両手を上げて、お手上げさとポーズを取り、右目をつぶった。
「キャシーったら無茶ぶりはやめて......ジェイに失礼でしょ」シンディが言った。
シンディの頬は、かすかに赤みを帯びていた。
「だってあんた達、さっきから見つめ合ってばっかだし、だったら付き合っちゃえばって思ったのよ」
ぼく達は、同時にすばやく視線を外した。
ぼくは赤面した顔を、彼女に見られない様にうつむいた。
「ジェイ、おめでとう」とサムが言った。
「シンディおめでとう」とキャシーが言った。
「シンディに好かれるなんて、きみは何てラッキーボーイなんだ」とサム。
「そうよ。あんた今日はついてるわ」とキャシー。二人は交互にまくしたててきた。
二人のテンションの高さに、ぼくは目眩を起こしそうだった。
「ジェイ......。二人の言った事は気にしないで」
「シンディ......」
サムはぼくの肩に回した腕を外すと「じゃあなジェイ。来週の日曜はあけといてくれよな」とぼくに言った。それからサムは、ぼくの目の前で、キャシーにキスをした。
蹴り上げたボールと一緒に、サムは行ってしまった。
「じゃあねシンディ。日曜の予定はあんたに任せたから」キャシーも行ってしまった。
ぼくとシンディはその場に取り残され、思わず顔を見合わせた。
シンディが笑った。素敵な笑顔だった。
シンディの笑顔につられて、ぼくも笑顔を返した。シンディは素敵な女性だった。
ぼくが......ローラ以外の女の子に惹かれたのは、初めての事だった。
シンディの長いブロンドの髪は、ローラを思い出させたが......シンディは華奢な体に、芯の強さを感じさせる女性だった。シンディの灰色がかった青い瞳は、神秘的で......その瞳に見つめられたぼくは蜘蛛の巣にかかった蝶の様に動けなくなった。
シンディが何かひとこと言うたびに、ぼくの心臓は踊った。
シンディの手がぼくに触れる度、ぼくの心は満たされた。
シンディと一緒なら────
ぼくは────
あの────
少年時代に起きた忌々しい出来事から────
逃れられるかもしれない............
ぼくはシンディに正式な交際を申しこんだ。
そしてシンディに、ぼくの指にはめている指輪と同じものをプレゼントした。
「ペアリングだよ」
シンディは笑いながら「偶然ね......」と言った。
「わたしのプレゼントもペアリングなの」と言ってシンディは指輪を見せた。
「......シンディ」
「ありがとう......ジェイ。嬉しいわ......」
ぼくらはお互いのペアリングを交換しあって、指にはめた。ぼくらの愛情は、ゆるぎないものになっていった。ぼくの心の中から、今まで抱いていた恐怖心が消え去った。
あいつの姿が......心の中から消えていくのが分かった。
ぼくの心の中に──
あいつ──はもういない。
ぼくとシンディが幸せに酔いしれていた頃父さんは、病院のベッドで病魔と闘っていた。ぼくは病院からの知らせを受けて、シンディと一緒に父さんの元に駆けつけた。
痩せて小さくなった父さんの体を前にしてぼくは言葉を失った。
父さんがぼくを見て微笑んだ。次にシンディに目を向けて微笑むと、何か言おうとした。父さんは再びぼくに視線を合わせると、やっとの事で口を開いた。
「ジェイ............」
「......父さん......」
父さんはシンディに視線を移すと「お前は......もぅ大丈夫なんだな」と言って、
ぼくを見た。
「父さんぼくは、まだ父さんにいてほしいんだ......もっと、もっと一緒にいたいんだ......」ぼくの頬から涙がこぼれ落ちてきた。
「ジェイ......父さんは嬉しいよ......お前が......彼女を連れて来て......くれたん......だからな」
「......父さん」
「ジェイ......お前はもぅ......一人じゃないんだろう。......父さんはいつでも......
お前の心にいるんだから......だから悲しむ事はない............」
父さんは震える親指を、痩せた胸に突き立て......力なく微笑んだ。
シンディはその場に立ちつくし、どうしていいのか分からないまま、ぼく達を見守っていた。ぼくとシンディが部屋を出て行こうとした時、父さんは「ありがとう......」と呟いた。
ぼくは後ろを振り向かずに「うん......分かってるよ」と小さく言った。
二日後の夜、父さんは息をひきとった。
父さんの死がぼくを、再び闇の中へと引きずり込んでいった。