紡錘形理論ヲ否定ス
1939(昭和14年)6月
阪神競馬場
阪神競馬場は戦後に宝塚市へ移転したが、当時は甲子園球場の南にあった。競馬場の隣には動物園と遊園地があり、その東側は鳴尾川を挟んで川西航空機・鳴尾工場がある。この工場も元は鳴尾ゴルフ倶楽部の敷地に建てられたものであり、付近一帯は娯楽施設が集中していた。
なぜ集中しているかというと、宝塚歌劇を興行して集客する阪急電鉄に対抗して、阪神電鉄が心血を注いで建設したからである。当時の鳴尾は、現代でいえば府中の東京競馬場に上野動物園と東京ドームと東京ディズニーランドが併設された総合レジャーランドであった。
そういった非日常空間においても、奇天烈な外観を持つBV141Aは異彩を放ち、道行く人々の好奇の目に晒されながら競馬場へ運び込まれた。近所に飛行場がないので、芝直線コースを滑走路代わりに使うのだ。
フォークトは、集まった川西航空の重役や技術者を引き連れて機体の周囲を歩いて巡り、外観の目視点検を行いつつ各部を解説する。
「本機のエンジンは単列9気筒空冷星型のBMW 132Nである。直径1,372mm、乾燥重量525kg、離昇出力は865馬力、高度3000mにて960馬力。それ以上の高度では出力が落ちる。傑作輸送機Ju52など多数の機種にて運用実績を持つ信頼性の高いエンジンである」
「フォークト先生、三座偵察機のエンジンとしてはいささか出力不足ではないかね?」
川西総帥のこの指摘に対して、
「その指摘はもっともだが、本機の飛行性能にはドイツ航空省(RLM)も満足しているので問題ない。機体強度には余裕があるので、より高出力なものを使うことも可能だが、最新鋭の高出力エンジンは戦闘機や爆撃機に優先的に供給されるため、生産に支障が出るおそれもある」
フォークトはこう答えたが、ドイツ本国でも同じ指摘を受けていた。
史実においてBV141Aはエンジン出力不足を理由に不採用となり、戦闘機Fw190や爆撃機Do217が使う高出力エンジン、BMW 801を搭載するBV141Bが開発されることになる。
フォークトはエンジンカウルから胴体部を指さして説明を続けた。
「エンジン後部には、燃料タンクと油圧装置を余裕をもって配置している。胴体に操縦席が無いので空間に余裕があり、レイアウトの自由度が高いのだ。非対称形の利点の1つである」
胴体部をじっと見つめていた川西の設計技師が質問する。
「胴体中央部に膨らみが無い楔形になっていますが、紡錘形と較べて空力特性の利点はありますか?」
「良い質問だ。見ての通り、本機の胴体はエンジンカウルが一番太く、尾翼へ向けて直線的に細く絞った楔形である。これは表面積を最小に抑え、かつプロペラ後流が生み出す収縮流に逆らわない。逆に紡錘形は、中央から前後に絞る形なので同じ前面投影面積で較べると胴体表面積が増え、特に前方は収縮流に逆らうので表面摩擦抵抗が増す。グライダーや双発機ならば紡錘形胴体が正解だが、単発機では楔形が正解である」
この当時、海軍航空廠は風洞実験を繰り返し、胴体の前方から40%の位置を最も太くすると空気抵抗が最小になるという紡錘形理論を提唱するに至った。紡錘形は海軍航空業界の最新流行なのである。質問した設計技師は納得のいかない表情を浮かべて反論する。
「紡錘形は楔型よりもプロペラ推力有効面積が増える利点があります。その点については?」
「プロペラ推力有効面積が不足ならば、プロペラ径を増大すれば良い。
そもそも、プロペラ推力を決定するのは面積のみではない。
ブレード形状やピッチ制御、エンジントルクなど多数の指標が影響する。
貴君も設計者ならば、特定の指標にこだわり過ぎず、全体を見て総合的に判断すべきである」
フォークトの手厳しい応答に、質問した設計技師は目を伏せた。
史実の海軍は翌年(昭和15年)、局地戦闘機 雷電 や水上戦闘機 強風 の開発にあたって、この紡錘形理論を適用した。だが、理論通りの性能は得られなかった。さらに、機首を絞り込んだ副作用として、機首から流入する冷却用の空気が減るため空冷エンジンが加熱して焼き付き、機首から後方に移したエンジンとプロペラの間を繋ぐ長いシャフトは異常振動を起こした。これらの問題に対処するために開発も難航した。
一方の陸軍は『陸軍としては海軍の提案に反対である』という態度で紡錘形理論を無視した。そして楔形の二式単座戦闘機 鍾馗 や四式戦闘機 疾風 を生み出し、満足のいく性能を得ていた。
結局のところ海軍の紡錘形理論は『プロペラ後流による影響を無視した欠陥理論』というのが戦後の評価である。コンピューターシミュレーションがなく流体力学も発展途上のこの時代においては、何が正しいかを実機で確かめるしかなく、航空設計者のセンスや勘が成功と失敗を分けるのであった。
本作では紡錘形理論の提唱を昭和14年6月以前と設定しましたが、史実は手元資料ではわかりませんでした。
紡錘形理論を採用した雷電の「十四試局地戦闘機計画要求書」が出されたのは昭和15年4月で、初飛行は昭和17年3月。強風の「十五試水上戦闘機試作指示書」が出されたのは昭和15年9月で、初飛行は昭和17年5月。
よって、史実の提唱時期は昭和15年後半から昭和16年頃である可能性があります。