迷信すること
信仰心について、っていうとなんか頭から「ああ、迷信だよね」「本当に地獄行くと思ってたの」とか否定する人が居るんですけど。戦国人の場合その少し説明しづらいんですよね。
信じてる人も信じてない人もいたけど、宗教が生活の一部だった。
というのが一番良いと思います。
現代人でも工事をするときに地鎮祭しますけど、しないと神が具体的に何かしてくるなんて思ってる人はあまりいないと思います。でも「やらないと気持ち悪いからこういうことはきちんとしないと」ってやる人は居るでしょう?
しかも戦をする武士なんかは死がすぐそこにあるわけで。来世を約束してもらうために念仏にハマる人はいました。
戦国の武将は何かと言えば神に誓わせて誓紙を神社に奉納していました。
熊野牛王誓紙なんかが有名ですね。熊野大権現に誓ったことを破ればカラスが落ちて死に、本人も血を吐いて死ぬということになっています。誰も信じてませんね。家康が秀頼への忠誠を誓ってますけど、真っ先に破ってますし。
信じてないから信じてないというわけじゃなくて「この当時の契約を保障する機関がなかったため、神仏に証人を頼んだ」ということです。今でも遺言書いたら公証人にサインしてもらうでしょう?戦国時代は契約書作ったら神様に預けていたんです。
ほかに適当な人がいなかったんですね。将軍はゴミだし。
というわけで、忠誠の誓いや和睦の誓に誓紙を使ってみるとこう雰囲気が出てきていい感じです。
以下じゅもんです。
「この度の申し合わせ祝着至極にて候、この上は表裏有るべからず、当方にても一点も表裏有るべからず。
このことを偽りし者は
上は梵天帝釈、四天王、下は堅牢地神、熊野三社大権現、
別しては(ここからその地方の神をいれるべし、北条なら鎌倉箱根、武田なら諏訪大社、毛利なら厳島明神)。
総じて日本国中大小神祇、
すなわち御罰被るべきものなり。
年号 日にち 諱 花押」