幕間
脳髄が三六〇度回転し、目の奥に杭が突き刺さったかのような激痛が走る。食道からは液体が込み上げてきた。
チェイスが瞼を開くと、一面が灰色に発光していた。だが、それどころではない。
「オエエッ!」
「ははっ、やっぱお前も駄目だったか」
まるで鉄砲水のように噴出した吐瀉物は、ギュスターブが構えていたビニール袋に綺麗に収まった。
「結果はどうだった、ボウズ?」
「チェイス」
唇を滴る胃液を拭いながらチェイスは返答した。
「それがお前の名前か?」
頷くと、メガロドンが手を差し出した。
「地球最後にして最高の自由郷の防人集団、ギャルド・モンドへようこそ」
握手ついでにチェイスをシミュレーターから引っ張り出した。まだVR酔いとJail-30の後遺症が収まらないチェイスは、ギュスターブの助けを得てようやく歩けるようになるほど足元がおぼつかなかった。
「ここまでひどく酔った奴を見るのはマック以来だ」
「あいつだってもうちょいマシだったぜ」
やっとの思いでチェイスを椅子に座らせると、続いてウージーが首筋に注射した。これは超即効性の酔い止めのようなものである。
「一分もすれば気分も良くなりますよ」
しばし瞑目して休み始めると同時に、マックがVRの世界から戻ってきた。
「で、旦那。この子は合格かい?」
「死ななければな」
シミュレーターから飛び出したマックはとりあえず袋に向けて嘔吐すると、水を一口飲んだ。
「起きたら飯を食わせてやれ。明日から早速仕事だからな」
するとマックは椅子の上で眠り始めた。彼もまた、VRが極度に苦手なタイプなのだ。
日が落ちる頃にはチェイスの酔いも収まっていた。
そして症状が落ち着くとともに、今までに味わった事のない不思議な感覚を覚えた。
確かにあの空間で過ごした二ヶ月は真実だ。学んだ知識や経験が脳内にあれば、感覚も記憶している。だというのに、現実世界では日が落ちるほどの時間さえ経過していない。VRポッドに入る直前の記憶も色あせることなく、実際に経過した一時間前のように鮮明だ。
まるで、他人の記憶を移植されたような。そんな感覚である。
そんな不安は少々食欲が満たされた程度では解消されず、この鬱屈とした気分を晴らすには新鮮な空気が良いのではないかとチェイスは考えた。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
部屋の人間に聞きはしたが、聞いているのかいないのか。ようやくママキーヤが片手を挙げてひらひらとさせたので、問題ないと判断して小屋の外へと出た。
扉が開かれると、涼しげな風が入り込んできた。そのまま照明によってまるで昼間のように明るい廃村を歩いた。
村を歩く人影は大抵人間ではなく人の形をしたロボットで、極稀に新自由国家同盟の文民がチェイスを興味深そうに眺める程度なものだ。
注目を集めるのは好きではない。人目を避けて慣れない道を歩き続けるうちに、チェイスは自然とエリザ達が住む家へと向かっていた。
そういえば、モリーが食事を用意してくれていたのだから、礼の一つでも言わなければ。そんな事を考えながらドアを叩いた。
「はーい」
モリーの声。妙に嬉しそうな声色だったが、扉を開けてすぐに一転。つまらなさそうな表情を浮かべた。
「マックじゃなくて悪かったな」
「いや、別に悪いわけじゃないんだけどさ……」
つまらなさそう、というのはあくまでチェイス個人の感想であり、モリーが現実に抱いた感情は気まずさだった。
彼女がダギーズにさらわれてあの廃屋に押し込まれた時、チェイスはダギーズの女性神官に犯されていた。彼自身は捕まったその日から日常的に性的暴力を受けていたため、もはや異常な事とさえ認識できず、今もしていない。しかし部外者のモリーにそんな異常を理解できるわけもなく、非常にいたたまれない気分になったのだ。
「まあいいや。ご飯ありがとう」
豪華でも、うまいものでもなかったが、二ヶ月ぶりの食事であると考えれば特別なもののように感じられた。
「ああ、そんなのいいのに。まあ、立ち話もなんだから上がってよ」
仕事は明日から、まだ消灯時間でもない。だったら少しくらいお邪魔しても問題はないだろうと、チェイスは軽く頷いた。
たった二日間滞在した家を二ヶ月ぶりだというのに、やはり構造を鮮明に記憶している。不思議を通り越して不気味な感覚を味わいながら居間の椅子に腰掛けた。
「お茶でも飲む?」
「もらうよ」
ちょうど夜のティータイムだったようで、木のカップに注がれた茶はわずかに湯気を立ち上らせていた。
茶を飲む習慣はマーセル大陸全土にあり、現在地の西方の土地では発酵させていない緑茶が普及している。しかし、チェイスに出されたものは色が薄く、例えるならヒスイ色をした、見たことのない種類だった。
試しに一口含むと、独特な甘みと香りが口から鼻へと優しく通り抜けた。親の土産で茶は定番だったが、こんなものは初めてだ。
「なんのお茶?」
「その辺に生えてる薬草のお茶だよ」
「その辺って……」
生産地の表現に不満が少なからずあったが、茶としてはとてもうまい。チェイスとしては南方の黒豆茶よりも好みだった。
茶を入れ終えたモリーはエリザの居室に向かった。しかしどうやら自室ではなく居間で茶を飲みたいようで、少ししたらモリーの介助を受けながら居間に現れ、苦労しながらも椅子に座った。
「戻って来たのか。連中の仲間にはなれたのかい?」
「うん、なんとかね」
エリザは茶を一口飲むと、改めてチェイスを見た。
そして、驚愕した。
モリーは何も気付かなかったが、長く生きてきたエリザは違う。一目でチェイスの変化に気付いた。
夢想する少年は目を離したほんの数時間で、復讐に燃える若き戦士に変じていたのだ。
エリザは自分を疑いたかった。しかし、やはり。勘は少年の変化を告げている。
「そうかい。じゃ、すぐにこっから消えるんだね」
平静を装ってそう発言したが、これは同時に本心でもあった。
一体どのような魔法でチェイスを戦士としたのかはエリザからしてみれば謎だ。しかし一つ確かなのは、戦士となる事は即ち、人を辞めるに等しい変化という事実だけだった。
果たしてそれが善い事なのか、それとも悪い事なのか。それを決められるのは、本人か神ぐらいなものである。
投資家達
一種の秘密結社を指す。しかし、単に暗号名というわけでもなく、彼らは実際に投資家の集まりだ。その存在は公然の秘密と化しており、戦争を含む全ての経済活動を握っている。本作のPMCギャルド・モンドはこの組織に雇われている。




