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2090 1

 強烈な尿意という名の手にむんずと掴まれ、まどろみの世界を漂っていたプンは、無慈悲に現実世界へと投げ返された。

「どうした?」

 ナイフで爪垢をほじくっていた同志のヤーが、痙攣と共に目覚めたプンに驚いて声を上げた。彼の故郷では、寝起きの痙攣は不吉の前兆であるとされているのだ。

「いや、大丈夫。ちょっと、小便に行ってくる」

 家に便所のように上等なものはない。プンは立てつけが悪い扉を半ば力づくに開けると、足早に人気の少ない茂みへと向かった。

 さて、ズボンを下ろして用を足そうと考えると、便意も催してきた。ではちょうどいい、両方とも済ませよう。

 腰を下ろして茂みに尻を向けると、丹田に力を込めた。

「肉体は大変ですね」

 不意に響いた不気味な声、女か。驚いたプンはズボンを上げることさえ忘れて、傍に転がしていた槍を握ると、辺りを見渡した。

「だっ、誰だ!?」

 しかし、どこを見ても人の姿はない。静まり返った林と、気配を感じられない廃屋があるばかり。

 まさか、この廃村は幽霊の巣窟なのではないか。

 先ほどまで脳内を支配していた尿意と便意は消え去り、恐怖だけがプンを動かした。

―――知らせなければ、亡者の時()が来る前に。逃げ出さなければ。

 そう一歩踏み出そうとした時、襟を掴まれた。その時に首筋が触れた感触は、まるで刃物のように冷たかった。

 声は出ない。出せば殺される。

 恐怖に打ちのめされたプンは失禁し、間もなくして脱糞した。

 腰も抜けてしまい、気配が掴む手を放すと、へなへなと無様に地面に尻餅をついた。

「漏らしてしまいましたね。くすくす、可愛い」

 地面がわずかに振動する。奴は歩いている、そこにいる。つまり、幽霊ではないのだ。

 だが、プンは自分の正気を疑った。気配は間違いなく自分の目前にいるというのに、そこには何もなかったのだ。

 いや、違う。目を凝らしてみれば、そこには“歪み”があった。見た事もない、超自然的な現象に、思わず意識が朦朧とした。

―――きっと、俺は狂ってしまったんだ。亡者か何かにやられて、気を病んだのだ。

 静かな狂気によって彼が呆然としていると、

「そこで座っているのなら、見逃してあげます。全部終わるまでお待ちなさい」

 “何か”の勧告には答える事が出来なかった。しかし、妙な響きの声を放つ“何か”は、プンが抱く恐怖を楽しんでいるらしい。「ふふ」と笑い、気付けば消えていた。

 しばしして、プンはようやく落ち着きを取り戻した。

「た、助かった……?」

 呟くと、自身の排泄物に股間を汚しながら、おずおずと立ち上がる。

 しかし間もなくして轟いた爆音が、プンを現実に引き戻した。

 ドドドドドッ! 銃声だ。しかも続けて聞こえるという事は、恐ろしい数の銃から放たれた掃射だ。この廃村に駐屯している部隊全ての銃を集めたところで、これほどの数が揃う事はないだろう。

 大部隊が自分達に牙を向いている。

 幻想の恐怖から、現実の恐怖に。

 とにかく合流しなければ。プンは先ほどまでの出来事を白昼夢か何かだと割り切り、まずは自分が割り当てられた家に走った。


 家の扉を開け放つと、中はガランとして人の気配がなかった。ベッドに立て掛けられていたヤーのライフルが消えていたから、他の仲間は既に対処に向かったのだろう。

 どうするべきか。家を出てすぐに、浮ついた様子で立つ下級導師の姿が目に入った。

「導師様、私はどうすればいいのでしょう」

 ダギーズの一般信者に過ぎないプンにとっては、組織の末端に位置する下級導師ですら雲の上の存在。間違うことなく、常に正しい選択をしてくれる存在なのである。

 しかし不思議な事に、下級導師は明らかにうろたえていた。これは指揮官としては致命的だ。上の人間が動揺していたら、下の人間は不安になってしまう。不安というものは恐怖と同じく伝染するもので、巡りに巡った結果、全体的な士気の低下を招いてしまう事も珍しくない。

 事実、プンの中では信仰心で鈍らせている戦闘への恐怖心が芽生えつつあった。彼は元は飢饉で追い詰められた末にダギーズ参加を余儀なくされた農民、いわば食い詰め暴徒である。農業の重労働でそれなりに身体を作ってはいるが、戦闘訓練を受けた経験は皆無。出来る事といえば略奪の真似事に過ぎない。

 ややおいて、ようやく下級導師は口を開いた。

「この村を死守せよ。カミール様が率いる本隊が帰る場所を守れ。これは自由に関わる使命だぞ」

「了解しました。導師様はどうなさるのですか?」

「私は手勢を率いてカミール様に状況を伝える。ここは……お前に任せる」

 下級導師は自身の保身のために、戦略的な愚を犯した。彼はそれらしい言葉を並べているが、真意はただこの場(戦場)から一刻も早く、確実に逃げ出したい一心。

 プンに任せるにしても、彼は所詮新入りのヒラに過ぎない。経歴もなければ権威もない。そんな人間に人は続こうとしない。

 下級導師の中では戦略以前に、戦術的な事でさえ抜け落ちていたのだ。

「仰せのままに」

 プンは下級導師の背を見送り頭を下げた。しかし、内心では小躍りしたい気分だった。

 ずっと閉鎖的な農村で平凡な青年として生きてきた人間が起こす戦場での成り上がり。一度聞いたマーセル統一記のような劇的な展開に、心躍らぬわけがない。

 プンは拠点としている比較的損傷の少ない家屋に向かうと、大声を張り上げた。

「ダギーズの同志は集まれ! 俺は下級導師様にこの場を任されたプン・マーセルである!」

 調子に乗ったプンはありもしない姓を叫んだが、混乱の極みに陥っていたダギーズの構成員は、大人しくプンのもとに集った。

「銃を持つ者は大通りに展開し、防衛線を築け。敵が来たら掃射の準備を。銃を持たぬ者は物陰に隠れて、掃射で浮き足立った敵を打ち倒すのだ」

 兵の士気は低かった。

―――大層な口上を聞いて来てみれば、新入りが偉そうに。

 そんな兵の感情は、有頂天のプンには届かない。物語の主人公の如く、剣を握って指揮をとった。

 間もなくして、銃声が止んだ。残るは自分達だけ、頼れる者はいないのだ。

 きっと相手は大部隊。大通りで戦列を組んで来るに違いない。プンはその想定のもと、火縄に火を入れていつでも射撃出来るように命じていた。

―――まだか、まだか……

 固唾を飲んでプンは目前に現れるであろう敵を待った。

「馬鹿な子」

 その声を聞いて、頰がこわばった。また白昼夢か、あるいは現実なのか?

 結論が出る間もなく、プンの脳髄は朽ちた舗装路にぶちまけられた。仮にも指揮官としていた人間の頭部が、音もなく弾けたという事実に周囲の人間の認識能力は追いつかなかった。

 だが、一人だけ真実を目撃した者がいた。

「そっ、そこっ……! そこにっ、何かがいるっ……!」

 歪みだ。戦列の中に、空間に生じた歪みを発見した者がいたのだ。誰かが指差された先に銃口を向けた。

「待て!」

 戦列を崩してはダメだ。それなりに経験のある者の叫びだったが、言葉が最後まで紡がれる事はなく銃声が無慈悲にかき消した。

 銃声と共に飛び込んで来た敵が“内側”に入り込んでいるという知らせ。瞬く間にダギーズは混乱した。

 あちらに敵だ、あれは敵ではないか。

 姿の見えぬ敵に対して足並みが揃わず、無造作に放たれる銃弾。

 そこには、戦列と呼べるものは残っていなかった。

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