カミツレ若しくはソーダ水
「紫が体調を崩したんだ」
鈍い光を放つペーパーナイフと濃紺のタオルを手に、翠は言った。純白のシャツのまくった袖、首に引っかけただけのリボンタイ。確かに普段の紫ならば五分と許しそうもない格好だ。
「それは、お気の毒にね。だいぶ悪いのかい」
翠は腰に手をあてて溜息をついた。
「大したこともないのだけど、いつも以上の我儘で困るよ。よければ少し手伝ってもらえるかな」
玄関を入ってすぐの小部屋。僕は高い棚の天辺から薬箱を取った。欅の木でできているらしいそれは、腕の中でずしりと重くなった。
「ありがとう」
促されて薬箱を置く。翠は床に直にあぐらをかいて留め金を外した。ぱち、と音がした。
繊細な指からは想像しがたい無造作さで、一度に何本もの薬が取り出される。僕の目には全て同じ大きさの、茶色の瓶にしか見えなかった。
迷いのない翠の仕草。ふとした拍子に、置いていた瓶にその手首が当たった。
僕は思わず手を伸ばした。けれども、遅かった。倒れた瓶は蓋と口との隙間から透明な水薬を零す。薬草のような匂いが染み込む。
翠の指がチェスを遊ぶように薬瓶をさっと拾いあげた。壁面を伝うしずくも気にせずに床のかわいたところに立てる。
かれはエメラルドの瞳で僕に笑いかけた。
「だいじょうぶ、紫は寝てる」
ようやくのことで翠はお目当ての薬を見つけた。蓋を取るとかすかに白い粉が舞った。
翠はまじめくさった顔で瓶に顔を近づける。くんくん、と小鼻を動かして「悪くなってはいないな」と呟いていた。
「それ、いつからあるの」
なんとなく尋ねてみた。翠は見えないラベルを読むかのように薬瓶を持ちあげてためつすがめつし、「僕らが物心つく前から」と応えた。
「紫に同情するよ」
「そうだね、早く快くなるといい」
きゅ、という音がして粉薬は封じられた。
「薬包紙を持ってきてくれないかい。蓋の裏に留めてあるから」
零れた水薬も散らかった瓶もそのままにして、僕たちは部屋を出た。翠はペーパーナイフとタオル、それに古の粉薬を持っていた。僕の手のなかのパラフィン紙は歩くたびにすりりくしゅりと擦れた。
翠は簡素な扉の前で足をとめた。
「そうそう、水を用意しなけりゃね」
両の手が塞がっている翠のために、僕は扉を開けた。
うすく霧を敷いたように色あせたタイル床。壁にはドライフラワーが一束吊るされている。腰よりも少しだけ高くしつらえた調理台には、トーストもせず、バターもなにもついていない食パンが一切れ、食べかけのまま残されていた。
「その下に水があるんだ。お盆とグラスは戸棚に……」
調理台の下の扉の中には、確かに透明のガラス瓶がずらりとならんでいた。その一本を握るといまにも露が付きそうに冷えていた。
持ち手のついた四角いお盆にナフキンをひろげる。伏せたグラス、瓶入りの水、うす透明のパラフィン紙、それから翠の持ってきた粉薬とタオル、ペーパーナイフ。
お盆はこの瞬間を予期していたように、過不足ない仕上がりを見せた。
紫の部屋まで案内してもらった。お盆を持つ僕を振りかえり振りかえり、翠は「重くはないかな」と訊いてきた。
「なんてことないよ」
手首に力をこめて僕は答えた。こんなもの、危なっかしくて翠には持たせられない。
「ここ、僕の部屋だ。紫はその隣」
指し示されたふたつの扉。僕にはまるきり同じに見えた。翠は左の扉を押し開けた。
「紫」
さすがにいつもより声を落としていた。かれの後に続いて僕も足を踏み入れた。どこか、ミルクのような甘い匂いがしたように感じた。
「これ、どこに置こうか」
「そうだね……。ベッドの側にテーブルがあるだろう」
翠の脇を抜けて前へ歩みでた。ベッドは右の壁につけて置かれていた。
その乾いたシーツに、紫はこちらに背を向けて、たったいま翼を捥がれたばかりの風情で横たわっていた。
僕は音を立てないようにお盆を置き、唇を湿してから「具合はどう、紫」と呼びかけた。華奢な背中が動いて寝返りをうった。アメシストの瞳が気だるく僕を見つけた。
紫が起き上がろうとするので、僕はかれをベッドに押し戻した。かれの体はいくらか熱を帯びていて、こんなときにも白いシフォンブラウスのボタンをいちばん上まで留めていた。
「ソーダ水の声なら起きるんだな」
翠の声がからかう。翠は僕のことをソーダ水とよぶ。
「寝たまま出迎えるなんてカミツレに悪いだろう」
紫の声がこたえる。紫は僕のことをカミツレとよぶ。
はじめて僕が二人と出会ったとき、かれらがカミツレシロップのソーダ水割りを飲んでいたからというのがその由来だ。どうやらそれは奇跡的な出来映えだったらしく、翠と紫はそれが僕の手柄だと固く信じている。
「薬箱を引っ掻き回していただろう。うるさくて眠れやしない」
枕に頭をうずめたまま、紫が不機嫌に言った。
僕が謝るよりも先に「だれの為だと思っているのさ」と翠が応じた。あいまいなうめき声が返事だった。
「どうせいつものだろう。家に籠ってばかりいるから巣食われるんだ」
「外に出て毎日擦り傷を作れっていうのかい。君みたいに」
翠は肩をすくめて「始めよう」と言った。
紫がゆっくりと身を起こす。壁にもたれかかって「翠」と呟いた。
「仕方ないな」
翠は呆れた顔をした。ベッドに膝をついてあがり、手をのばしてシフォンブラウスのボタンを上からひとつひとつ外してやっていた。
白い手首を支え、カフリンクスにも指をかける。
「相変わらず面倒な服を着ているね」
「君のだらしのない格好よりはましさ」
紫は当たり前の顔つきをして翠に身を委ねていた。
肌をあらわにした紫。翠に言われるがままにベッドにうつぶせた。
翠は僕が置いたお盆に目をやって、「しまった」と口の中で発した。
「紫、起きてくれ」
「寝ろと言ったり起きろと言ったり」
紫は枕に突っ伏したまま動こうとしない。
「薬を忘れていたんだ」
むき出しの肩に手をかけて紫を揺さぶる翠。
「忘れていてくれたほうがよかったのに」
不平を言いながらも紫はシーツに座った。
翠がひとさじの粉薬を瓶からパラフィン紙へ移すあいだ、紫はブラウスを肩に羽織って待っていた。
薄布と肌の対比は、紫の輪郭や色白さをいっそう強調した。
「カミツレ」
「なんだい、紫」
かれは目を伏せ気味にして続けた。
「もてなしができなくてすまないね。翠はどうせ気が回らないだろうし」
「何を言っているのさ。ゆっくり寝ていないと」
「君はいいやつだね」
唇で笑って翠は言った。囁くような吐息が交じっていた。
「ほら」
翠は五角形に折った薬包紙と半分ほど水の入ったグラスを紫に差しだした。
紫は顔をしかめてそれを受けとった。
几帳面に角を合わせて薬包紙をたたみ直す。グラスに口をつける。観念した深い溜息が生まれた。
のけぞった喉がこくりと動いた。次いで水が飲み干される。
紫の顔は薬を飲む前よりも蒼ざめて見えた。
空のグラスとひらいた薬包紙を翠に手渡して、紫はぱたりとベッドに倒れた。
「紫」
僕は慌ててかれの顔を覗いた。長い睫毛が隈のような影を落としている。唇は小さく結ばれている。
「……翠」
不安に翠を振りかえった。
「心配要らないよ。いつもこうなんだ」
翠は紫の身体の下に手を差し入れて、かれをうつぶせにした。かけていただけのブラウスも剥ぐ。
それからお盆を置いたテーブルに戻って、かちゃかちゃと音をさせ始めた。
紫の背がほんの僅かに上下する。肩胛骨や背骨のつくる陰影で、光が射していることに気づいた。部屋の奥のカーテンが息をするように揺られていた。
「窓を閉めてこようか」
「いや、いいよ」
翠は濡らしたタオルに粉薬を振りまきながら「紫はもっと陽にあたったほうがいいんだ」と困ったように微笑んだ。
濃紺のタオルを軽くたたんでお盆に戻す。その後で翠が手にとったのは、銀色のペーパーナイフだった。
「よく寝ているかい」
その問いかけに、僕は紫の背中をひと呼吸ぶん見守った。
「そうみたいだよ」
「よかった」
翠はベッドの傍らに寄って、指の背で紫の髪を払った。さらりと現れたうなじのくぼみ。そこに冷たく光る切っ先が当てられた。
さほど鋭くもないペーパーナイフが、桃でも切るように白い肌に沈む。
「翠」
思わず声を出した。ナイフを握るかれの横顔はあまりにも普段通りだった。
「どうかした、ソーダ水」
刃は背骨に沿ってちりちり言いながら下りた。紫は一滴も血をこぼさなかった。
「……いや、大したことじゃないよ」
僕はもうなにも言わずに翠の指先を目で追った。
腰のあたりまで引き下ろしてから、翠はナイフを抜いた。その先は蝋を引いたようにうっすらと白みがかっていた。
かちゃりとペーパーナイフをお盆に横たえる。紫は深く眠っていた。息を吸うたびに彼のなかの芙蓉色がのぞいた。
戻ってきた翠はすんなりした右手をその裂け目に滑りこませた。
背骨と肋骨は白水晶の色をしていた。
肘近くまでを紫の体に差し入れて、翠はなにかを探っていた。
「……いた」
ほんの唇でささやいた。握った指の付け根の骨が紫の薄い肩の皮膚を浮きあがらせた。
慎重に引かれた翠の腕は、やはり蝋の薄膜を纏っていた。
「取れたよ、ソーダ水」
かれが握っていたのは、いびつな根をもつ黒いものだった。ベッドの側のテーブルに放られたそれは、死んで手足をこごめた蜘蛛に似ていた。
「これはなに」
「わからない、たまに潜り込むんだ。僕より紫のほうが食われやすい」
肉が柔らかいせいかな、と呟いて翠はまた紫の背に手を入れた。
こんどは左肩から黒い根が引きずり出される。
「これらを燃してしまってくるよ。紫を見ていてくれるかい」
翠は指先で根をつまんだ。蜘蛛の形はだらりと垂れ下がった。
「わかった」
「もし魘されるようだったらタオルで背中を拭いてやって」
言い残して翠は部屋を出た。
紫の背はぴたりと合わさって、いまではもうあるかなきかの筋が見えるだけだった。
その肩胛骨に白い翼がないことが僕にはやはり不思議だった。きっとかれは、ほんの束の間ここにとどまっているだけで、時が来れば相応しい場所に帰るのだ。
ほんの束の間。
どきりとして紫の儚い手首を握った。薬指の先で脈を診る。静かな、規則的な動き。安堵の息をついた。
微かな律動が心地よくて僕はしばらくそのままでいた。
幽かな声が聞こえた。はっとしてテーブルの上のタオルをたしかめる。
「翠……?」
やわらかい髪が揺れて首がこちらを向いた。無意識であろう声と表情に、胸がずきりとした。
「翠は外しているよ。あれを燃すのだって」
蝶の羽根の速度でまばたきをして、紫は僕を呼んだ。
「うん。具合はどう、紫」
「だいぶ快いよ」
そう言った紫は、もういつもの声音だった。
「ただ、これから冷えるかもしれないな。カミツレ、服を取ってくれる」
ベッドの端に引っかけられていたシフォンブラウスを渡した。井戸水を織ったように、ひんやりと滑らかな手触りだった。
紫は「皺が寄っている」と眉をひそめてからブラウスを着た。元の通りにボタンを全て閉めて、ふたたびうつぶせになった。
「背を拭こうか」
遅すぎることは痛いほどに承知していたけれど、僕は尋ねた。
「結構だよ。それより手を握っていてくれるかい、さっきみたいに」
紫は腕を投げ出した時のまま動かそうとはしなかった。僕はその細さを迎えに行った。
「君の手は気持ちがいい」
紫は機嫌よさそうに言ったきり眠りについた。その息に耳をすませる。
きい、と扉が開いた。
「まだ寝ているかい」
ひそやかに訊きながら翠が入ってきた。
「一度目を覚ましたよ。ブラウスを着て、また眠った」
翠は僕のとなりに立って紫の寝顔を見下ろした。ほのかな灰の匂いがした。
「それなら、次に起きたときにはすっかり元気になっているはずだね。……ところで君、なぜ紫の手を掴んでいるの」
「紫に頼まれたんだよ」と若干の気恥ずかしさを覚えてこたえた。
「紫は君相手だと素直になる」と翠は快活に笑った。
「きっと、君には言わなくても伝わると思っているんだ」
「言いもしないものが伝わるものか」
翠の口調は寂しく、優しかった。
翠はまた部屋を出て、今度は青梅のジュースを持ってきてくれた。僕は片手で紫の手を握ったまま、もう一方の手で氷の浮かんだグラスを取った。
窓からの風ともあいまって、すっきりと涼やかな味がした。
「紫が起きたら飲ませてやったらどう。きっと気分がよくなるよ」
「そうだね、そうしよう」
ジュースを早々と飲み干した翠は、表面にうすく味のついた氷をぽりぽりと噛んだ。その音が素敵で、僕も真似をした。
「なかなか日が沈まないね」
冷たさにしびれる舌を動かした。
「あと十日もしないうちに夏至だからね。気持ちのいい季節になる」
翠は窓の外の青々した空気を吸った。かれの体は竹や若木のようにしなやかに細い。
対して、紫の細さは性質が違う。例えるなら、自らの花の重みにも折れてしまいそうな薔薇の茎。棘のあるところも似ている。
「なにを笑っているの、ソーダ水」
「なんでもないよ。すこし思いだしたことがあっただけさ」
翠は「ふうん」と不思議そうに首をかしげた。
紫が目を覚ましたのは、夕暮れに街の色が変わりはじめる頃だった。僕は掌に汗をかいていた。
「ずっと僕の手を握っていたの」と紫は僕に尋ねた。
「君がそうしてほしいと言ったんじゃないか」
「そうだけど……」
紫の頬がわずかに染まった。天井にかざしたかれの腕には、僕の指の跡がささやかに残っていた。
「夕飯をどうだい」
二人の誘いを僕は丁寧に断った。
名残惜しそうに、いくぶんか申し訳無さそうに、翠と紫は玄関で僕を見送ってくれた。
「近いうちにまたおいでよ。今日のお礼をさせてもらうから」と紫。
「七月の新月の夜がいい。プラチネリィが来るんだ」と翠。
「プラチネリィ?」
僕が聞きかえすのと同時に、「プラネタリウムだ、翠」と訂正があった。
「何度言っても覚えないんだ」
軽く溜息をついてから「たしかに、あれはなかなか綺麗だよ。都合がつくなら見に来るといい」と紫は微笑んだ。
「それなら、是非その時に遊びに行くよ」
「待っているよ、ソーダ水」
翠が言い、紫が頷いた。
家路につく前に、西から東へのグラデーションをなす空に一番星をさがした。
翠と紫の住居は湖の畔にある。以前はアトリエも兼ねていたそうだ。僕は小さな手漕ぎボートで水を渡ってくるのが常だった。
向こう岸には街の明かりがちらほらと見える。あの中の一つに、僕の家がある。
ボートに乗りこんで暗い水へと漕ぎだした。
ぱしゃり、ぱしゃりと十回ほど櫂の音を数えた時、翠と紫の家にも品のよい燈がぽつりと灯った。