ガラスの卵 2*挿し絵付き
山本君はケースを揺らしてみましたが、ケースの扉は開きませんでした。
「開かないな。鍵がかかってる」
カイト君はあっさりと、
「そんなの割っちゃえばいい。すぐには誰も気付かないよ」と、言います。
そうは言っても、やってはいけないことは、いつだってやってはいけないと山本君は思います。一旦曖昧にしてしまうと、していいこととしてはいけないこと境界は、どんどんボヤけてしまうことでしょう。
どこかで線を引くことは、確かに大切なことなのです。
「幾ら何でも、そんなことしたら駄目に決まってるだろ」
うまくそれを言葉にすることができなかった山本君は、押しつけるようないつもの口調で言いました。
カイト君は、当然のことながら腹を立てました。そんなふうな言われ方をするのが、カイト君は一番嫌いでした。
ですが、何とかして鍵を開けなくては、卵をとり出すこともできません。
「職員室の鍵置き場にだってないし」
流石は優等生です。体育倉庫や教室の鍵は、職員室の鍵置き場で管理されていることは、この中では先生の信頼も厚い、山本君しか知らないことでした。
カイト君が職員室に呼び出されると言ったら、イタズラを叱られる時ぐらいなものです。
その時、ここ、ここ、と言う囁くようなほんの小さな声がしました。声を頼りに、その蝶々の標本が床に積んであるのを、みんなで舐めるように調べ上げました。
一番下から二番目の標本ケースの、ガラスの蓋の上、そこには小さな金色の鍵がありました。
色が剥げて埃をかぶったカギは、誰かが落としてずっとそのままになっていたのでしょう。鍵を見つけたのは、カイト君でした。
ミーコそっくりに、鼻が利いたのかもしれません。
ピンで留められた標本の蝶々は、フクロウのように動いたりはしませんでした。話しかけてみても、さっきの声はもう聞こえてはきませんでした。
結局誰が鍵の在処を教えてくれたのかは分かりませんでしたが、カイト君は他のみんなには聞こえないように小声で、標本箱の蝶々にありがとうと言いました。
鍵はカイト君から山本君に渡され、ガラスケースは開けられているところでした。だからその声を聞いたのは、カイト君一人でした。
卵を守って・・・そう聞こえた気がします。
「さあ、月の光の当たるところへ」
ガラスの卵は、アイリちゃんと山本君の二人かがりで運ばれていきます。
「優しく丁寧に運ぶんだ。そうじゃないと、割れてしまうからな。昔は殻も厚く、外から割ろうとしても割れることはなかったのだが、年々卵の殻は薄くなるばかりだ」
フクロウは、独り言ばかり言って過ごしていたのでしょう。愚痴っぽいのも仕方がないことでした。
フクロウは、自分の前から見えなくなりつつある卵を、食い入るように見つめています。
その横顔は、寂しそうに見えました。
ナミちゃんは思いきって、まだその場にいた藤野君とカイト君に言いました。
「ねえ、卵が孵るところが見えるように、このフクロウさんも出してあげたらどう?」
カイト君は、卵を守ってという言葉を聞いた後でしたので、何も言わずにナミちゃんの言葉にのりました。藤野君も、それに従いました。
フクロウは、カイト君と藤野君に両側の翼を支えられて、ヨタリヨタリと押されるようにして、ケースの中から引き出されました。戻ってきた山本君とアイリちゃんも、それを手伝いました。
月の光の当たる場所まで出て行っただけで疲れてしまったのか、フクロウはぐったりと座り込んでしまいます。
それでもフクロウは、卵がすぐ目の前にあるのを見て、満足そうでした。
「一体幾つの卵が、駄目になったことか」
一息ついたフクロウは、感慨深そうに言いました。フクロウに寄り添うようにして、ナミちゃんがいます。
「一体これは、何の卵なんですか?」
フクロウは、ナミちゃんに話しかけられると優しい顔をしました。フクロウが優しそうな顔をしなければ、ナミちゃんは側に寄ることもできなかったでしょう。
きっとナミちゃんの性格を、分かっていたに違いありません。
フクロウは、重大な秘密を打ち明けるように厳かに言いました。
「これは、一角獣の卵なのだ」
驚いているみんなの中で、山本君だけが露骨な溜め息を吐きました。如何にも、ついていけないというようにです。
「一角獣が、何で卵から生まれるんだ。そもそも、一角獣なんて」
フクロウは、慌てて翼を打ち振って、山本君の言葉を遮りました。
「こらこら、いかんいかん。そんな言葉が、この卵の殻を薄くしていくのだ」
みんなは、その言葉にギョッとして、月の光の中キラキラと輝いている卵を見ました。
「この卵はな、子供達の夢でできている。しかし、夢の力はすっかり失せてきている。それは子供達が、夢を見なくなったからに他ならない。夢は夜に作られる。その夢を管理するのが月であり、子供達の夢を守るのが、一角獣の務めなのだ。そして私のような夜に生きる生き物に、一角獣の卵を守る役目が与えられているのだよ。分かったかね」
フクロウは片目を半分閉じながら、独り言のように悲しげに呟きました。
「もし夢の力が失われていなければ、今のような言葉も出てこなかっただろうに」
山本君は、その言葉を聞いた途端、自分を恥ずかしく感じました。フクロウは、決して咎めているのではありません。
だから余計に悲しくなってしまいました。
他のみんなも、口に出しては何も言っていませんでしたが、フクロウの言葉を心の中で疑ったことを、申し訳なくなりました。
卵が無事、孵化することを願うばかりです。
もし今の自分の考えの所為で卵が孵らなかったらどうしようと、みんなは不安になりました。
まるでその不安が形になったかのように、月の光が翳り始めました。
黒い影によって、月が隠されていきます。その黒い影は、ただの雲ではないようです。どんどんこちらに向かって近付いてきます。
「ああ、奴らがきた。もう駄目だ」
フクロウは、翼で頭を抱え込みました。
「奴らって?」
「一角獣が生まれては、困る奴らだ。人間を嫌い、破滅させる為夢を奪い、子供によくない考えを吹き込む、闇をこよなく愛する物達だ。奴らは卵を割ってしまう」
その黒いものは、コウモリの群れでした。アブラコウモリにオヒキコウモリなど色々な種類のコウモリ。
月の光を隠すほどの大群が、この理科室にあるガラスの卵目がけて、飛んでくるのです。
窓が開くと、コウモリ達は部屋の中に雪崩込んできました。身動き一つできなかったみんなの中で、唯一動いたのは藤野君だけでした。
藤野君は、ガラスの卵をお腹の下に入れて、その上に身体をかぶせました。四本の短い足としっぽの間に、すっぽりと卵は隠れてしまいます。
太くて長い首を寝かせると、もう卵は見えませんでした。
甲高い鳴き声を上げて襲いかかったコウモリ達は、何匹も床へと叩きつけられました。アイリちゃんは、さっき見つけておいた落ちていた鉛筆を振り回して、コウモリ達を藤野君に近付けまいとしています。
フクロウも、その鋭い嘴で応戦しながら、羽の抜け落ちた翼で卵を庇います。
コウモリはフクロウの羽を毟り、藤野君を引っ掻きました。しかし藤野君は、我慢していました。
アイリちゃんは、八面六臂の大活躍です。専業主婦としての日頃の憂さを、この場を借りて発散させているようでした。
カイト君も負けてはいられないと、ミーコの必殺猫パンチを繰り出します。ミーコはそれで、セミだってスズメだって、ゴキブリさえも捕まえてしまうのです。
カイト君の猫パンチにやられて、目を回したコウモリが床に積み上がっていきます。
みんなが頑張っている中、ナミちゃんは目を閉じて震えていました。
あれあれ、ナミちゃんに近付いたコウモリが、慌てて逃げ戻っていきます。
ナミちゃんは、ただ丸くなって怯えていただけなのですが、コウモリ達は、ナミちゃんには指一本触れようとしませんでした。ナミちゃんは分かっていませんでしたが、それは小豆のお陰でした。
小豆は、お祝い事のある時にお赤飯を炊く時に使われるぐらい、とてもおめでたいものなのです。
ナミちゃんは、コウモリ達が自分の方に向かってこないのに力を得て、果敢にも立ち上がると、藤野君を守る為に戦いに加わりました。ナミちゃんが立ち上がった為に、だいぶ味方にとっては有利になりました。
フクロウもアイリちゃんもカイト君も、ナミちゃんも必死でした。
あれ、そうです。あと、一人足りません。そう言えば、山本君の姿が見あたりません。
「何やってんだよ。あいつは?」
疲れてきた腕をそれでも振り回し、カイト君が文句を言いました。
「所詮人間なんてそんなものさ。自分が一番可愛いんだからね」
アイリちゃんは、そんなふうに返しましたが、それを聞きつけたナミちゃんが、そんなことはないと強く反対しました。アイリちゃんも、ナミちゃんの気迫に押されて、何も言い返しませんでした。
みんな奮戦しましたが、相手は大群です。コウモリ達に引っ張られて、カイト君の腕の糸がほつれ、白い綿が飛び出してしまいました。これでは猫パンチも出せません。
アイリちゃんは、ついに鉛筆を奪われてしまいました。
ナミちゃんには手が出せなかったコウモリ達は、作戦を変えたようです。ナミちゃんの上に雑巾が降ってきたかと思うと、上から押さえつけられてしまいました。
雑巾の下でナミちゃんは、ああ、もう駄目だと思いました。
ガラスの卵を守っている藤野君も、コウモリに爪で引き裂かれて、卵はコウモリ達の手に落ちるでしょう。コウモリ達は、卵を割ってしまうでしょう。
一角獣は、死んでしまいます。
そうなれば、夢を守るものがいなくなってしまいます。
今以上に夢がなくなってしまったら、ナミちゃん達のようなぬいぐるみで遊んでくれる子供もいなくなるかもしれません。
雑巾の下で、ナミちゃんは涙を一粒こぼしました。
「みんな、こんな時こそ全員で力を合わせるんだ」
ああ、それは山本君の声でした。押さえつけられていた力が緩みます。ナミちゃんの上から雑巾がとり除かれました。
「大丈夫?」
ナミちゃんを助けてくれたのは、やっぱり山本君でした。ナミちゃんは頷いて、山本君が差し出してくれた手に掴まって身体を起こしました。
理科室の中では、沢山のぬいぐるみが、コウモリ達と戦っています。
山本君は、応援を呼びに行っていたのでした。
カイト君達も味方を得て、盛り返していました。カイト君は負傷したものの、使えなくなった腕の代わりに、相手に体当りを食らわせていました。
アイリちゃんも鉛筆を奪い返して、奮闘しています。山本君も、ナミちゃんを助けた後は、コウモリに頭付きを食わせたりと大忙しでした。バランスのとれていない頭だって、使いようです。
ナミちゃんも負けてはいられないと、再び藤野君の側に戻りました。藤野君は、しっかり卵を守っていました。フクロウも頑張っています。
初めはたった五つでしたが、今は二七つのぬいぐるみ達が、それぞれコウモリに向かっていくのです。コウモリ達は、泡を食って逃げ出しました。
それを見て、みんなは歓声を上げました。ついに勝ったのです。
終わってみれば、みんなひどい有り様になっていました。アイリちゃんは、三つ編みが解けていましたし、山本君のボタンの目も、片方外れていました。
もちろん卵を守っていた藤野君が、一番ひどい傷を負っていました。フエルトは毛羽立って、薄くなり中の綿が透けていました。そうなっても藤野君は、ずっと卵を守り続けていたのでした。
いつものんびりニコニコ笑っている藤野君を、みんな偉いと思いました。
コウモリが去ったおかげで、再び理科室の中は月の光に照らし出しされました。
藤野君は、ガラスの卵の上から身体をどかしました。
透き通ったガラスの卵は、月の光キラキラと輝いて、誰もが見とれてしまいました。みんなこれから何が起こるのかと、ドキドキとして待っていました。
月の光の中で、ガラスの卵にヒビが入りました。殻全体が、パリパリと剥がれていきます。みんなは息を飲んで、それを見つめていました。
粉々になった卵の殻は、月の光に溶けて見えなくなりました。卵が消えた後に、小さな一角獣が立っていました。
みんなは、その可愛くて気高くて雄々しい姿に、声も出ませんでした。フクロウは、肩を震わせて、泣いているようでした。
みんな身体から綿が飛び出していることも、汚れていることも、どうでもよく思えました。
一角獣はぬいぐるみ達にお礼を言うように、軽く頭を下げると、月の光の道を駆け去っていきました。
みんなは一角獣の姿が見えなくなっても、いつまでもいつまでもその場に立ち続けていました。
さて次の日、登校してきた5年2組の子供達は、ロッカーの上のぬいぐるみを見て、大騒ぎになりました。
たった一晩の間に、ぬいぐるみ達はすっかりボロボロになっていたのです。
泥棒の仕業だとか、誰かのひどいイタズラだとか色々言われましたが、結局真相はぬいぐるみ達しか知らないことでした。
ぬいぐるみ達の身体はボロボロでしたが、その表情はとても満足そうに見えました。
その訳は、あなたなら分かるでしょう?
その出来事があまりに不思議だったので、先生が時間をくれて、国語の授業中にお話を作ることになりました。
ぬいぐるみ達を主人公にした、夜の学校での冒険物語が沢山作られました。
5年2組の子供達が作ったお話は、機会があればいつかお話しましょう。




