ガラスの卵 1
とろけそうなバター色の満月が、天空にかかる夜のことでした。潮が満ちるように、不思議な気配が近付いてきます。
ここは、真夜中の小学校。
昼間は子供達の歓声が絶えることがない校舎も、今は静かに眠っています。
5年2組の教室にも、勿論生徒の姿はありません。けれど教室の中からは、木の葉が擦れ合う程の、微かな物音がしていました。
行儀良く机が並んだだけの、ガランとした教室は、窓から差し込む月の光に、淡い黄色に染められています。
「なんて素敵な夜だろう。こんな時にじっとしているなんて、勿体無いよ。みんなもそう思うだろう?」
教室の後ろにある、造り付けのロッカーの上。声はそこから聞こえました。
「じゃあ君は、一体何をしようって言うんだい?」
その口振りは、クラス委員長を務めている山本君にそっくりです。
「何かをして遊ぶんだよ。その何かを決めるのが、お前の役目だろう」
一番初めに聞こえた声が再び、今度は偉そうに言いました。クラス1のお調子者のカイト君も、学級会の時なんかに、山本君によくそんな口を聞くことがあります。
例えば「どっちが悪いか決めるのが、お前の役目だろう」とまあ、こんな調子です。
「勝手に遊んだりしたら、怒られたりしないかしら」
そう言ったのは、やっぱり先生のお気に入りだけはあるユウちゃんでした。
カイト君みたいな話し方をするのは、ロッカーの上に載せられた、黒猫のぬいぐるみです。
ロッカーの上には、家庭科の授業で5年2組のみんなが作った、27個のぬいぐるみが飾られていました。
お人形や犬や猫、アニメのヒーローや、サイコロや野菜なんかもあります。27人それぞれが、思いを込めて作ったぬいぐるみです。
「誰が怒るんだよ。休み時間にはみんな遊ぶもんだぜ。行きたくない奴はここでじっとしていればいいさ」
カイト君の作った黒猫のぬいぐるみは、プラスチック製のひげが、右のニ本が接着剤の付け過ぎでくっついていますし、中に綿を詰めるのが面倒臭くなって乱暴に詰めたものですから、しっぽが45度の角度に折れ曲がっていました。
それ以外は、家で飼っている猫のミーコをモデルにしているだけあって、とても上手にできていました。 黒猫――勿論、人間のカイト君ではありませんが、よく似ているのでカイト君と呼びましょう――は、
「遊びに行く者この指とまれ」
と叫びました。すると、みんなは、もじもじとして俯いてしまいました。
「僕は行くよ」
山本君が、そう言いました。クラス委員をしていてしっかりした山本君が作ったのは、布で出来たくまのぬいぐるみです。
手足がボタンで止めてあるので、動かすことができました。少し、頭でっかちです。
「私も行きたい」
それはとても小さな声でしたが、辺りが静かな分、よく響きました。声の主は、いつも大人しくて控え目な、ナミちゃんの作った白うさぎでした。
ここだけの話、ナミちゃんは山本君のことが好きなのでした。授業中でも、気が弱くて手を上げることもできないナミちゃんは、元気よく返事をして、はきはきと答えている山本君に憧れているのです。
普段のことを考えると、この時ナミちゃんはとても頑張ったと言えるでしょう。
ナミちゃんは、このうさぎの作り方を、おばあちゃんから教えてもらいました。用意する物はタオルと、小豆か大豆のようなお豆さんです。
タオルを丸く切って小豆を詰めて、お手玉のようにした物が胴体になります。ビーズで目鼻をつけ、耳を縫った頭をつければそれで完成です。
見た目は鏡餅に耳が生えたようで、胴体には申し訳程度の短い手足がついています。
「僕も行く」
これは、太っていて動きものんびりした、藤野君のぬいぐるみの言葉です。フエルト素材の恐竜ですが、言われてみなければ、それが何かはよく分かりません。
頭もありますし、四本の足もあります。太くて長い首の所為で、すぐに横に倒れてしまいそうです。
意地悪なタカヤ君に、不細工なぬいぐるみだとからかわれても、気にせずに藤野君は笑っているだけでした。
そこに、発破をかける威勢のいい声がしました。
「何だい、みんなだらしないわね。新しく何かやるのが心配なんだろ。私は行くからね」
まるでどこかのおばさんのような台詞ですが、アイリちゃんの作ったお人形の女の子の言葉でした。
お人形は、ピンクのタータンチェックのワンピースを着て、茶色の毛糸をおさげにして垂らしています。
アイリちゃんはクラス1可愛くって、ほんの少し見栄っぱりでした。だから、自分の人形が一番可愛くなるようにと人形も頑張って作りました。
しかし、とても難しかったので、授業中には完成できませんでした。
家に持ち帰って仕上げた人形は、かけた時間の分も他の子達よりも、ずっといい出来映えでした。お裁縫の上手な、大人が作ったようです。
タカヤ君は、お母さんに手伝ってもらったんだろうとアイリちゃんをからかいました。アイリちゃんは、違うもんと言いましたが、本当はちょっとだけお母さんに手伝ってもらいました。
ちょっと?
だいぶ、沢山です。だからアイリちゃんのお人形は、少しおばさん臭くなってしまいました。
結局、黒猫のカイト君と、くまの山本君、恐竜の藤野君と男の子が三人。女の子は、うさぎのナミちゃんと、人形のアイリちゃんの二人だけが、出かけることになりました。
カイト君は、猫らしく身軽に飛び降りました。藤野君は、ロッカーから落ちたという方が正しいでしょう。それでも中身は綿なので、誰も怪我なんか気にしませんでした。
山本君は、うまく飛び降りたつもりですが、着地に失敗してしまいました。頭が大きい所為で、バランスが崩れてしまったのです。
アイリちゃんの後、最後にナミちゃんが、こわごわながら飛び降りました。
ナミちゃんだけは、綿の代わりに豆が身体に入っていたので、床に落ちた時に派手な音がしました。しかし、しっかり縫い合わせてあったので、豆が飛び出すことはありませんでした。
大きな音がした為に、みんなの注目を受けてしまったナミちゃんは、どうして自分もみんなと同じで綿を詰めてくれなかったのだろうと、恥ずかしく思いました。
さて、五人とも無事にロッカーから降りることはできましたが、まだ教室の扉が立ちはだかっています。めいぐるみの非力な力を、全部集めたって開きそうにはありませんでした。
しかしカイト君が、前足でスッと扉を横に引いただけで、扉は簡単に開いてしまいました。
カイト君ちのミーコが、襖を開ける時の要領と同じでした。扉が開いたのは、きっとお月様が力を貸してくれたからに違いありません。
廊下にも、月の光が溢れています。カイト君達は、何も遮るもののない廊下へと滑り出ていきました。 ロッカーの上の他のぬいぐるみ達は、その様子をじっと見ているだけでした。
委員長らしく置いてけ堀を喰う子がいないように、山本君が最後を務めました。遠足の時など、人数確認をしたりするのは、クラス委員の山本君の役割でした。
山本君は、他のみんなも気が変われば好きに出入りができるようにと、扉を開けたままにしておきました。
外に出た山本君に向かって、カイト君が声をかけます。
「さあ、どこに行くんだよ?」
それも、山本君に決めさせようと言うのです。山本君は、困って口を閉ざしてしまいました。ここには、頼りにできる先生はいません。
「どこって。とにかく行ってみればいいじゃないの」
アイリちゃんが、ズンズン先に立って歩くので、みんなもそれにならいました。
幾つもの教室の前を通って、みんなはひっそりとした校舎の中を歩き回りました。
試しに一つの扉を開けてみましたが、ガランとした教室が広がるばかりで、何も面白いことは起こりませんでした。
五つのぬいぐるみ達は、それから次々に図書室や音楽室などの特別教室の扉を開けていきました。
そこでは、ほんの一瞬前まで誰かがいたような気配があったのですが、カイト君達が何か起こるのを今か今かと待っているのを知っていて、意地悪をしているようでした。
いえ、やっぱり誰かも何かを待っていて、黙り込んでいたのかもしません。
廊下の一番奥に位置していた扉に、最後にみんなは辿りつきました。そこは、どうやら理科室でした。
これも月明かりの中に、白い実験机がガランと並んでいます。しかし、今度という今度は違いました。
「ああ、今回もまた駄目か」
その声は、理科室の奥の方から聞こえました。低い小さな声でしたが、しんという音が聞こえるほど静かな部屋の中では、はっきりと聞こえました。
「今宵の月は、いつにも増して輝いているというのに」
声の主は、ブツブツと呟き続けています。ガラガラとして痰の絡んだ声は、不気味ではありましたが、ひどく悲しげな調子でした。
カイト君達は、息を飲んで顔を見合わせると、一歩一歩、声のする方に近付いていきました。
理科室の右手の壁は凹んでいて、四畳程のスペースがありました。そこにはガラクタが詰め込まれていて、更に準備室へと通じるドアもありました。
もう使わない教材などが、そのまま捨てられもせずに放り込んでありました。声はそこから聞こえてきます。
そこまでは、流石に月の光も差し込んでいませんでした。
薄暗いガラクタ置き場から、お経でも唱えるように、ブツクサと言う声が響いてくるのです。
ナミちゃんは、思わず藤野君のしっぽに掴まりました。
理科室などの特別教室の掃除は六年生の担当で、来年になればナミちゃん達にも掃除当番が回ってきます。その中でも理科室の掃除だけはしたくないと、ナミちゃんは常々思っていました。
ナミちゃんは、一番後ろでのんびりしている藤野君のしっぽに、しがみついていました。
そこには人体模型だとか、ホルマリン漬けのビンなどが並んでいます。
女の子の殆どが気味悪がるでしょうが、アイリちゃんは平気でした。男の子達も、一体声の主は誰なのかという興味の方が、強かったようです。
期待と、僅かの恐れ(もしかしたら、悪い奴かもしれませんからね)で一杯になりながら、みんなはひとかたまりになって、ガラクタの隙間を抜けていきました。
目の前に、大きなガラスのケースが幾つも並んでいます。スズメなどの小さい鳥や、蝶々の標本などが乱雑に置いてあります。その時、またあの声が聞こえました。
「ああ、残念なことだ」
深い深い溜め息を吐いたのは、他の標本の中でも一際目立つ、フクロウの標本でした。ガラスのケースの中に棒きれが渡してありますが、フクロウは止まり木には止まらず、ケースの底に座り込んでいました。
とても古い物なのでしょう。
フクロウは羽もボロボロで、埃をたっぷりかぶり、黒いガラスの目玉にも埃の膜が張っていました。
このフクロウのことを知っているのは、今ではずっと大昔の卒業生だけでしょう。カイト君のお父さんぐらいなら、知っている筈です。
カイト君のお父さんは、この小学校の卒業生でした。お父さんが小学生だった何十年も前には、このフクロウが職員用の玄関のポーチに、本物の木に止まらせた格好で飾ってありました。
木の置き物の方は、今も同じ場所に飾ってあります。但しフクロウは、何年かして羽が沢山抜け落ちてみすぼらしくなってしまった為にケースに入れられて、理科室の隅にやられたのでした。
勿論そんなことは、ぬいぐるみのカイト君達の知るところではありません。
みんなは息を詰めて、そのフクロウを見ました。フクロウはふと顔を上げると、自分をまじまじと見つめている、五対のボタンの瞳を見つけました。
フクロウは、ほうと驚きの声を上げました。ナミちゃんは、先程までのフクロウの声が、あまりにも悲しげだったのを思い出し、
「何が、残念なんですか?」と、聞いていました。
フクロウの首がナミちゃんの方に向き直ると、ナミちゃんはジロリと睨まれでもしたように、丸い体を更に丸くして小さくなりました。
フクロウが、標本になってからは狩りができなくて、残念だと言うのではないかと思ったからです。
「お前達は、生き物ではないな」
フクロウは賢そうな顔で、ひと固まりになっているぬいぐるみ達を、見回しました。
その仕草は、森の賢者と呼ばれるフクロウに相応しいものでしたが、カイト君には面白くないものでした。
クラス委員の山本君が、誰かが間違ったことをしでかすと、これ見よがしに眼鏡をもち上げるのが、鼻持ちならないのと同じような理由です。
「自分だって、本当に生きてる訳じゃないじゃないか」
猫のカイト君は、ずっと年寄りで物事を良く弁えていそうなフクロウに対しても、口調を改めるということをしませんでした。
先生にもそんな口を利くので、嫌がられていましたが、フクロウは怒ったりしませんでした。カイト君は、フクロウを見直しました。
まるで、カイト君が小さい頃に亡くなってしまった、祖父ちゃんのようだな・・・と。
「その通りだ。月の魔法によって生かされているのは、私も同じ」
そう言ってフクロウは、感極まったように叫びました。
「ああ、これこそ天祐と言わずして、何と言おう」
テンユウとは何だと言うように、カイト君が山本君をつつきました。山本君も知らなかったので、仏頂面をして首を振りました。
山本君は、自分の知らないことを指摘されるのが好きではありません。そんなところが、ぬいぐるみの山本君にも表れているようです。
ちなみに天祐とは、天の助けと言うことです。正確には天祐神助と言いました。
フクロウは、少し口調を柔らげました。大人がよく出す猫撫で声ではありません。ぬいぐるみの子供達を、自分と対等だと認めた上で話していました。
「君達に頼みがある。私の温めている卵を、ここから出して欲しいのだ。この卵は、月の光を浴びないと、孵化することができないのだよ」
フクロウはそう言うと、身体を少しズラしました。蹲っている腹の下に、卵が抱えられていました。
それも、透き通ったガラスの卵です。
ナミちゃんはその卵の美しさに、怖さを忘れてしまいました。
「これは、あなたの卵なの?」
おずおずと言ったナミちゃんを見るフクロウの目は、優しげでした。
「いいや、私の、ではなく。全ての生き物にとっての希望の卵なのだ」
一瞬だけですが、そう言った時のフクロウは、言葉に滲む誇りに似つかわしく、とても気高い存在のように見えました。
「私は、お月様から役目を与えられた。それがこの卵を孵化させることだった。しかし、私はもうすっかり老いて、満足に動くこともできなくなってしまった。今の私にできるのは、一晩中愚痴ることだけときている」




