1_夏が始まる
閉めきった体育館の中は、夏の熱気に蒸され、選手達にとっては地獄のごとき空間と化していた。日頃の練習で慣れているとはいっても、この季節の試合は誰にとっても楽ではない。
「8-10、チェンジサービス」
(どうにかここまで持ってきた、な)
樹は台で数回ピン球を弾ませ、消耗した身体を落ち着かせるようにリズムを刻む。相手も自分も満身創痍。そして実力はおそらく、目の前の彼の方が上だった。
(居るもんだ――天才ってのは)
シェークのバックハンドから放たれる下+左回転サービス。短く敵陣へ斬り込むサービスに、相手はそれをツッツキで受ける。
そこから先は、我慢の続くネット際の攻防。互いに隙を見せず、故に攻めきれない。
(もっかいやったら、勝てねえだろうな)
僅かに、樹の返した球が相手のフォア側へと浮く。勝機に飛びつく相手のフォアハンド。
「――アウト。11-8、マッチトゥ樹選手」
コールの後、天を仰ぐ相手と台上に視線を落とし俯く樹。どちらが勝者でどちらが敗者なのか、一目に分かりづらい構図だった。
「……っした」
審判と握手を交わし、樹に近づく相手――皆本 誠二郎。差し出された手を、樹は握ったかどうか分からないくらいに軽く触れ、離した。
「強いな。名前は聞いたことあるが、一年か」
「はい」
誠二郎の表情は平静を装いながらも、歯を食いしばっているのかバランスが左右で崩れていた。握手の後、そのまま立ち去ろうとした誠二郎に樹が声をかける。
「やめるわ、卓球」
唐突に放たれた言葉に、誠二郎は足を止めて振り返る。
「え?」
「よーく分かったよ。この先俺は、お前にゃ一生勝てん。だからここで、俺の卓球は終わりだ」
「……あ? それ、どういう」
「勝ち逃げだよ。10年弱もすりゃ、お前多分五輪代表くらいになってんだろ? テレビ見ながら精々『あーこいつ高校ん時やって勝ったわー』つって自慢させてもらうわ」
そう言って今度は、樹の側が彼に背を向ける。
「調子、大崩ししてんだろ。さっさと立ち直って、全国の猛者共ボッコにしてやんな」
ラケットで顔を仰ぎながら、樹はその場を去っていった。この後、彼はこの大会でベスト4の成績を収めるも、翌日に退部届けを提出。ここから彼は、本格的に将棋一筋の人生を歩み始めることとなる。樹の人生において、ここが一つのターニングポイントであったのは間違いないだろう。
そしてまた、誠二郎にも人生の転換点が迫っていた。この時点では誰も知る由の無い、因縁の相手との出会いが。
「頼むっ! 何も言わず金貸してくれ、兄貴!」
足の踏み場すら点々としか存在しないその部屋で、それは見事な土下座の姿勢であった。PCのディスプレイに視線を送り、まだ新品の液晶ペンタブレットに黙々とペンを走らせていた男が口を開いたのは、その体勢が5分程続いた後のことだった。
「お前な、せめてもう少し情報寄越せよ。あと先に言っとくが、少なくとも何も言わずにってのは無理な話だ」
金を必要とする目的。具体的な金額。利子。担保。追随するその他諸々。土下座をする彼の要求には、勢い以外の全ての要素が欠けていた。
「まァ、差し当たりは目的からだな。ラバーやらラケットが欲しいなら、現物支給で済むはずだが」
「修行してくる」
顔を起こし、少年は男を真っ直ぐ見て言った。
「……修行?」
男の眉が、怪訝そうに動く。
「中学で部活引退してからさ、今一つ感覚が戻らねえんだよ。結局今年はインハイ出場も逃しちまったし、この前の市内大会だってぱっとしねー」
彼――皆本 誠二郎は、決して頭の出来が良い方ではなかった。もっと言えば底辺レベルの馬鹿で、彼の中学から毎年半分近くが進学する地元の公立校には、受かる確率の方が低かった。
最終的には希望通り何とかそこへ進学することができたが、勉学に費やしたその時間の代償は決して小さくは無かった。過去には全中(全国中学校卓球大会)本戦ベスト16まで進んだ彼が初夏に行われたインターハイ県予選で敗退したのは、高校卓球の選手層の厚さばかりが原因ではない。
小四の時分から卓球を始めてから6年。受験勉強のブランクは、彼に『スランプ』という名の試練を与えた。
「確かに、あそこまで卓球に触れなかった期間が長いってのは、お前にとっちゃ初めてか。だがな、何でそこで修行っつー発想になるのか……」
「気分転換? つーほどお気楽なもんじゃねえけど。一遍、環境変えてみたくなってさ」
環境を変える、というのは悪くない発想だとPCの前の男――皆本 純一は思った。誠二郎の通う高校は他の公立校と特に変わらない、平凡な高校だ。部活のレベルも高いわけではないし、実際今の状態の誠二郎ですら部内のリーグ戦での成績は未だ無敗と聞いている。卓球の実力は控えめに見積もっても頭三つ四つほど抜けている、と推測できた。
優れた指導者が居るわけでもなく、顧問は大会引率がせいぜいの置物。他の部活との取り合いで体育館も毎日は使えず、やむなく床の固い体育館2階でのトレーニングになることもある。一般的な部活としては珍しくない話だが、卓球バカである彼にとっては不足だろう。
「誠二郎。お前の今までの戦績、覚えてるだけ言ってみ」
「え? えーと……ホープス(全日本卓球選手権大会・小学5~6年生の部)ん時は県予選1回戦負け、3回戦負け。全中は地区予選2回戦負け、本戦1回戦負け、本戦ベスト16――だったよな? カデット(全日本卓球選手権大会・中学生の部)は本戦出場までは行ってなかったっけなぁ……小っさい大会まではいちいち覚えてねーぞ、市内レベルならあと3,4回は優勝してるはずだけど」
小学四年生からのスタートと考えれば、今までの戦績は十分誇れるものだろう。推薦で他県の強豪高校へ行く道も無くはなかったかもしれないが、本人の他県への進学希望が薄かったのと、素行の悪さ(突然『修行に出る』と言い出す辺りから、彼の破天荒さの一部分でも察して欲しい)が多少なりとも影響したのもあって結局その道は途絶えた。
「ふん。今までの実績を信用に変えて担保とするなら、20万ってところか」
「! あ、ありがてぇ――」
「但し条件がある。……気の早いお前の事だ、もう明日には自分のチャリ漕ぎ出して日本列島縦断しようと考えてるんじゃねえのか?」
う、と2,3回痛いところを突かれたようにのけぞる誠二郎。
「ん、まあ……っていうか、自転車で列島縦断するなんてまだ一言も喋って」
「お前の考えてる事くらい大体分かるわ。だが、今日から3日間は出発は許さん。せめて今回くらいは、事前に下調べしてから行った方がいい」
純一の言葉に反論しようとした誠二郎だったが、PCからの通話コールによって二人の会話は途切れた。通話が長くなりそうだと察知した誠二郎は、そそくさと部屋を出る。
「……荷造りだけでも、しとくか」
「はいな、こちら市屋研ー」
とある大学の一室の電話が鳴った。机に突っ伏して眠っていた女性が、とろんとした眼を擦りながら受話器をとる。
「あ、まいどおおきにー。……うん、データは十分とれとるよ、あとはそっちの都合に合わせて――おっけ、5日後やね。こっちの作業の目処ついたらまた連絡するわ」
受話器を戻し、うんと伸びをする女。立ち上がるとその背丈は意外に大きく、170cmは超えているものと推測できる。あまり手入れのされていない長い髪を適当に縛り、コーヒーカップを持って電気ポットの前へ歩み寄る。
「――んしゃ。もう一頑張りやね」
コーヒーをちびちびと啜りながら彼女が見つめたモニターには、人の姿かたちをした『人ならざるもの』が映し出されていた。
「ここが、日本」
成田国際空港。彼女にとっては、初めて踏む日本の地だった。慣れない足取りながら、その歩みに不思議と迷いは無い。
「ふっ」
手荷物の流れるベルトコンベアから、バックパックとロードバイクを片手ずつで担ぎ、ゲートへ歩き出す。入国手続きを待つ人の列の中でも、彼女の存在感はいろいろな意味で際立っていた。やがて、彼女の入国審査の番が回ってくる。
「旅券を……『ブリジット=桜庭』さん、ですね。入国理由は?」
「――こいつだ」
ブリジットは表情を変えぬまま、バックパックから自らの得物――シェイクハンドラケットを取り出し、そう言った。
2週間1話ペースくらいで更新したいです(願望)。