0_とある棋士の追憶
目が覚めたのは、日が沈んで間もない午後7時頃。軽い昼寝のつもりが、どうやらかなり寝過ごしてしまったようだ。薄暗い手元から手探りでリモコンを見つけ、設定温度28度のエアコンをオフにする。床に脱ぎ捨てたジーンズを履いて引き戸を開けると、むっとした熱気が部屋へと飛び込んできた。
「……あづー」
汗で貼り付くTシャツを団扇で仰ぎながら階段を下りると、いつもとは違う喧しい声がリビングから聞こえるのに気づく。そうか、世間ではもう夏休みというやつだったか。
「うっす」
「あ、悟くん!」
食卓で俺を出迎えたのは、父・母・祖父母といったいつもの面子に加え、父の弟にあたる叔父の家族3人を加えた計7人だった。まだ十にも満たない従弟が、目を輝かせながら俺の方を見る。父母達と談笑している叔父夫婦に軽く会釈してから、俺は従弟の方へ顔を向けた。
「久しぶりだな、晶。元気してたか」
「うん! 悟くんは? この前の試合も勝ったの?」
晶の問いに曖昧な笑顔を浮かべながら、いつもより少し間隔の狭まったテーブルの席につく。
「んー、この間――ったら、機神戦か? 勿論勝ったぞ」
「すごいすごい! やっぱり強いね、悟くん」
無邪気に喜ぶ従弟の顔を見ると、ついこっちも顔がほころんでしまう。少なくとも、今の俺の周りに自身の勝利をここまで喜んでくれるだろう人は彼以外に居ないだろう。
「晶、後で1局指すか。そろそろ俺も十枚落ちじゃ厳しいかもな?」
「うん、やろう! 僕ね、今、クラスで一番強いんだよ、将棋!」
樹 悟。通称『蛇神』。それが俺の名だ。中学生の頃から奨励会に所属し、18歳の時に四段昇格、プロ入り。以降、年を経る毎に多くの棋戦にて優勝・好成績を挙げながら、半年前に八段へ昇格。国内で10人しか存在しないA級棋士の1人となった。
ちなみに『蛇神』というあだ名は、俺自身が名乗ったものではない。いつだったか、とある棋戦の決勝で戦った相手が対局後に語った弁から、周りがそう呼ぶようになったのだ。
『……気付いた時には、既に挽回不可能な局面だった。まるで蛇の毒にやられたようだ』
実際、蛇に噛まれればすぐ気付きそうなものだが。まあ、広まってしまったものは仕方ないし、俺が特別不利益を被るわけでもない。ついでに言えば、俺はこのニックネーム、結構気に入っている。彼の言葉は偶然であるにせよ、俺の指し回しの本質的な部分を実に的確に示していた。
『気付いたときには挽回不可能』。俺の攻めは手番に関係なく、序盤の展開の時点で既に始まっていると言ってもいい。もっと言えば対局する以前から。
タイトル戦や特に強い相手と戦う時、俺はその対局相手を徹底的に分析してから対局に臨む。まあ、プロ棋士なら当然の事だ。当然のことではあるが、俺の場合少し他の棋士達とその度合いが違う。
徹底的に、だ。
「……最近はプロ棋士ですら、コンピュータの将棋ソフトに押され気味らしいな」
いつもはあまり喋らない親父が、トーンの低い声で俺に問いかける。
「ああ。計算能力じゃとてもパソコン様には勝てないからな、物量で最善手を探られちゃ流石にキツい」
でも、と晶が俺の言葉を遮る。
「悟くんは得意だもんね、コンピュータとの将棋。今まででコンピュータと試合した回数も、勝率も、悟くんが一番なんでしょ?」
棋界で最強と噂される某将棋ソフトを含め、これまで俺は計24戦コンピュータと対局している。対局成績は22勝2敗、公の場で10戦以上ソフトと対局したプロの中ではトップの勝率だ。
「うむ。いくらコンピュータ相手とはいえ、ソフトを作るのは結局人間だからな。付け入る隙はある」
付け加えるなら、ある局面における指し手がより限定される将棋ソフトの方が、指し手に幅のある人間より展開が読みやすいとも言える。先日の機神戦でも俺はコンピュータ相手に勝利を収め、それを含めたB級以上の棋士達の勝敗を総合し、結果は人間側の勝ち越し。プロ棋士の面子を守り抜いた。
「俺以外のプロは嫌がる奴が多いんだけどな、ソフト相手の対局は。もしコンピュータ相手に負けりゃ赤っ恥だし」
コンピュータが人間の棋力を抜く日も近い、なんて話もある。が、人間が作っている限り、やはりどうしてもどこかに粗は出てしまうものだと俺は考えている。将棋ソフトを作るためのソフト……なんてのが出てきたら、いよいよ棋界も危ういだろうとは思うが。
「まあ、俺は暫く負けてやるつもりは無いな。少なくとも現役の間は」
得意げに笑い、俺はテーブルの上のリモコンに手を伸ばした。チャンネルを回すうち、俺の目にいつかの懐かしい光景が飛び込んできた。
「ん――あら? この時間っていつもニュースじゃ」
「……相変わらずずれとるな、悟。今はオリンピックの真っ最中じゃろうが」
呆れた顔で祖父が俺を見る。そういえば最近テレビを見ていなかったな、と今更になって思い出した。
「そういやそうだったな。今年は開催地どこだったかな、東京?」
「違うよー、悟くん。今年はローマで開催だって、夏休み始まる前からずーっとニュースで言ってたよ」
テレビには、木製の台を挟んで睨み合う選手が2人。掌に乗せたボールがゆっくりと宙に舞い――跳ねる。
「……これ、日本の選手か?」
「んー、知らない」
ハイスピードで展開する打ち合いの後、画面手前側の選手が打ったドライブショットが相手の懐をぶち破る。その選手に寄るようにカメラアングルが移り変わった。
「――おー。やっぱりな」
何年も前に見た顔。成長期を経て逞しさは増したが、その面影は確かにあった。
「知ってるの、悟くん」
「まーな。俺、高校の頃暫く部活で卓球やってたんだ」
奨励会に通う合間を縫って、俺は高校の部活動で卓球部にも参加していた。将棋の片手間、と言うつもりは無い。やや将棋に重きを置いてはいたが、『それ故に』卓球でも手は抜かなかった。
相乗効果というやつだ。将棋と卓球の両方で、あの頃の俺は勝負勘を磨いてきた。
「俺な、大会でこいつに勝ったことあんだよ」
「そうなの? すごいすごい! 卓球も上手かったんだね」
テレビに映る彼は、俺の1つ下の後輩だった。学校は違ったが、その頃から時折名前を聞く程度には実力のある選手だった。
『皆本選手、第1・2セットを連取しました。解説の八尾さん、ここまでの試合運びはどうでしょうか』
『良いですね。世界ランクは相手の方が上ですが、物怖じせず向かっていけてますね、皆本は』
腰ほどの高さのボールフェンスを挟み、タオルで汗を拭いながら向かい合ったコーチの指示に小さくうなずく皆本。指示が終わると、互いの右拳を軽くぶつけて踵を返す。その表情は、口端だけを吊り上げた勝気な笑みだった。
(興奮しちゃって、まァ――)
第3セットが開始され、再び激しい打ち合いが始まる。双方共に攻撃型の選手らしい、反応速度をフルに活かした打撃戦だ。球の跳ねる音が、シューズと床が擦れる音が、歓声の中でもかき消されぬ選手の激しい戦哮が、あの日の記憶をゆっくりと呼び覚ます。
暑い夏の日だった。俺がこいつ――皆本 誠二郎と戦い、勝利を収め、そして卓球で生きていく道を完全に諦めたその日の記憶を。
さて。
『俺』の話はここまでにしておこう。これは俺の物語ではない。
ここから先は、『オレ』の物語。
長方形の空に瞬く、星星の物語だ。