待ってろ、甲子園
未来ちゃんが病室を去り、一夜明けた。
静まり返った病室はあまりに広く、折り鶴が虚しく翼を広げていた。
「山岸、ありがとうな。甲子園……頑張れよ」
「住田さん、こちらこそありがとうございました。未来ちゃんの為にも、僕……必ず勝ちますから」
「期待してるぞ。恐らく未来もな」
「はい」
こうして僕は、住田さんと別れた。
こうなってしまうと、暫く会うこともないだろう。
あんなに大きな体格の住田さんの背中が、心なしか小さく見えた。
その日の午後、僕は先生に呼ばれ診察室にいた。
「やぁ、山岸。今日は、退院の日取りを決めようと思ってね」
「先生! それじゃ?」
「うむ。また、投げれるよ。退院は明後日になりそうだ」
「明後日? それじゃ、明日の開会式は勿論、明後日の試合にも出れないじゃないですか」
「そこなんだよ。最終的な結果が出るのが、明後日の午前中。そして君が出る予定の試合は、第二試合……微妙な時間帯だ」
「それじゃ、意味がないんです」
「私としては、今直ぐにでも退院させたいのは山々だ。しかし、こればっかりは、私の力ではどうにもならないんだよ。わかってくれ」
「そんな……」
「確か相手は、山梨の山梨工大だったね。間に合うことを祈るしかないな……」
今まで親身になってくれていた先生が、冷たく僕をあしらう。
それは、何処か事務的にも思えた。
「何の為に今までやって来たんだ。これじゃ、水の泡じゃないか……くそ……くそぉ」
僕は診察室を飛び出し、公衆電話に向かっていた。
この事実を、千秋に伝える為だ。
受話器を手に取り、ありったけの小銭を投入する。
三回目の呼び出しで、千秋は電話に出た。
「もしもし、千秋? 僕だ」
「あっ、蓮ちゃん。皆、蓮ちゃんだよ」
受話器の向こう側に、仲間達の声が聞こえる。
「退院の日取りが決まった。明後日だ」
「明後日? それじゃ、開会式は間に合わないのね」
「あぁ、それどころか、試合に間に合うかさえわからない」
「そっか……肩はどうなの?」
「問題ない。ブランクはあるだろうけど、大丈夫だ」
「良かった。皆、蓮ちゃん、肩大丈夫だって。あ、ちょっと待って。内藤君に代わるね」
「あぁ」
「おう、山岸! 元気か? 試合……間に合わないって本当か?」
「あぁ、最善は尽くすつもりだけど、開会式は無理だ」
「そっか……まぁ、気を落とすな。俺達だけで何とかしてみせる」
「すまない……内藤」
「何言ってんだよ。お前らしくないな。あ、ちょっと待ってくれ」
「あ、うん」
「キャプテ――ン! 俺達皆、キャプテンのこと待ってますから」
「山岸、聞こえたか? そういうことだ」
「皆……皆……ありがとう」
「何だ、泣いてんのか?」
「ば、馬鹿。泣くわけないだろ。僕が行くまで待ってろよ。じゃあな」
「おう、じゃあな」
ありがたい――皆、僕の帰りを待っていてくれてる。
そうだ、諦めちゃいけないんだ。
僕は泣くのをやめ、唇をキュッと噛み締めた。
◇◇◇◇◇◇
翌日、開会式で堂々と入場行進をする、明秋野球部の姿があった。
テレビに映るその姿は、凛としていて弱小だった頃の面影はない。
第三者目線で見ると、他校にひけを取らない……まるで強豪校のようだ。
「本当なら、僕もここにいれたのに……」
そんなこと思いながら、僕は長い長い一日を過ごした。
◇◇◇◇◇◇
翌朝、退院の日。
つまり、試合当日だ。
この日は朝から慌ただしく、退院の手続きやら病室の片付けやらで、時間に追われていた。
「検査の結果も問題ない。山岸君、退院おめでとう」
「ありがとうございます」
「くれぐれも、無茶はいかんよ」
「わかってます」
僕は先生や看護師達に見送られながら、久しぶりに外の空気を吸った。
こんなに外の空気が美味しいと思ったことはない。
しかし、問題はここからだ。
もうじき、第一試合が終わる頃。
慌て時刻表を見ると、新幹線の発車時刻まであまり時間がない。
しかも、タクシー乗り場は、混雑していた。
やむを得ずタクシー乗り場の長い列に並ぼうとしたその時、不意に誰かが僕を呼び止めた。
「山岸、早く乗れ!」
「住田さん! はい!」
僕は住田さんに言われるがまま、車に乗り込んだ。
「住田さん、どうして?」
「未来からの遺言だ。山岸を絶対に甲子園に連れてってくれってな」
「未来ちゃんが……」
「ば、馬鹿! 泣く奴がいるか」
「いえ、嬉しいんです。僕は野球を始めて、色んなことを学びました。野球を始めた当初は、野球が出来る喜びだけを感じていましたけど……」
「いましたけど、何だ?」
「沢山の人に支えられて、野球が出来るんだなと学びました」
「そうか……」
住田さんはそう返すと、無言のままハンドルを握った。
そして、何とか発車時刻に間に合ったのだ。
「住田さん。ありがとうございました」
「礼は、勝ってからにしてくれ」
「はい!」
僕は住田さんに深々とお辞儀をすると、駅の階段を駆け上がった。