アイツが教えてくれた物
打席に立った市原は、一度スタンドに視線を送る。
その視線の先には、先程から汗だくになるほど声援を送る佳奈の姿。
どうやら、市原も姉の存在に気付いたようだ。
市原は照れながら、ヘルメットをかぶり直しバットを構えた。
マネージャーとして応援されるのと、スタンドから応援されるのでは雲泥の差がある。
これは僕なりの見解だが、少なくとも父親の時はそうだった。
もっとも、ベンチから父親に応援されたことがないから、比較しようがないのだが。
そんなこと思いながら、僕は市原に視線を集中させた。
もはや、頼りになるのは市原だけだ。
寺が丘の半沢は、こっちの気持ちを知ってか知らずか、マウンド上での時間を有効に使う。
恐らく、市原の集中力を切らす為。
腕だけでなく、心理的攻撃をも使用する頭脳プレー。
打席の市原は、苛立ち始めていた。
――挑発に乗るな。これは相手の作戦だ――
僕はそう言いたかったが、言葉を飲み込んだ。
市原は広野とタイプが違う。
今、出て行ったら、四番としてのプライドが傷付く。
プライドで野球をする訳ではないが、過去の市原とのいざこざを考えると、僕がしゃしゃり出ることによって、余計に面倒になるとわかっていた。
難しい所だ。
結局は、市原自体が気付いて冷静になってくれればいいのだが……。 半沢は市原が苛立っているのを確認すると、ようやくセットポジションから投げた。
案の定、市原は豪快な空振りを見せた。
あれでは当たるものも当たらない。
半沢は、キャッチャーから球が戻るとまたもや時間を稼ぐ。
見事に市原の性格を見抜いている。
何度か二塁の広野に牽制球を投げるが、まるでアウトにする気がない。
――どうしたらいい? アイツを……市原を冷静にするには――
自問自答する僕に、内藤が言い添える。
「市原を信じてやろう……」
どうやら、内藤も同じ気持ちらしい。
何も出来ない不甲斐なさを感じながら、僕はベンチに腰を据えた。
「落ち着け、市原――っ!」
佳奈に代わって、今度はスタンドから男性の声がした。
思わずその方向に目をやる。
「しょ、東海林さん」
間違いない。
佳奈の横にいるのは、卒業した前キャプテンの東海林さんだ。
懐かしいその声に、僕達はスタンドに目を奪われた。
無論、市原も例外ではなかった。
その声で我に返ったのか、市原は肩を上下に揺らしバットを構え直した。
絶妙のタイミングでの、東海林さんからの援護射撃。
もう市原に憂いはなくなった。
半沢は時間を有効に使い、ようやく投げた。
市原は素早く振り抜く。
これこそが、本来の市原のバッティングだ。
素直に返した打球は、空を切り裂きセンターの頭上を越えていった。
広野は全力で三塁を回る。
中継を経てバックホームされるが、既に広野はホームインしたあと。
すかさずキャッチャーはセカンドに投げる。
「アウト――っ!」
セカンドを目指していた市原は、アウトになった。
キャッチャーの見事な判断だ。
とは言え、僕達明秋高校は貴重な一点をもぎ取った。
◇◇◇◇◇◇
1-0のまま回を重ね、いよいよ最終回。
この一点を守り切れば、二年連続甲子園出場である。
しかし、ここまで言うことを聞いてきた肩が悲鳴をあげ始めたのだ。
マウンドに登る足取りは重い。
内藤に言うべきか、言わざるべきか。
僕はロジンバッグを握りながら、唇を噛み締めた。 すると、誰かが背後から肩をポンと叩いた。
振り向くと、そこには市原が立っていた。
「肩……痛いんだろ?」
「何が?」
僕はバレるのが怖くて、惚けて見せた。
我ながら、下手な芝居。
それくらい嘘が下手なのは、わかっている。
でも、試合前決めていた。
――何がなんでも投げ抜こうと――
市原は目を細めながら、こう述べた。
「さっきはどうもな。内藤から話は聞いた。ガンガン言ってくれて構わないのに……俺に気を使うな」
「気なんか、使ってない。それに肩なんて痛くない」
強情だ。
自分で言うのも何だが、どうしようもないくらい強情だ。
「俺達が何にも知らないと思ってるのか? 俺も広野も、金沢だって、皆お前が肩が痛いのを我慢して投げてることは知ってる」
「何だって? 内藤の奴喋ったのか?」
「内藤は何も言ってない。最後まで口を割らなかった。なぁ、山岸。もういいだろ。須賀と代われ」
「僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない! 今まで、お前を見てきたからわかる。お願いだ。もう無茶はよせ……必ず……必ず守り切って、優勝するからさ」
そう言う市原の目からは、大粒の涙が溢れていた。
信じよう。
味方を信じられなくなったら終わりだ。
「市原……ありがとな」
「任せろ。その代わり、ちゃんと応援しろよな」
「あぁ」
話を終えると、マウンドに須賀がやって来た。
「須賀……あとは頼んだぞ」
「任しておけ」
僕は須賀のグローブに白球をポンと入れると、マウンドを降りた。
信じられないくらいの盛大な拍手。
僕は悔しさと嬉しさの中、ベンチに戻った。
「さぁ、締まっていこう」
僕は市原との約束通り、ベンチからそう声を張り上げた。