熱い思いを燃やせ
この緊張の場面で、打席には広野が入る。
監督は三塁ランナーの金沢と、バッターの広野の足の速さを考慮して、スクイズのサインを出す。
ニルバーナ内野陣も、スクイズを警戒し、前進守備を取る。
失敗は許されない。何が何でも、確実に一点は欲しい場面だ。
一球目、ゴーバンはスクイズを警戒し、外に外してきた。金沢も予想していたのか、直ぐ様帰塁する。
ニルバーナバッテリーが、どう出るかが問題だ。
ゴーバンは、ランナーを気にせず、セットポジションから勢いよく投げた。その間に、金沢は猛ダッシュしてホームを狙う。
ゴーバンの投げた球は、低めで難しい球だ。広野は、低くバットを寝かせ、一塁側に転がした。
ファーストはその球に食らい付き、慌てホームへ返球する。
――砂埃が舞い上がる。
ヘッドスライディングした金沢の指先は、僅かながらホームをタッチしていた。
「セーフ!」
遂に、均衡を破ったのだ。投手戦の今、貴重な一点が明秋に入った。
続く打席には、内藤が入る。
――キィィィン――
一点入った喜びの余韻に浸る間もなく、内藤はバットの芯に捉えた。打球は右中間を遥かに越え、スタンドに吸い込まれていった。
僕達はその光景に唖然としながら、内藤を見つめた。右手を高々と掲げ、ゆっくりとダイヤモンドを一周する内藤は、誇らしげにベンチに戻ってきた。
「スゲーよ、内藤」
誰もが皆、内藤を誉め称える。
マウンド上のゴーバンは、項垂れながら意気消沈といったところだ。程なくして、ゴーバンはマウンドを降りていった。
その姿を見て、内藤は言う。
「ゴーバンは、凄いピッチャーだった。だけど、一つ思ったことがあったんだ。アイツは、本当は野球を好きじゃないんじゃないかってね。その分、俺の気持ちが勝ったって訳だ」
内藤の分析力には、頭が下がる。
◇◇◇◇◇◇
その後、七回から須賀に全てを託し、僕はマウンドを降りた。
須賀は一点を許したものの、気迫のピッチングで乗り切り、僕達はニルバーナ学院に5-1で快勝した。
明日、準決勝の相手として、東光第一に決まったのだが、その前に僕にはやるべきことがあった。
それは千秋と佳奈との問題を、解決することだ。マウンドを降りた後、そのことばかりが頭の中をグルグルと縦横無尽に駆け巡っていた。どうやら、この問題を解決しないと野球に専念出来そうもないようだ。
僕は不器用な男。二つのことを、いっぺんには出来ないのだ。
とは言え、土壇場になると心が折れる。
実際、既に心が折れている。試合後、こうして佳奈の家の前に来ているのだが、かれこれ三十分ほどインターホンを押せずにいる。
第三者から見たら、不審者かストーカーにも間違われかねない。
「はぁ……」
試合後の疲れと共にやってくる、深い溜め息。
――やっぱり、帰ろうか――
男らしくない考えが過った瞬間、佳奈の家の玄関の扉が開いた。
「れ、蓮君……どうしたの?」
ほんの一瞬、帰るのを躊躇したのが悪いのか、偶然にも佳奈が姿を現した。
もう、後には引けない。僕は喉の奥に引っ掛かった言葉を手繰り寄せ、佳奈に言った。
「ひ、暇?」
――違う、僕が言いたいことは、そんなことじゃない――
しかし、現実には僕はそう言い放っていた。
「暇……だけど……上がっていく?」
「う、うん」
――たがら、違うんだって――
先日のことや、今日のことがなかったかのように、サバサバした佳奈に、本音を言い出せず家に上がり込むことになってしまった。
相変わらず、佳奈の部屋はきちんと整理されている。僕は一通り確認すると、ソファーに腰を据えた。
佳奈は、飲み物をテーブルに置くと、僕の隣に座りながら切り出した。
「千秋ちゃんのことでしょ?」
どうやら、佳奈はお見通しのようだ。決断をしようとしたのだが、心を見透かされると躊躇してしまう。
――ここは男らしく、決めよう――
「か、佳奈……」
「駄目……言わないで……言わないでよ……」
佳奈は瞳に大粒の涙を溜めながら言った。しかし僕は、残酷な言葉を突き付けた。
「聞いてくれ、佳奈。僕は、千秋のことが好きなんだ。勝手だとわかっている。……ごめん」
「わかってる……わかってるけど……私、蓮君のことが好きなの……もう駄目なのかなぁ」
「ごめん……」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
撤回すれば、やり直せそうな雰囲気。だが、撤回すればまた佳奈を傷付けてしまう。
僕はソファーから立ち上がり、佳奈に背を向けた。
「蓮君……ねぇ、もう一度キスして……」
佳奈のか細い声は、部屋の空気に溶け込み、かき消されていった。
――佳奈……今までありがとう――
僕は帰り道、涙が止まらなかった。自分から佳奈を振っておいてなんだが、失ったものの大きさに初めて気付いた。
――もう振り返らない――
「さぁ、明日は準決勝、東光第一戦だ」
僕は涙を振り切るように、風になった。