天使の声
「そう、ガッカリするなよ。どうだ? 俺と一緒に野球やらねぇか?」
「冗談じゃない……僕は、陸上をやる為にこの学校に来たんだ……誰が、野球なんて……」
感情に任せて、怒鳴るように内藤に言い放った。悪気はなかったが、今までの努力を否定されたようで理解に苦しんだ。
――こんなもの、買わなければ良かったんだ。
そう口にすることは簡単なこと。だが、それを言ってしまったら余計に惨めになる。僕は寸での所で、言葉を飲み込んだ。
◇◇◇◇◇◇
翌日、未だにあの事が頭から離れなかった。いや、正式に言うと、離れようとしなかったのが本音だ。
実を言うと、久しぶりに押し入れからグローブを引っ張り出してみたのだ。当然、手入れはされておらず、埃にまみれて黒ずんでいた。
――昨日の晩。
押し入れからグローブを見つけ、物思いにふけっていると父親が僕の部屋にやって来た。
「蓮、どうだ? 高校のほうは? ん? 何だ、グローブなんて引っ張り出して……野球する気になったのか?」
「実は……」
僕は今日あったことを、ありのまま父親に話した。
「なるほどな。しかしな蓮、陸上を続けるか野球をするかはお前が決めることだ。勿論、父さんは野球をしてもらいたいが、強制はしない。お前がやりたいようにやれ。父さんの言えることはそれだけだ」
そう言うと父親は部屋から出ていった。
父親は根っからの野球好きで、馬鹿が付くほどの読捨ガイアンツのファンだ。幼い頃から僕をプロ野球の選手にしたくて、休みの日は日が暮れるまで特訓をしていた。
僕はそれが嫌で、中学に入り父親から開放されたいが為に陸上部に入部したのだ。
――プレート、お前は酷い奴だな。僕をここまで追い詰めるなんて。
◇◇◇◇◇◇
「ぎし……山岸、大丈夫か?」
「な、何?」
「何じゃねぇよ。さっきから呼んでんのに、ボーっとしちゃって……。まさか、昨日のプレートの件、まだ引きずってんの?」
――図星だ。
「そんなことねぇよ。ちょっと考え事してたんだよ」
「ふ~ん……」
内藤はそれ以上は、言及しなかった。僕の気持ちを察知したのかも知れない。
――こいつ、いい奴なのかもな。
僕はそんなこと思いながら、授業を受けた。
――そして、その日の放課後、僕の心を揺り動かす事件が起きた。
放課後、いよいよそれぞれの部活のPRや、仮入部の申請が始まった。
「山岸、やっぱり陸上部にするのか?」
「わからない……正直迷っている」
答えが出そうで出ない……。いまいち踏み切れない僕の肩を半ば強引に引っ張りあげ、内藤は野球部の部室に誘った。
やはり噂通り廃部寸前だけのことはある。お世辞にも綺麗とは言えないボロ小屋の部室。足を取られるくらい雑草が生い茂ったグラウンド。とても、野球の出来る環境ではない。
百人中百人が、そう言うだろう。さすがは、弱小野球部だ。
やはり野球部じゃなく、陸上部にしようと決心した時、天使のような声が僕を呼び止めた。
「野球部に入部ですか? お願いです。野球……やってみませんか?」
肩まであるセミロングの髪を揺らしながら、おっとりとした口調でその女性は僕を見つめた。
――ストライク。
「はい、もちろん」
僕はあっさりと迷いを打ち消して、野球部に入部することを決めた。