嵐の前の静けさ
目覚めのいい朝。不思議と右足の痛みも、昨日の練習の疲れもない。
ベッドから体を起こし、棚に飾られたトロフィーに目をやる。どれも陸上で得た物ばかりだ。しかし、今の僕には何の意味もない。
そこまで言い切ってしまうのは、大袈裟かもしれないが、少なくとも過去の栄光にすがる気はない。
それは野球と出会ったことで、得た物が大きいからだ。
日課である早朝のランニングを終えると、珍しく父親が話し掛けて来た。
「蓮、今日の試合は応援に行けないが、次の試合は必ず行くからな」
新聞で顔を隠しながら話すその姿は、いつになく嬉しそうだった。
『次の試合』と言い添える言葉の裏には、『今日の試合は勝てよ』と、遠回しに応援しているという意味を持ち合わせていた。
不器用だが、父親なりの応援の仕方なのであろう。
「父さん、必ず勝つよ」
僕は、たった一言を返し学校へと向かった。
◇◇◇◇◇◇
部室に到着すると、僕以外のメンバーが皆揃っていた。
「山岸、遅いぞ!」
「か、監督。すみません」
どうやら、今日から二階堂監督も同行するらしい。
「よし、これで全員揃ったな。今日の試合の相手、聖新学院だがお前らではまず勝てないだろう。知っての通り、強豪だ。そこでワシなりに作戦を考えてきた」
先輩達の様子を見ると、微動だにせず監督の話に耳を傾ける。
――やはり、この人は凄い人なのだろうか? ――
そんなことを考えていると、監督が僕を睨み付ける。
「山岸、いい度胸だな。ちゃんとワシの話を聞け!」
「は、はい! すみません」
――なんか、謝ってばかりだ。いかん、いかん……集中しよう――
僕はようやく監督の話に耳を傾けた。
「まず、本庄の高速スライダーだが、直球との見極めは困難だ。長打は狙わず、少ないチャンスを足で稼ぐしか方法はない。チャンスがあれば、クリーンアップだろうが、バントの指示を出す。いいな?」
「はい!」
やはり、監督がいるのといないのでは、チームの締まり具合が違う。
「いい返事だ。それでは今日のスタメンを発表する」
監督は、ポケットからおもむろにしわくちゃになったメモ紙を取りだした。
「一番、セカンド鈴木」
「はい!」
「二番、サード住田」
「はい!」
「三番、キャッチャー内藤」
「はい!」
「四番、ファースト市原」
「はい!」
「五番、ショート神田」
「はい!」
「六番、ライト石塚」
「はい!」
「七番、レフト東海林」
「はい!」
「八番、センター五十嵐」
「はい!」
「九番、ピッチャー木下。以上だ」
そこに、僕の名前はなかった。この日の為に、練習を重ねてきたのにだ。
納得がいかず、僕は監督に食って掛かった。
「監督! 僕に投げさせて下さい」
僕がそう言うと、監督はこう言い返した。
「甘ったれるな! お前は、ベンチで応援でもしてろ!」
昨日までの練習は、なんだったのだ。僕が肩を落とすと、住田さんが宥めに来た。
「山岸、落ち着け! 監督にも考えがあってのことだ」
「でも、住田さん……」
住田さんはそれ以上、何も言わなかった。
「よし、出発するぞ! マイクロバスに乗り込め」
「はい!」
監督がそう言うと、メンバーはマイクロバスに乗り込んだ。
「なんでだよ……」
一人部室に残された僕がそう言うと、後ろから千秋が話し掛けてきた。
「蓮ちゃん、元気だして……私、応援してるから。……先……行ってるね」
慰めなんていらない。今は、そっとしておいて欲しかった。
◇◇◇◇◇◇
マイクロバスが出発すると、車内は緊迫した空気に包まれていた。
この試合に勝利すれば、ベスト4。明秋野球部始まって以来の快挙だ。
そんな中、隣に座った住田さんが、僕に話し掛けてきた。
「山岸、納得いかないか? でも、監督を信じろ」
「あの人は……監督は、何者何ですか?」
「監督はな、かつて山吹高校でエースで四番、三年連続甲子園に導いた伝説の人だ」
「三年連続?」
僕は、思わず聞き返した。更に、住田さんは続ける。
「そう、三年連続だ。だがな、三年連続初戦敗退……しかし、監督は甲子園に伝説を残した。三年間、一度も打たせてもらえなかったんだ。この意味がわかるか? 監督は全国でもトップクラスの強打者だった故に、他校のピッチャーは一度も勝負せず、敬遠したんだ……」
住田さんは一通り話すと、流れる景色に一旦目をやった。
「そんなことがあったんですか……。でも、何でそんな凄い人が明秋野球部の監督に?」
僕は脳内で話を纏めながら、核心に迫る質問をした。
「詳しいことはわからんが、校長と監督は古くからの友人らしい。教員を辞めた後、定職に就かず飲んだくれている監督を見るに見かねて、臨時で雇ったみたいなんだ。俺の知っているのは、ここまでだ」
僕が想像していたより監督は、不運な人生を歩んでいた。
三年間、全打席敬遠されたら、どんな気持ちになるだろうか?
考えただけでも、切なくなる。
――監督を信じてみよう――
僕はそう思った。
◇◇◇◇◇◇
そうこうしている間に、バスは市民球場に到着した。整備も終わり、球場周辺は真新しいアスファルトと草花が彩りを飾っていた。
それに沢山の人だかり……やはり準々決勝まで勝ち上がると、観客の人数は桁違いだ。
ジリジリと照り付ける日差しと、観客の間を掻き分けロッカールームへと急ぐ。中は程よく冷房が効いていて、汗も引っ込む。
一息つきトイレに行くと、他校の選手と鉢合わせになった。ユニフォーム前面に赤く刺繍された文字は『聖新』と施されている。スラッとした長身で、見た目も爽やかだ。
僕は対戦相手の聖新学院の選手と知った上で、挨拶した。
「今日は、宜しくお願いします」
「あぁ、君は明秋高校だね。宜しく。いい試合になるといいね」
その口調は嫌味がなく、好感が持てた。
「それじゃ、後で」
その聖新学院の選手が、僕に背中を向ける。そこには、エースナンバーを意味する『1』と、記されていた。
「アイツが本庄……」
僕は唇をキュッと、噛んだ。