秘密の特訓
「千秋ちゃん……本当に俺でいいのか?」
「うん……」
「やったぜ! 聞いたか山岸、遂に彼女が出来たぜ」
「あぁ……内藤も千秋も良かったな」
胸を締め付けられる思いの中、言葉を絞り出した。
『僕には野球がある』
自分にそう言い聞かせながら、茜に染まる空を見上げた。後悔しないかと言えば嘘になる。だが、僕には何の権利もない。そう、何の権利も……。
◇◇◇◇◇◇
翌日、練習は休みだったが、僕はグランドに来ていた。もちろん、スライダーを習得する為だ。
少し遅れて、内藤と千秋が現れた。仲良く手を繋ぎ、早くも僕に見せ付けてくる。
二人の距離に初々しさを感じるが、確実に前へ進んでいるようだ。
千秋はベンチの右端にちょこんと座り、僕達の練習風景を眺めていた。
――ズバン――
「だいぶ、形になってきたな。その調子だ」
昨日より右足の腫れも引き、今日は球が走っているように感じた。受ける内藤も、肌で感じているのだろう。
しかし、そんな僕達に野次を飛ばしてくる輩がいた。初めのうちは遠くで言い放っていたが、次第に近付いて来る。
「駄目だ、駄目だ。何だ、そのへっぴり腰は!」
その男は全身黒いスウェット姿で、焼酎を片手に怒号を上げる。
年は、四十代といったところか。
遂には、無視をする僕の横にやって来た。明らかに酒臭く、不審な人物だ。
「あの……ここは学校ですよ」
僕はその男に言ってやった。そう言えば、退散すると思ったからだ。
しかし、男は言う。
「そんなことは、わかってる。ワシはこの野球部の顧問だからな」
「顧問? つまり監督ということですか?」
「そう言うことだ。ワシの名は『二階堂(にかいどう』。お前が住田の言っていた山岸か?」
「そうですけど……」
「生意気だな。甲子園を、舐めてるとしか思えない」
その言葉に、僕はカチンと来た。第一、今まで一回たりとも姿を現さないで、生意気だとか甲子園を舐めてるとか言われなくない。
監督だと言うのも、怪しいくらいだ。
そう思った僕に、二階堂は更に言い添えた。
「お前は、何故今まで姿を現さなかった……と、言いたいんだろう。教えてやろう。廃部寸前のやる気のない野球部に、手を貸すほどワシは暇じゃないんだ」
その言葉を聞いて、更に腹が立ち二階堂を睨み付けた。
「ほう……大した度胸だ。なら、投げてみろ! ワシが打ってやる」
二階堂はそう言うと、ベンチ脇にあった古い木製のバットを手にした。一部始終を聞いていた内藤は、マウンドに駆け寄る。
「どうなってんだよ」
「とりあえず、あの二階堂って男を黙らせるしかない。全力でいく」
「何、ゴタゴタ喋ってんだ。早くしろ!」
二階堂……何処までも腹の立つ男である。僕は渾身の力を込め、決め球であるスプリットを投げ込んだ。
――カァァァン――
木製バット独特の甲高い音が鳴り響くと、ボールはそのままスタンドに吸い込まれていった。
「これで、わかったか? お前のフォームには癖がある。それを見破られたら、スプリットだろうがスライダーだろうが間違いなく打たれる……」
自分でも気付いていた癖を、この二階堂という男は瞬時に見破った。
「貴方は一体……」
僕がそう言うも、二階堂はそそくさとバックネット裏に歩いていった。
「おい、いいぞ。こっちに来い!」
誰かを手招きし、グランドに呼び込んだ。そこに現れたのは、一度見たら忘れないゴツい体型の持ち主。
――藤堂だ。
「こいつがな、お前達の力になりたいんだとよ」
「久しぶりだな、山岸。とにかく、お前らには聖新学院に勝ってもらいたい」
藤堂の話では、以前、聖新学院の左腕本庄に、コテンパンにやられたとのことだ。だから、その仇をとってもらいたいらしい。
「藤堂……手を貸してくれるのか?」
「山岸、勘違いするなよ。俺はあの本庄って男が気に食わないだけだ。それに、お前を攻略するいい機会だ」
あの藤堂さえも手玉に取る、聖新学院の本庄。僕は、絶対に負けたくないと思った。
「ぐずぐずしてないで、やるぞ!」
二階堂はしびれを切らして、怒号を上げる。それに対して僕は、『はい、監督』と答えた。
「おぉ? やっとワシを監督と認めたか。それじゃ、始めるぞ! 藤堂は、打席に立て。遠慮なく打ち返せ。山岸……お前はスライダーだけを投げろ、いいな?」
こうして、秘密の特訓は始まった。
――キィィィン――
「甘い! もっと腕を伸ばせ!」
「はい!」
日が沈み掛けても、練習は続いた。
「はぁ……はぁ……」
「どうした? もう終わりか?」
「まだ、やれます!」
「いい返事だ。ところで藤堂。山岸のスライダーは、本庄と比べるとどうだ?」
「そうですね……いまいちキレがないです。本庄の高速スライダーは、直球にしか見えませんからね」
「聞いたか? 山岸! 今度は下半身を意識して投げてみろ!」
「はい!」
この時、僕は気付いていなかった。藤堂の分析と、監督の的確なアドバイスのお陰で、以前より能力が大幅に向上していることを。
――ズバン――
「はぁ……はぁ……やった……やったぞ」
僕は遂に、スライダーで藤堂を三振に切って取った。
「俺の負けだ」
藤堂はそう言うと、背中を向け帰っていった。
「ありがとう……藤堂」
届かない感謝の言葉を、僕は囁いた。
そして翌日、運命の戦いが待ち受けていた。