反撃の狼煙
「お疲れ……はい、スポーツドリンク」
ベンチに戻ると千秋が、汗だくの僕にタオルと飲み物を差し出してくれた。
ピッチングのことには、何も触れないことが逆に申し訳ないと感じる。
普段なら、『もう、蓮ちゃんしっかりしてよね~』とか言ってくるのに、今日はこの優しさだ。耐えきれぬ空気を覆す為に、わざと憎まれ口を聞いた。
「千秋……何も言わないのか?」
「何が?」
千秋は首を傾げながら、僕の目を見つめる。
「だから……今日の僕のピッチングを……」
「そんなに自分を責めないで……蓮ちゃんは、頑張っているよ。それは私が一番わかってる……あっ、変な意味じゃないからね。暑い、暑い」
千秋は真っ赤に染まった頬を冷やすように、両手を団扇に見立て扇いだ。
「さぁ、この回は市原からだ。応援しよう……」
僕は話を誤魔化すように、そう言った。
何故だろうか? 普段より千秋が可愛く見えて、胸がドキドキする。
幼い時からいつも千秋が傍にいるのが当たり前で、こんな感情を抱くのは初めてだった。
◇◇◇◇◇◇
右の打席には、市原がバットを構える。
――カキィィン――
それは初球だった。
打った瞬間、長打になるとわかる当たり。打球は、左中間を切り裂きグングンと伸びて、観客も疎らなスタンドに吸い込まれていった。
この一撃で明秋高校ベンチは、大いに沸いた。
市原はガッツポーズを僕達に見せながら、悠々とダイヤモンドを一周する。皆でホームインする市原を待ち構え、ヘルメットを叩きながら揉みくちゃにした。
「市原!」
僕がその名を呼ぶと、市原は高々と右手を挙げた。
――パシッ――
これが市原と初めてのハイタッチだった。かつて内藤を巻き込み、グレていたとは思えないほど、純粋で清々しい笑顔はチームに流れていた『負の風』を消し飛ばしてくれた。
だが、試合は1-2でまだ劣勢……喜んでばかりはいられない。
これに続けと言わんばかりに、ツーエンドツーから神田さんがセンター前に弾き返し、出塁する。手堅く石塚さんがバントで送り、ワンナウト二塁。
一打同点のチャンスが巡って来た。
続くバッターは東海林さんだ。こう言ってはなんだが、東海林さんは野球部の中でも能力の低い選手である。
しかし、その分誰よりも努力家で、一切の妥協を許さない人だ。僕達一年生にも厳しかったが、何より自分に厳しかった。
そんな東海林さんだから、このチャンスを絶対にモノに出来ると僕は信じていた。
「東海林さん、お願いします」
僕がそう言うと、元々細い目を更に細めた。
右バッターボックスに入る東海林さんのバッティングは、決して器用なものではない。
――カツッン――
もう何度目だろうか? 東海林さんは、ピッチャーの投げるボールに必死に食らい付き、ファールで粘っていた。
「バッターしぶといぞ」
観客からのブーイングも気にせず、ひたすらタイミングを合わせる。
――ガシャン――
「ファールボール」
何度もバックネットの網に白球が突き刺さる。
そして十球目、遂に甘い球が舞い込んできた。
――キィィィン――
痛烈な当たりではないが、ライト線を破る一打だ。
打球を見届け神田さんは三塁を回り、ホームを目指した。
ボールはファーストに渡り、神田さんが目指すホームへ投げられた。
「戻れ――っ!」
足の遅い神田さんでは、厳しいボール位置だ。しかし、神田さんは僕達の忠告を聞かずホームへと体を投げ出した。
相手キャッチャーのミットにも、しっかりとボールは収まっている。
――まさに、紙一重……。
けたたましく舞い上がった砂埃を、風がさらっていく。神田さんは、うつ伏せのまま審判を見上げた。
「…………セーフ!」
「よっしゃ! 同点だ!」
神田さんは軽やかに起き上がり、砂にまみれたユニフォームのままガッツポーズをした。
その間に、打った東海林さんは二塁に進み、反撃はまだ終わらない。
東海林さんと神田さんの活躍で、流れは明秋に変わりつつあった。