エースの自覚
ツーアウト一、三塁。
木下さんとの蟠りが消えないまま、尚もピンチは続く。
右のバッターボックスには、佐伯兄弟の弟一樹が入る。
バットを短く持ち、前傾姿勢の独特の構えだ。
ランナーを警戒しがら、直球で内角低めに決める。その構えに遮られ、ストライクゾーンが狭く感じられる。
――もう……一点もやれない――
そんな焦りからか、続く二球目は高めに浮いてしまった。当然、佐伯弟が見逃すはずもなく、コンパクトなスイングで当てに来た。
――キィィン――
思いの外、速い打球は、ボールは三遊間を抜けていった。
「回れ、回れ――っ!」
三塁コーチャーが腕をグルグル回す。レフトの東海林さんが懸命にバックホームするも、三塁ランナーは既にホームに帰った後だった。
これで得点は0-2。尚もランナー一、二塁で続くバッターは、佐伯兄一馬。
「兄貴~! 頼んだぜ」
一塁ランナーの佐伯弟が、ガッツポーズを繰り出す。
二点を許し、苦しい場面だ。更に東城高専を鼓舞するかのように、スタンドのブラスバンドや、応援の声が大きくなっていく。
そんな中、佐伯兄が左打席に入る。
「く、くそぉ……」
些細なことがきっかけでピンチを招き、エースとしての自覚さえも破壊するほどの重圧が重くのし掛かってきていた。
――挫けそうだった。
――逃げ出したくなった。
――無力さを感じた。
劣等感……その言葉が僕を締め付け、全身に力が入らないほど憔悴しきった。
「うぐっ……」
一瞬、鳩尾に衝撃が走り、目の前が暗くなった。
――な、何だ? この痛みは? ――
「余計なこと考えて、格好つけんじゃねぇよ。内藤を俺らから救ったお前は、そんな中途半端な奴じゃなかった筈だ! 目を覚ませ」
僕の鳩尾に一撃を喰らわした主は、市原だった。
「い、市原……」
「アイツは、佐伯兄弟は只者じゃない。中学の時、一度だけ奴らの学校と対戦したことがあるが、実力は本物だ。嘘だと思うなら、後でプレートを見ればいいさ。山岸……ここは、敬遠だ」
「敬遠?」
「俺もその考えに賛成だな……」
「鈴木さん……」
敬遠……僕の中でその選択肢はなかった。ピッチャーとして最も屈辱で、最も格好悪いと認識していたからだ。
そこへ内藤も駆け寄る。
「話は纏まったか? 敬遠……するんだろ?」
どうやら内藤も同じ考えらしい……。
「わかった……敬遠しよう」
これは勝つためだ。余計なプライドはいらない。怪我で出場出来ない住田さんの為にも、住田さんの妹の未来ちゃんの為にも、負けられない……。
そして、試合は再開された。
内藤は立ち上がり、右打席付近で両手を広げる。
――バシッ――
大きく反れたボールが、内藤のミットに吸い込まれる。途端にスタンドからは、ブーイングの嵐だ。
「おい、ピッチャー舐めてんのか!」
「勝負しろよ! ビビってんのか?」
一球ごとに、心ない言葉が僕を攻撃した。四球反れたボールを見届けると、佐伯兄はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、一塁へと歩く。
これでツーアウトフルベース、内野は前進守備に切り替わる。
「ふぅ……」
僕は両手を広げ、深呼吸した。それはさっきまでのネガティブな感情を、洗い流す意味での深呼吸だ。
敬遠……終わってみればどうということはない。むしろ清々しく、投手として一度は越えなくてはならない試練を、克服したかのようにも思えた。
指先を通して、ボールに熱い思いが伝わる。
「僕は……僕は、明秋高校野球部のエースだ!」
セットポジションからの構え……ランナーに睨みをきかせ、少しのリードも許さない。
「ふぅん」
――ズバン――
「ストライク!」
その一球を見て、一時的に東城高専の応援が止む。
――ズバン――
「ストライクツー!」
更に一定のリズムで、三球目を投げる。もちろん、決め球のスプリットだ。通常、このような場面ではパスボールを恐れ、スプリットのような『落ちる球』は回避したいところだが、内藤はそれを要求してきた。そして、僕もそれに答えた。
――ズバン――
「ストライク、バッターアウト!」
東城高専のスタンドの応援が、溜め息に変わる。
「さぁ……反撃だ!」
僕はベンチへと駆け出した。