譲れぬ思い
僕の返答を待ちわびて住田さんは、静かに目を閉じる。喉の奥まで言葉が来ているのだが、そこから先がなかなか出て来なかった。
そんな僕に住田さんは、こんな話をした。
◇◇◇◇◇◇
「お兄ちゃん、行ってらっしゃい……けほっ、けほっ」
「未来、寝てなきゃ駄目じゃないか?」
「だって……」
それはいつもの光景だった。
俺には十歳離れた妹がいる。未来は生まれつき病弱で、家で過ごすことが多かった。
体の調子がいいと、こうして学校へ行く俺を必ず見送ってくれたのだ。嬉しい反面、未来に何もしてあげられない自分が不甲斐なかった。
俺が高校に入学して野球部に入部すると、未来はこんな質問をしてきた。
「お兄ちゃん、やきゅうっておもしろい? お兄ちゃんも、こうしえんにいくの?」
何処で覚えてきたのか、そんな質問を俺に投げ掛けて来た。
「あぁ、面白いよ。兄ちゃん……野球頑張って……必ず甲子園に行くからな……そうしたら、応援に来てくれるか?」
震える声を抑えながら、俺は未来にそう返した。未来は満面の笑みを浮かべながら『うん』と答えた。
そして俺が甲子園に行けるように、毎日折り鶴を一羽ずつ折ってくれるようになった。今ではその折り鶴も、千羽近くになり未来の体調もだいぶ良くなって来た。
◇◇◇◇◇◇
一通り話し終えると住田さんは、静かに目を開けた。
「なぁ……頼む、山岸……。甲子園は、俺の夢でもあり、未来の夢でもあるんだ……。私的な感情だとわかっている……。一度は諦めた夢……でも、逃したくないんだ、最後のチャンスを……。頼む…………」
住田さんは、人目を憚らず涙を流した。
「わかりました。住田さん、顔を上げて下さい……。何処まで出来るかわかりませんが、キャプテン代理……お受けします」
「ありがとう……ありがとう……」
住田さんそう言うと泣き疲れたのか、そのまま眠りに就いた。
病院の外に出ると、太陽は既に高い位置にあった。
眩しい陽射しを浴びながら僕は、唇をキュッと噛んだ後、誓った。
「絶対に、負けない……」
◇◇◇◇◇◇
午後からの試合を前に部室に集まり、メンバーに僕がキャプテン代理を任されたこと告げると、快く承諾してくれた。戸惑いはあったが、佳奈さんがフォローしてくれたことで自信に繋がっていった。
「さ~て、今日の相手東城高専だけど、調べた結果力の差はないはずよ。ただ一つ忠告しておくわ。東城高専には、一年と二年に『佐伯兄弟』がいるわ。兄の一馬はショートで、弟の一樹はセカンド。二人とも守備がピカイチで、足を使った攻撃を得意とするわ。要注意人物ね……」
さすが佳奈さんだ。この限られた日数で、そこまで調べあげるとは……。僕は佳奈さんを、尊敬の眼差しで見つめた。
「痛てて……」
鼻の下を伸ばしている僕の左足を、千秋が踏みつける。
「な、なんだよ」
「ふん……」
何故か千秋は膨れっ面で、怒っていた。
◇◇◇◇◇◇
そして僕達は敵地へと乗り込んだ。
今日は市民球場が整備により使用出来ない為、東城高専のグランドで試合することになっていたのだ。
スタンドには平日にも関わらず、沢山の人で埋め尽くされていた。
なんでも佐伯兄弟は甘いマスクの持ち主で、ミーハーなファンの女の子達が詰め掛けているとのことだ。
「羨ましい……」
内藤が思わず口にすると、『すげぇ、女の子いっぱいだ』などと、五十嵐さんと鈴木さんも同調する。
「大事な試合なんですよ、しっかりして下さい」
僕は住田さんの代わりに、内藤と二人の先輩に注意した。キャプテンを任されたとは言え、先輩方を注意するのは抵抗があったが、これもチームの為と思い責務をこなした。
グランドの整備が終了し、僕達は三塁側ベンチに腰を据えた。今回は先行だ。
先ほど僕が『渇』を入れた所為か、ベンチでは皆気合いが入る。
「それでは打順と守備を発表します」
住田さんから預かったメモを広げる。
「一番ピッチャー、僕。二番、セカンド鈴木さん」
「よっしゃ! やってやるぜ!」
「三番キャッチャー、内藤」
「任せておけ!」
「四番……ファースト市原」
「俺でいいのか?」
「うん、住田さんが決めたことだ。五番ショート神田さん」
「久々の内野かよ~」
「六番、ライト石塚さん」
「チッ、ライトか……」
「七番、レフト東海林さん」
「了解、了解~」
「八番、センター五十嵐さん」
「当然だな」
「九番、サード木下さん。木下さんには、後で抑えに回ってもらうかも知れません」
「わかった……」
「今日は住田さんが居ないので、僕達だけで頑張りましょう。さぁ、皆で円陣を組みますよ」
僕達は、住田さんがいつもやっている円陣を組んだ。
「明秋高校――っ! ファイト――っ!」
やってはみたものの、やはり住田さんが居ないと締まらない。若干落ち込んでいると、千秋がそれを察知して慰めてくれた。
「蓮ちゃんは、蓮ちゃんらしくやればいいじゃない」
確かにそうだ。僕は住田さんじゃない。僕は僕なりにやればいい。千秋の言葉で、強くなれた。
「ありがとう、千秋」
「どういたしまして。テヘッ」
ウォーミングアップも済ませ、『整列』の合図が掛かる。
「行くぞ!」
「オォォォ!」
僕達は勢いよくホームベースに駆け出した。
補足
高校野球では、必ずしも一塁側が後攻とは限りません。
先行後攻は、第一試合なら三十分ほど前、後は前の試合の五回以降にジャンケンで決めます。