鮮烈デビュー
1-0のまま試合は進み、五回の裏ツーアウトながら、ランナー三塁。我が明秋高校に、絶好のチャンスが巡って来た。
以前大敗した練習試合と異なり、これ程の投手戦を誰が予想出来たであろうか? 少なくても僕は、正直ここまで戦えるとは思わなかった。
三塁ランナーは、俊足の五十嵐さん。バッターは木下さん。
僕はその様子をネクストバッターサークルで、固唾を飲んで見守った。
ここまでの投手戦だ。終盤にかけて、この一点が大事なのは誰が考えてもわかること。
「木下さん、繋げて下さい」
僕がそう言うと、木下さんは無言のまま右手を軽く挙げる。
その姿から、疲労が伺えた。
それもそのはず、宿敵成南打線を五回まで、0点に抑えていたのだから。本来なら労いの言葉の一つも掛けたい所だが、今ここで気を抜けば次の回に影響が出る。だからあえて僕は、プレッシャーにも似た言葉を掛けたのだ。
木下さんは、右バッターボックスで、深く息を吸い込む。それまで吹いていた風が、ピタリと止んだ。
成南のピッチャーは、セットポジションから三塁の五十嵐さんを警戒した後、早いモーションで、投げ込む。
初球は内角低めに決まりストライク。相変わらず球威は衰えない。敵ながらそのタフさは、見習うものがある。
続く二球目は大きく外角高めに外れボール。カウント、ワンストライクワンボール。
三塁ランナーの五十嵐さんは、両腕を振り子のようにブラブラさせる。その姿は、ホームを狙うスナイパーのようだ。
成南のピッチャーは、挑発する五十嵐さんをかなり嫌がっていた。その証拠に、五十嵐さんが三塁に滞在してから、五回もの牽制球を投げていたのである。
成南のピッチャーはようやく三球目を投げ込む。
――ドフッ――
高めに浮いた球は、木下さんの左腕を直撃した。
「うぐぐ……」
木下さんは左腕を抑えながら、バッターボックスに座り込んだ。
「木下――っ! 大丈夫か?」
声を荒げながら、ベンチから住田さんが飛び出す。必死に痛みに堪える木下さんの腕に、僕は冷却スプレーを吹き付けた。
「すまない……山岸。キャプテン、大丈夫です」
成南のピッチャーは、帽子を取り一礼する。木下さんは、左腕を庇いながらも一塁へと歩いた。
ピッチャーである木下さんへの死球は、運命を左右する。仮に木下さんが負傷して投げれなくなったら、代わりはいないのだ。
いや、木下さんだけではない。明秋は、誰一人欠けてもいけない。欠けた時点で、試合放棄しなくてはいけないのだ。
そんな恐怖を覚えた瞬間であった。
ツーアウト一、三塁。またとないチャンスで、打順は僕に回って来た。
バッターボックスに向かおうとする僕に、住田さんは言う。
「とにかく、塁に出ろ」
僕は『わかりました』とだけ告げ、バットを構える。
住田さんの考えは恐らく、コントロールの乱れ始めた相手ピッチャーの制球を見極め、四球でも塁に出ろと言うことだ。
しかし、せっかくのチャンス、まして相手ピッチャーのタイミングにようやく慣れて来た頃だ。住田さんの考えと真逆に、僕は積極的にバットを振っていきたいと考えた。
――ザッザァ――
左バッターボックスで、土の感触を確かめる。スパイクから伝わる、大地の鼓動……。
――いける、いけるぞ――
ただバットを構えただけだったが、大地から伝わる力、僕の隙間を通り抜ける風でさえ味方になってるように感じた。ギュッと、グリップを握る。
相手ピッチャーは、セットポジションから素早く腕を振り抜いた。
――キィィィィィン――
初球だった。
甘めにストライクゾーンに入って来た球を、素直にセンターに弾き返したのだ。
三塁ランナーの五十嵐さんがホームを踏み2-0。
欲しかった追加点がようやく入ったのだ。
僕は思わず一塁ベース上で、ガッツポーズをして見せた。ベンチの佳奈さんと千秋は、手を叩き喜んでくれた。それを見て再び左拳を突き上げる。
ツーアウト一、二塁。まだチャンスは続いている。
ここで成南はタイムを取り、内野陣が集まる。ベンチに動きはない。
『交代はないな』
僕は一塁から見て、そう思った。
予想通り交代はなく、成南内野陣は再び守備につく。
続く二番の鈴木さんがキャッチャーフライに倒れ、この回は一点にとどまり回は六回表に突入した。
守備につこうとした僕に住田さんが言う。
「何故、俺の話を無視した。俺は、塁に出ろと言った筈だ! 初球から当てにいけなんて言った覚えないぞ」
住田さんは僕の肩を掴み上げ、凄い剣幕で激怒した。比較的温厚な住田さんが、そこまでの表情をまさか見せるとは思わなかった。
ベンチから佳奈さんが、駆け寄る。
「キャプテン、許してあげて」
「お前は黙ってろ! 俺は山岸に言ってるんだ!」
野球は個人技ではない。特に高校野球は、チームワークが勝敗を左右することも少なくない。そんなことはわかっている。
しかし、時として個人技も必要なのではないかと思い、僕はどうしても謝ることが出来なかった。
そりゃ、一応先輩だし、キャプテンだから『すみませんでした』と頭は下げたが、本心ではなかった。
モヤモヤとしたままサードの守備につく。
「さぁ、この回が大事だ。締まっていくぞ!」
住田さんが内野陣を鼓舞するかのように、声を出す。
それに答えるように、僕達も声を出した。
この回、成南は一番からの好打順。警戒しなくてならなかった。
しかし、勝利を意識し始めた所為か、何でもないセカンドゴロを、鈴木さんはお手玉してしまった。先頭打者を出塁させたくない場面でのエラーだ。
続く打者は、手堅くバントで送り、ワンナウト二塁。一点もやれない場面でのピンチだ。
これまでも毎回ランナーを背負いながらも好投球をして来た木下さんだったが、今の投球で百球を越え、疲れはピークに達していた。その疲れが、次の打者にモロに出てしまった。
甘いコースに入った球は、レフト前に落とされ、その間に二塁ランナーがホームイン。遂に、一点を許してしまったのである。
木下さんを中心に内野陣が集まる。そこで木下さんは、耳を疑うほどの驚きの発言をした。
「俺の役目はここまでだ。キャプテン、予定通り山岸を……」
「僕? どういうことですか? 山下さん、住田さん?」
状況が掴めず、僕は二人を問い質した。
「山岸……木下に代わって、お前に投げてもらう」
確かに僕は、密かにピッチングの練習を積んで来た。しかし、この状況下で、チームを背負うのは荷が重すぎる。
「山岸……お前しかいないんだ。やっと掴み掛けた夏……終わらせたくないんだ……頼む……」
住田さんと木下さんは、人目を憚らずマウンド上で頭を下げた。
「二人とも、頭を上げて下さい。何処まで出来るかわかりませんが、やってみます」
僕はこの試合に勝つ為に、チームの為に投げることを決心した。
「ピッチャー、木下に代わって山岸で」
住田さんは、審判にそう告げた。マウンドからの景色……サードからとはまた違う景色。視線の先には内藤が、ミットを構える。
遂にこの時が来たのだと、僕は思った。
六回の表、ワンナウト一塁。
2-1。
僕がピッチャーとしてデビューした瞬間だった。