第二章 capter-2 イフリート(3)
次の日、学食で何とも形容しがたい味のモンブランラーメンを食べた後、須賀谷と順は小トレーニング室をもう一度借りて、剣の特訓をしていた。
特訓なんて時代じゃないなんていうが、徹底的に鍛えた量産機はワンオフに勝ると言う言葉を受けて俺は必死に喰らいついていた。
「その程度ではなぁ……甘いんだよ、士亜ッ! そんな気迫で私が倒せると考えているのかっ!? 漫然と攻撃をしたくらいで敵を倒せると思ったら大間違いだ!」
「ぐぉぁっ!?」
須賀谷は罵声と共に肩を刃引きの剣の腹で叩かれて、跳ね飛ばされては膝をつく。
今度は自分と同じくマクシミリアン甲冑の装備をしていた順だが、須賀谷にとっては前回よりもさらに強くも感じた。……あるいは、前には手加減をしていたのではないかと思えるくらいであった。
「ぜぇっ……はぁっ……」
こちらは重量鎧でタマチルツルギを振り回し息切れをしているのに、順は疲れた素振りもない。まさに鬼だ。なんて事だ。
――順の剣技の腕前は非常に高く、何やら話すところによると剣だけでなく斧や槍の扱い方をも小さい頃から叩き込まれていたらしい。
「その首をっ、覚悟っ! うぉぉぉっ!」
「遅いってんだよ! その速度ではカウンターを食らうぞ!」
斬撃を繰り出すと、弾かれる。突きを繰り出すと、いなされる。
「まだまだだぁぁぁぁぁ!」
「せやぁ!」
「太刀筋はいいが踏み込みも威力も足りん! 出直してこい!」
此方が先制攻撃を仕掛けようとすると圧倒的な後の先を決められ、逆に待ちの体勢に入っても神速で先に動かれて一本を取られたりと、須賀谷は先程から散々にずっと翻弄をされてばかりであった。
「おい、どうした、もう終わりか?」
「終わりでは……無い! ……だが……一体俺には……、何が足りないってんだ……!?」
――流石に何度も何度も吹き飛ばされ続け、スタミナ切れになって剣を地面に一旦置く。40分程負け続けて、須賀谷はいてもたってもいられなくなって順に頭を下げて訊ねた。
疑問にも思う、というか納得がいかない。練習とはいえ圧倒的に決められるのは面白くも無い。
「訊きたいのか? ……訊いてどうする?」
「直す……に、きまっている……! ……勿……論だ……」
須賀谷は肩で息をしながらも頷く。脳に酸素が足りない。立っているのも辛い。
……すると順は、ふぅんと鼻を鳴らして応え始める。
「あぁ、まずは最初に、身体作りと運動神経だ。そもそも基礎身体力が、私とお前では違うというのがあるな。……私が幾ら鈍っていたからとはいえ、いきなり士亜が私に勝とうというのはそう簡単には出来る訳がない。むしろ落石を叩き割ったり魔法の絨毯に追われながら必死に持久力を付けるなどという特訓を昔していた私の立つ瀬がないだろう」
……分かり切った当然の答えが返ってきた。咄嗟にリアクションが取れずに僅かに、沈黙する。
「……それじゃ……俺じゃぁ……何をしたって絶対に順に勝てないに決まっているじゃないか」
流石に一日で順を乗り越えられるとは思ってはいないが、理不尽を強いるのかよと、そう思う。
「――まだ話は終わってない、息を整えて最後まで聞け。お前には私の発想に無い意味不明なパンチとかその剣を生かした戦法が有るだろう。それに高速戦闘に目も慣れれば、多少は強くはなる。……経験と努力はけして、無駄ではないのだ」
すると順はコホンと咳払いを一つして、話を続けてきた。
「それに今のお前に必要なのは、兵法や戦術よりも、もっと自分を前に押し出した所謂ハングリーさを示す心であると、私は思うのだよ」
そして、こう会話を繋げてきた。
「……ハングリー……さ? 何なんだ……それは?」
どういう事だと須賀谷は疑問に思って、順にまた訊ねる。少しずつ息が回復しつつあり、何とか現在進行でまともな会話が出来るレベルになってきた。
「……士亜、お前からは対峙をしていて情熱や意欲というものが感じられるが、残念ながら恐さというものは微塵にも感じられないんだよ。見た感じでは潜在能力は相当眠ってはいそうではあるがな」
すると順は、こちらの目を見ながらも語ってきた。
「へぇ……」
「私が求めているのは生の感情なんだ。本能的な怒りや感情の塊と言うものだな。お前は根が優しいようだから周囲の視線に遠慮をしてるのかもしれないが、それではだめだ。私を本気で殺すつもりでかかってこい」
そして順は、少し考えた後にジェスチャーを交えながらもこう説明を続ける。
「結構口が悪く思えるが……暴力的とか……言い変えるとそういった事なのか?」
「……近いかも、知れないな。勝ちたいのなら、逝かれろ。何度倒れようと何が何でも喉笛に噛み付き、喰い千切る位の気持ちで行け」
「……何だか、物騒だな」
須賀谷は言葉を聴き口を挟むように苦笑いをした。しかし順は、こちらの言葉に対し至って真面目な顔で返事をしてくる。
「いや、これは案外私は本気で言っている事だぞ。……何もしなくても技術や戦闘能力が湧いて出てくるような超人でなければ、日々努力したり上を見て自分も強くなりたいと思って必死に修練をするしかないのだ。そしてその努力する時にこの飢餓と憎悪にも似た心を発現させる事で、人は一気に力が跳ね上がると私は考えている。……守りたいものを守る為にとか、何が何でも意地に代えて相手を倒すとかいう感情がな」
「……そうか、負の感情と言う奴なのか?」
「そもそも負と決めつけるのでさえも個人的には早計だと思うが、言いかえれば魔術的な技術としては暗黒とも言える。憎悪を糧とした思いの力による補正、そのような事だ。夢を叶えたり才能に溢れた人間は生きる『理由』という物がある。だが、それが抜けた人間がその部分を埋めるには心意気しかないのだよ。アタッカーと化すなら周りに無い何かの能力を人に有無を言わさない程に徹底的に尖らせて、一撃必殺で仕留めるくらいでなければならんのだ。……まぁ無論、これは基本ができた上での事だがな。基本のなってない騎士が翼竜を相手に戦ったら、即死をするのは明白だ」
「……でも、何かに対して特化しているって事は別の意味じゃあるものには最も弱いって事になるじゃないか」
中々に参考になる話だが、しかしこちらは言葉が腑に落ちないので反論をする。
「……そうだな。だが、平均的な人間は、この学校じゃ全く浮かばれんぞ」
だがそれに対し順は眉を顰めて、告げてきた。
「よく周りを見て深く冷静に考えてみるがいい。……器用万能ならば周囲にちやほやされるだろうが、器用貧乏じゃこの世界にはありふれている。……それならば私のようにいっそ世間様から奇人扱いでも、魔法を強化魔法以外大半捨ててまでの接近戦超特化な人間の方がまだいいだろうよという事だ」
続けて力説をしてくる。
「つまり、量産型は嫌いだって事か?」
「そう言う事だ。特進Bはまだしも大会で一線級のAクラスとやり合うには相応の抜きん出た力が必要だ。お前にしか出来ない事も、あるはずだしな」
――妙に、説得力のある話だ。
「――つまりはだ。私が言いたいのは勝ちたければ常軌を逸しろという事だ。……正統な連携が下手糞ならば個人技を徹底的に磨くしかないんだよ。……屈折した人間ってのはなぁ、こうでもなければ表に出る事が許されない。……私でさえお前に説得された今でも負の念は渦巻いている、だがそこを胸の中に押し込めてリベンジ欲に昇華させているんだからな」
順はそこまで言い終えて自分の髪を、掻きあげた。
「――誰にも文句を言われない人間というのは無理だ。世界には脳内達人も居るからな。……事実、私が一番の時にも周囲は良い目を向けてくる人間は少なかった。……社会学のダリゼルディスも初の授業で言っているだろう、どんな聖人でも人に嫌われない訳が無い、とな。……ましてや人格破綻の上にただの人間である私が人に嫌われるのは当然だ、そうだろう?」
「……あぁ」
意見に対しもっともだと思いぼそりと呟いた。
「……おい、そこでフォローはしないのかよ、流石に傷付くぞ」
ところが順は、須賀谷が自分の出した洒落を無視して否定しなかったのが苛立ったのか、不機嫌そうな表情をしてきた。どうやら、自虐に対し自分は嫌われてないと言って欲しかったようだ。
「――ん……あぁ、すまない」
それに対しすぐに返事を返し、頷いて誤魔化した。フォローをしなければ。
「……全く、気を使えとは言わないが少しは考えて欲しくもなったぞ。……ところで士亜、人が新たな幸せを求めて行動を起こす動機付けの強さ、という公式を知っているか?」
順はそれからむぅといった顔をしたが若干思案をすると、唐突に溜息をしながら訊ねてきた。
「――いや、知らないな」
目線を合わせつつも首を横に振って、否定をする。そんな公式、知りもしないし覚えてもいない。習った覚えさえもない。
「……ほぅ。ならば言ってやるよ。……いいか? その式は現状への不平不満×結果の優位性×達成成果の見通しだよ」
順は須賀谷が応えられなかったのをみると残念そうな表情をして、そう続けた。
「……どう言う事だ?」
「私に喩えれば、不満と欲求は私を留年にした奴らに一泡吹かせる事。×結果の優位性と言えば私を叩きのめした異界の餓鬼を八つ裂きにする事、これは奴らを倒せば汚い称号が消え失せる程一気に自分の評価が劇的に上がると言う事だ。……×達成成果の見通しは今はまだ絶望である事、だ」
「……ふむぅ」
――何となく、頷きながらも感覚的に意味が分かる。
「説明が下手なのは自分でも理解しているが、分かってもらえられなければ無理に分からなくてもいい」
順はそう軽く自身の顎先を触りながら言うが、意味は此方に伝わっている。要は動機付けには先に見える光が必要だと言う事だろう。
「……でも、順の場合は……具体的な数字にしないとイマイチ分からないんじゃないのか?」
須賀谷は疑問を投げかけた。改めて考えれば正しい話だ。数値化しない公式など、実感としてさっぱり分からない。
「……それならば、3×999×0・001とでも喩えるしかないな、今のところは」
すると順は浅く顔を歪ませ、肩をすくめて溜息を付きながら吐きだしてきた。
「随分絶望的だな、今の計算からすると2・997か」
須賀谷はやれやれとしながらも、困った表情をする。
「……そうだよ、……だからこそ私は今まで感情を我慢して塞ぎこんでいたのだ。それを引き出したのが士亜、お前だから責任は取って貰うつもりだ。お前にも私と同様に、理想や目標が有るのだろう? 自分の命を賭してでも、私を引っ張り上げてまででもやりたい事がな」
そのように言い終えると順は自身の目頭を軽く擦る。そして、ゆっくりと首を曲げると、壁の時計を凝視し始めた。
……注意深く見ると彼女の表情が僅かに、疲れたようにも見えた。
辛い事を、思い出させてしまっただろうか?
そう感じ少し、反省をする。謝罪するべきだな、これは。
「――すまな……」
「謝るには及ばんよ、私が勝手にささくれているだけだ」
しかし須賀谷が謝罪を言おうとしたところで、発言が遮られる。
「それはどういう事だ?」
「かつての同級生を先輩呼ばわりしているという屈辱の事さ……私は人間として駄目なのかなってな……」
「いや、順はいい女だと、思うぞ」
「――そう言ってくれるか。有難いな。どうも話が過ぎたようだ。よくよく考えたら時間ももう遅い。……取り敢えずのところは今日はこれで終わりにしよう。解散だ」
順は壁の時計に視線を向けると急に勝手に、特訓の終了を宣言する。それからさっさと兜を脱ぐと自分のバッグのところまで歩いていき、白いタオルで顔の汗を拭き始めた。
「お……おい」
既に夕方ではあるが強引だろうと言おうとするが、またも割り込まれる。
「今日は私自身もそんなに準備をしていなかったからな。……私の身体も本調子ではないし、昨日のシステムの起動で多大な魔力と体力を使って疲れたのだ。……お前も汗を掻いたままだと風邪をひくぞ、一度シャワーに行って汗を落としてこい。じゃあな、また明日だ士亜」
順はもう一度ふぅと大きく息を吐くと須賀谷が反応を起こす前に一方的に話を打ち切り、それから女子シャワー室に向かって踵を返し去っていってしまった。
――っ。
俺は茫然と、立ち尽くしていた。今の反応は、明らかに不自然だ。
「……相手の気持ちを汲まずに、怒らせてしまったか?」
そのまま独り事を、静かに吐く。
……らしくもない。会話を打ち切らせるとはそれなりに、考えている何かが有るはずだ。
いや、だが。 今までのニリーツの例からすれば腹立たしくなれば順は暴れた筈でもある。 しかし、今の順は暴れてはいない。それならば、怒ってはいないのだろう。
……頭の中で考えた上で、そう結論を出して思いこむ事にする。
(……むぅ)
「――まぁ、気にしても今は仕方が無いか。これからまた稽古を付けて貰えるのだし、徐々に順の性格に慣れていけばいいだろう」
――躊躇をする必要は無い、発想の転換は大切だ。そこで暗い考えに陥りそうになったので、慌てて思考を断ち切った。自分の悪い癖が出る前に、そうしておくのが正解とも思えたからだ。
「……思えば、かなり俺は汗を掻いているようだな。明日も特訓はあるし、急ぐ事は無いか」
それから先程順に言われたとおりに、男子シャワー室へと向かっていった。今の環境では考えれば考える程に精神状態はマイナスに向かうので、これで良かったと思い直す事にした。
家に帰ると学校から無料で支給をされている1リットルのボトルのスポーツドリンクを開ける。
ボトルに口を付けて傾けるとブドウ糖の味が自分に染みていき、喉を満たしていくのがわかった。
「――ぷはっ」
シャワーを終えて小汚い6畳1間のアパートに帰った須賀谷は、居間兼寝室にある小さなベッドシートにへと、腰を下ろしていた。
……近くにある冷蔵庫を開けると、豆腐がある。
「貧乏生活ってのも辛いものだよなぁ……」
須賀谷は下を向き、溜息を付いた。
――98エルカタルの豆腐一丁に温泉卵。……素寒貧な自分の、今日の晩飯だ。……やはり特進から落ちたというのは、財政的にも痛かった。半期の学費、ざっと85万エルカタル。普通科では特進2と比べてたかが授業料10%増とはいえ、されど10%増である。 最近の物価高もあるし、全く貧乏人にはきつかったと思わざるを得ない。
「栄養失調で倒れなければいいんだがな……。まぁ、ヒオウまで来て天神原の豆腐を食っている以上、文句も言えんが」
順に奢って貰う事で明日の財力的には余裕が出来たものの、自分でも生活能力として少し不安に思う。
箸を出して、醤油と冷蔵庫で保存していた僅かなネギを載せて豆腐を食べ始める。
「……はぁ」
……腹もいっぱいには程遠い。言っては何だが、虚しい味だった。
須賀谷士亜という人間は、故郷を出てイフットと共にこの学園に入学をしてきた。
無論それは騎士になる為のモラトリアムではあるし、自分も卒業をしたら一介の騎士を名乗るとしか考えていない。
別に、自分は世の中全ての家族が平和なわけじゃないし豊かな生活をしているとは思ってはいない。
ただこの今現在、自分独りで静かに貧相な飯を食っていて、家に他に誰も居ないのが悲しく感じられただけであった。
独りで飯を食べ終え、ポストに入っていた公共料金の領収書を見ているとふと、なんで自分はこんな事をしているのだろうとも思えてくる。
自分の十年後に希望さえも持てない、最悪だ。
……だが、此処で歩みを止めてしまったら俺は完全に駄目になってしまうとも、同時に感じた。
――目を瞑ると脳裏にイフットが、浮かんでくる。
もう一度目を開けてさらに再度瞑ると、順が浮かんでくる。
……俺は、勝たなければならない。今弱音を吐いたら、背後の闇に呑み込まれるだけだ。
その闇の中には災厄と何処までも深い黒が沈んでいて、捕まったら最後、強制的に骨になるしかないのだ。
周りに折角背中を押してもらった以上、進むしかない。
そう思っていると小汚い沼に、身体が沈んでいくような感覚がした。
ーーと、その時。
『チーン!』
突然、台所に配置してある直通のテレポートレンジが音を立てた。
テレポートレンジとは近年世界に普及した機械で、安物は稀に爆発することもあるが高級品は指定した場所に食べ物を運ぶことが出来る優れたものだ。
「え?」
須賀谷は訝しく思い、台所に戻りレンジの扉を開け覗き込む。出前など頼んだつもりは無いのだが。
蒸気が立つ中には、暖まった二段の手造り弁当箱が入っていた。
……柄には見覚えがある。イフットのものだ。
「……イフット。……テレポート回線で送って、くれたのか?」
蓋を開けると一段目には出し巻き卵に唐揚げと豆腐ハンバーグにほうれん草の胡麻和え、そしてゆでたブロッコリーとトマトが入っている。
……どれもこれも、好物ばかりだ。
「おお……!」
さらに二段目の蓋を開けると、炊き立ての米の上に桜でんぶでハート型の模様が形作られていた。
……瞬間、目頭が熱くなる。
「こんなにご飯が嬉しい物だとは……! 頂きます!」
目の色を変えてそのまま箸を取り出し、手を付け始める。
美味い。美味しい。幾ら感謝しても足りない。米粒一つ残さず食べよう。
「やっぱり……アイツの飯はうめぇなぁ……」
米を咀嚼し飲み込むたびに、力が湧いてくる。感謝の気持ちでいっぱいだ。
俺は生きたい。まだ、俺は死にたくは無いのだ。
またイフットの横に並べる人間に、なりたい。特に苦労も無かったが辛くも無かった日々を、取り戻したい。異常に冷たい世界で黒岩田に一生馬鹿にされて見下されて膝を抱えるのなんて……嫌だ。
このまま進歩をしない人生で数年を過ぎた場合、自分に待っているのは確実な死だ。
心が渇く、辛い事なんて……絶対に認めたくもない。
少しは道が近付いたとはいえ、まだまだ未来が遠いのだ。泣き事を言う間があれば、その前に力を見せなければならないのだ。不運を嘆くような、時間はない。
「俺は……勝たなければならない……光を手に入れてやる……。このチャンスは絶対に逃さん! 待っていろ、イフット! ごちそうさま!」
須賀谷は一気に夕食を食べ終わると箸を置き拳を握り、決意の形相をしながら決心の意味で床に叩き付けた。
「――洗い物が済み次第……寝るか」
――風が家の窓に、打ち付ける。
夜は自分の心を表すかのように更けていき、皮膚を凍らせるかのように冷え込んでいった。
「ーーック……俺は……! 絶対に上がってやるぞ……! うおぁぁぁ……!」
大人げないがその日は悲しくなって何年かぶりに、夜泣きをしてしまった。
一方少し時間が撒き戻り、須賀谷と順が別れてから5分後のシャワー室になる。順は一人、女子シャワー室で頭からシャワーの湯を浴びていた。
湯気の中で紫の長い髪が垂れ、水滴を地面に残す。……目を閉じて、しっかりと湯を感じる。
「あったかい……か……」
順はそっと、お湯に満たされたまま回想を始めた。
――先程の撤退はあれだ。嫌だったのだ。自分が不様だったからとはいえ、人に期待をしてしまったのだ。その思いが、過去の記憶と重なって自分で嫌になったのだ。
須賀谷 士亜という男。何があったのかは知らないが情熱だけは、異常な男だ。
そして見た限りでは、私に無い力でもある、心にある闇を自分の力として引き出す事が出来る暗黒騎士の才能というものがある。
だからアイツにならば、私のクソみたいな人生を変えられるとでも思ってしまった。奴を心の何処かでアテにしてしまったのだ。
自分で生きる道は自分で切り開かねばならんというのに、はしたない。
……身勝手だというのを自覚すると腹立たしくもなる。人に頼る訳にはいかない、私の生きる道はずっと一人だったはずなのに全く情けない。
……ここで頭を下げては自分が弱いことを認める事になる。
――自分は一人だったはずだ。……何なのだろう、ジレンマと言えばいいだろうか。今まで人に背を向けていた自分が、人に好意的に接っしてしまった事がそもそも理解が出来ない。
――落ち着いた場所で目を瞑ると未だに、クラスの人間の記憶が目蓋の裏に張り付いてくる。
触ったら濡れた石のようになってしまった、クラスメイトや教師の死後の肌の感触を。彼らを供養しに行った時に雨の中で地面に向かって嘆いた、後悔を。無神経な周囲の人間から自分と死んじまった奴らの仇を取りたいと心から願った、犠牲者の遺志を継ぎたいと思った事実を。
じっとしていると、復讐心と、孤独による辛さだけが脳の中に煮詰ってくる。
自分だけが人を差し置いて再起の光を手にしてよいのだろうか、そんな気持ちもある。
……これは、過去から抜け出せない事に対する自己嫌悪なのかもしれない。
妙な、拘りだ。だが、このクソ生活から出れる可能性があると言うのは、逆に考えれば幸いでもあった。
(……受け取り方によっては、皆の墓前に報告を出来るチャンスでもあるが)
向こうがこの駄目人間に声を掛けてくれると言うのも、中々に考えようがある。
なまじ須賀谷という男が自分視点では自分に近い匂いがする人間と感じるだけあり、それを見ていると自身でも感情の整理が付かずに情緒不安定に陥って混乱をしてくるのが分かった。
「――くッ。……調子が狂う。……フン」
プラスの感情とマイナスの感情が心の中で渦巻いている。 順は唾を吐きつつも自らの長髪の毛先を指で整えると、誰にともなくそう声を顰めて思いを吐露した。
「――あっ、しまった」
それから後にシャワー室から出ようとした時、シャワーのバルブを捻り過ぎてねじ切ってしまった。
「……やれやれ。我ながら、注意力が散漫だな……」
順は魔法で破壊したシャワーを修復魔法で塞ぎながら独り、苛立たしげにごちた。
特訓二週目のある日の放課後、須賀谷は順に呼びつけられて学校のグラウンドに出た。
周囲の生徒は下校しつつあり、既に人影はまばらでもある。
「今日は幸い6限で終わりだからな、7限が無い分いつもより長く出来る。……そこで、今回は自室を整理したら出てきた面白いものを使おうと思う」
制服を着た順はそういいながら右手に持った小汚い紙切れのような何かをひらひらとさせてみせた。
「それは……?」
「人間の魔力を供給される事によって動く擬似式神さ。いわゆるゼンマイネズミのようなものだな」
「……それによってはその紙、ミノタウロスって書いてあるが」
俺はすかさず見えた物に対し突っ込む。
「細かい事は気にするなよ」
「おい。……まぁともかく、そいつと戦って倒せばいいのか? それにしては、俺は制服だし武器はタマチルツルギ以外には無いけれど」
「いや、抵抗は別にかまわんが……逃げてもらう」
「え?」
「私が思うに、最近のお前は筋力は上達してきた。……だが、残念なことに剣を使っている途中で体力切れになる傾向にあると思うのだ。だから弱点克服のために、足腰を鍛えて持久力を付けてもらいたい」
「……で? それでミノタウロスから逃げろと……?」
返事をしつつも嫌な汗が、浮かんでくる。
「そういう事だ」
「強さは?」
「腕力は鉄棒を折り曲げる程度だな。逃げる場所は特に特定していないので必死に校外まで出てくれていい。はい、よーいどん」
そう言いながら手元の紙の一枚を、投げる。
「ブモーッ!」
すると投げ捨てた紙から煙と共に、雄叫びを上げながら色黒い牛の怪人が現れた。
2mはある大きな身体は筋肉質で、前張りをしている。
牛はすんすんと鼻を鳴らすと須賀谷の方を見、ずいと一歩近寄ってきた。
ーーっ!?
予想よりも巨体だ。須賀谷は瞬時に殺気を感じて身を翻し、逃走に向かう。
「あぁー、あとそいつはー! 特性として人間の男の尻に種を植え付けて子を成す習性があるー! 気をつけろよー!」
去っていく須賀谷に向けて突然、順が大声で叫んだ。
「はぁっ!?」
無茶苦茶な事を言われたと感じ、鳥肌が立ったのを感じる。
「無惨なことになりたくなかったら、逃げてみせるんだなー! 合計10枚召喚するから、健闘を祈るぞー、士亜ー! 制限時間は日が沈むまでで、角が大きい一体がリーダー格だー! 時間になったら私が紙に戻してやるから心配するなよ!」
「10枚もしなくていい! ……勘弁してくれよ!」
そう言い返している間にも、背後からミノタウロスが新たに召喚された気配を感じた。
冗談じゃない、一体だけなら辛うじて互角に持ち込めるだろうが、こんなんじゃ集団で嬲られる未来しか浮かばない。犬みたいに後ろから掘られる未来など想像したくもない。
「ブモォォォォォ!」
逃げ続けていてもすぐに鼻息荒くミノタウロスの群れがどかどかと追いかけてくる。
よく見れば、その、股間がそにょうなアレなことになっている。あんなの……気持ち悪い!
「貴様達なんかに捕まってたまるかぁぁ! 俺は俺の尻を守ってやるぅぅぅ!」
「うぉぁぁぁぁぁああ!! 死ねるかぁぁぁ!」
須賀谷は命辛々、必死で逃げ続けた……。
ーー4時間後。
「さーて、タイムアップだ。よく逃げ切れたな、士亜」
「……ゼェ……ゼェ……悪趣味なクソがッ! 3回くらい袋小路に追い詰められて死ぬかと思ったぞ!」
「それはすまんな、申し訳ない。スポーツドリンクをやるから許せ」
汗だくで地面に倒れた須賀谷の横で、順が笑っている。
4度目に壁際に追い詰められた所を、なんとかタイムアップという事で救われたのだ。既に身体中には乳酸が溜まっていて、とても逃げれそうにはなかったので間一髪であった。
「全く、不甲斐ない。次の機会にもまたやって貰うぞ」
「無茶を言うなよ順……。横腹が痛すぎる……」
「まぁ、まだまだ鍛え方が足りないことが分かったろう。私としても今まで甘かったと思えるフシがあるからな。……さて、紙を数えるとするか。えーと6枚、7枚、8枚、9枚……あれ?」
順が紙の数を数え始め、眉根を寄せた。
「なんだよ?」
嫌な予感が、過ぎる。
「いや、何か数が足りないと思ってな……どうしたものやら」
「え?」
「ぎゃぁぁあぁっぁあ! 寄るな牛男! 某のズボンを脱がそうとするなぁぁ!」
それから須賀谷が疑問の声を返した時、悲鳴が聞こえた。
「どういう事か分かったが……俺はもう正直動けないから頼むよ、順」
「……だな、任せておけ」
足元から震えが来そうな声を聞いて思わず二人で、顔を見合わせる。
「ひぎぃ! 駄目! 首を舐めるな変態! ヒャッハハハ! あーはははっ! 誰かあぁぁヘルプー!」
悲鳴に笑い声が混ざったのを聞き、順は慌てて声のする方向へだっと走り出した……。
「オォン! アォン! 駄目、パンツは駄目! 揉むなまさぐるな変態ぃぃ!」
ストローでドリンクを飲む須賀谷は背筋に寒気が走るのを感じながらも、つくづく自分が逃げ切れてよかったと安堵していた……。