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宵の月を見上げた魔王は静かに沈む【完結済】   作者: 桜べにこ


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2/2

2.「月の姫」


軍議が終わった後の玉座の間には、奇妙な静けさがあった。


先ほどまで怒号にも似た声が飛び交っていたとは思えぬほど、

広間は冷え切っている。


重臣たちが去った後の空気には、なお魔族たちの怒りが滲んでいた。


当然だ。


国境砦が人間軍の奇襲を受け、双方に死傷者が出た。

それだけでも十分に火種となる。


しかも西では、ベルゼオンが独自に動いている。


あれがさらに人間側の神経を逆撫ですれば、

戦の火は容易く広がるだろう。


玉座に深く身を預け、重く息を吐いた。


余が動けば、一瞬で終わる。

人間の国など、灰すら残らぬ。


だが、それでは意味がない。


力でねじ伏せた先にあるのは、平和ではなく沈黙だ。

恐怖で従わせた世界に、未来はない。


分かっている。

分かっているからこそ、面倒なのだ。


魔族たちは怒りに満ちている。

兵は報復を望み、将は備えを進め、民は不安に怯えている。


余がただ一言命じれば、すべては一つの方向へ流れ出すだろう。


だが、その一言を口にした瞬間、

この世界はもう後戻りできなくなる。


「……面倒だ」


誰に聞かせるでもなく呟いた声は、

広い玉座の間に吸い込まれていった。


かつてなら、こういう時でももう少し冷静でいられた。

今のように、精神が鈍ることもなかった。


だが今は違う。


守りたいものがあると、人は――いや、魔もこうなるのか。


ふと、窓の外に視線を向ける。


魔族の住まう地に広がる空は、

昼も夜も曖昧な闇を湛えていた。


その中で、淡く白い光だけが浮いている。


あの光を見るたび、余は思い出す。



クリスティア。



胸の奥が、また静かに軋んだ。



その時だった。


微かな気配。


余はゆっくりと顔を上げた。


本来であれば、城内へ何者かが入った瞬間に察知できる。

それができなかったことに、ほんのわずかに眉を寄せる。


疲れている。

思っていた以上に。



「……誰だ」


低く落とした声が、静寂を震わせた。


返ってきたのは、聞き慣れた声だった。



「…アグニレオン」


その名を呼ぶ声音に、余は息を呑んだ。


視線の先。

広間の入口近くに、ひとり立っていた。



クリスティアだった。



淡い衣に身を包み、剣こそ帯びてはいるが、

今の彼女は戦うための勇者というより、

国を背負う姫そのものだった。


それでも、その面差しに宿る強さは変わらない。


「あの、突然来てすまない。実は――」


最後まで聞けなかった。


気づけば身体が動いていた。


玉座から立ち上がり、長い階を下り、

そのまま彼女の細い身体を強く抱き寄せる。


腕の中の温もりが現実だと分かった瞬間、

胸の奥に張りつめていたものが一気に軋んだ。


「……会いたかった」


掠れた声が、自分でも驚くほど情けなかった。


離せない。


離した瞬間に、今やっと掴んだものが

また指の間から零れ落ちてしまう気がした。


クリスティアは一瞬だけ硬直した。

だが、すぐに力を抜く。


そして少しだけ、困ったように笑った。


「…私もだ」


その一言だけで、危うく本当に何もかも忘れてしまいそうになる。



余はしばらくの間、彼女を抱きしめたままだった。


王としてあるまじき無様さだと、頭の片隅では理解している。


だが今は、そんな理性に従う気にはなれなかった。



やがて余がようやく腕の力を少し緩めると、クリスティアは近い距離のまま余を見上げた。


その瞳には、再会の喜びと同じくらい、心配の色が宿っている。


「……大丈夫か?」


思わず先に出たのは、余の方の言葉だった。


彼女は小さく目を細める。


「それは、こちらの台詞だ」


わずかに咎めるような、それでいて優しい声。


「入ってきたことに、すぐ気づかなかっただろう」


図星だった。


余が答えずにいると、クリスティアはそれ以上責めることなく、

静かに息をついた。


「少し、無理をしている顔だ」


その言い方が妙に自然で、胸が熱を帯びる。


余を魔王としてではなく、一人の男として見ている。

だからこそ、こういう時に弱るのだ。



「……突然来た理由を聞こう」


ようやく王としての声音を取り戻し、そう告げると、

クリスティアは一歩だけ距離を取った。


「祖国の復興は、少しずつだが進んでいる」


凛とした声だった。


「壊れた家を建て直し、畑を戻し、

 人がまた暮らせるように整えている。

 毎日やることだらけだ」


そこまで言って、彼女はわずかに肩を竦める。


「姫が泥だらけになるなと、何度も止められたが」


「止められて従うお前ではあるまい」


「当然だ」


少しだけ笑う。


その笑みに、張りつめていた空気がほんの少し和らいだ。


だが彼女はすぐに表情を引き締めた。


「復興と並行して、各国の要人にも魔族との共存を働きかけている」


「……手応えは、

 

 正直に言えば、あまりない」


きっぱりと言い切る声音に、余はかえって心を打たれた。


誤魔化しも虚勢もない。

現実を見据えた上で、なお前へ進もうとしている声だった。


「魔族と共に生きるなどあり得ぬという者もいる。

 表では賛同するふりをしても、

 腹の底ではそう思っていない者も多い」


「だろうな」


「中には……私が魔族側に寝返ったのではないかと噂する者もいる」


そこだけ、ほんの少しだけ声音が低くなる。


だがクリスティアは俯かなかった。

視線はまっすぐ余を捉えたままだ。


「なかなか思うようには進まない。けれど」


彼女はそこで言葉を切り、ふっと息をついた。


「心は折れていない」


その一言に、余はしばし言葉を失った。


この女は本当に強い。

剣だけではない。

生き方そのものが、強い。


「……そうか」


それしか言えぬ自分が、少し情けなく思う。


だがクリスティアは、そんな余の沈黙を責めることなく、

小さな包みを差し出してきた。


「それと、これ」


「……何だ」


「林檎の焼き菓子だ。今回は祖国で採れた林檎を使った」


得意げでもなく、

照れ隠しでもなく、

ごく自然に差し出されるそれが、たまらなく愛しい。


「また持ってきたのか」


「嫌だったか?」


「そんなわけがない」


包みを受け取ると、ほんのりと甘い香りがした。


戦と政と怒りに満ちた玉座の間に、人間の国の匂いが紛れ込む。


それは不思議なほど、この場に似つかわしくなかった。

そして不思議なほど、余を落ち着かせた。



ひとつ口に運ぶ。


「……どうだ?」


クリスティアが、わずかに身を乗り出す。


余は少し間を置き、答えた。


「前よりは上手くなったな」


「前よりは、か」


「余に褒められたのだ。光栄だろう」


「ふふ」


クリスティアは小さく笑った。


その笑顔を見た瞬間、余は思わず手を伸ばしていた。

指先で頬に触れる。


柔らかい。


彼女は少しだけ目を見開き、けれど逃げなかった。


「……共存は、正しいからとか優しいからとか、

 そういうことではない」


クリスティアが静かに言った。


「必要だからだ」


余はそのまま黙って彼女の言葉を待つ。


「人と魔が争い続ければ、どちらも疲弊していく。

 どちらかが滅びるまで続けるなど、あまりに愚かだ」


凛とした口調。


姫として、王族として、未来を見据えている声音。



だが次の瞬間、彼女はふっと口元を緩めた。


「……それに、堂々とあなたと共にいられるしな」


いたずらっぽく笑うその顔に、余は不意を打たれた。


あまりにも真っ直ぐで。

あまりにも眩しくて。


言葉が出ない代わりに、頬に触れたままの指先を唇へと滑らせる。


指先から伝わる温もりに、どうしようもなく心が乱される。


そしてそのまま、そっと唇を重ねた。


短く、静かな口づけだった。


触れた瞬間、クリスティアが一瞬だけ目を見開く。

だがすぐに、少し照れたように視線を揺らし、

それでも拒まず受け入れる。


その反応が、余の理性をさらに鈍らせた。


唇が離れた後も、互いにしばらく何も言えなかった。

ただ呼吸だけが、静かな広間に溶けていく。



やがてクリスティアが、わずかに表情を引き締めた。


「……砦の件、詳しく聞かせてほしい」


空気が、現実へ引き戻される。


「国境砦への奇襲だ。夜陰に紛れて人間軍が仕掛けてきた。

 砦は持ちこたえたが、双方に死傷者が出ている」


「規模は?」


「前哨戦としては十分すぎる。

 だが、全面戦争に踏み込むにはまだ早い。

 相手も様子を見ている」


クリスティアは静かに頷く。


「……偶発ではなさそうだな」


「余もそう見ている」


「こちらで共存を訴えても、

 向こうでこうして刃が抜かれる。

 厄介なことだ」


その声音に焦りはない。

ただ冷静な判断だけがあった。


「それでも」


彼女は続ける。


「私は共存を諦めない」


余は黙って彼女を見る。


「簡単ではない。時間もかかる。

 人の心はすぐには変わらない。だが、それでも必要だ」


その瞳は真っ直ぐだった。

少しも曇らない。


「……お前は、本当に折れぬな」


「折れてなどやるものか」


言い切るその横顔があまりに美しくて、

余は胸の奥が締めつけられるのを感じた。


あまりにも、眩しい。



しばしの沈黙の後、クリスティアが小さく息を吐いた。


「長くはいられない」


「……分かっている」


その返事が思いのほか低くなったのは、

自分でも隠しきれなかった。


「復興も、共存の働きかけも、まだ途中だ。

 今は祖国へ戻らねばならない」


そう言う声に迷いはない。

それが誇らしくて、同時に苦しい。


余は本当は引き止めたい。

余の手の届く場所にいろと命じたい。


だが、それをすれば彼女の誇りを折ることになる。


それだけはできない。


「……行くのだな」


「ああ」


クリスティアは小さく頷いた。


そして、最後にいつものあの笑みを浮かべる。


強くて、少しだけいたずらっぽい笑みを。


「必ずまた来る。…焼き菓子を持って」


その言葉に、余は思わず苦く笑った。



クリスティアは踵を返す。


去っていく背は細いのに、不思議と誰よりも強く見えた。





広間に再び静寂が戻る。


余はしばらくその場を動けなかった。


やがて、窓の向こうへ視線を向ける。


淡い光が、闇の中に浮かんでいる。


月だった。


冷たく、遠く、触れられない。

それなのに、その光は気高く優しい。


……まるで、あの女のようだ。


余はしばらく黙って月を見つめた。


ふたりの想いは通じている。

それでも、世界は変わらない。


――次話へ。

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