後悔は結構先に立つ
朝、起きて目を開けると、世界が白くぼやけていた。
スマートフォンを手探りで取り、時間を確認しようとしたが、よく見えない。おおきな数字なのにちっとも読み取れない。
「なんだこれ……」
とりあえずベッドから出て、洗面所まで這って移動した。コケたりどこかに足をぶつけたりするのが嫌だったので。
水で顔を洗ってみたが、何も変わらなかった。気分もスッキリしない。
時間が経てば戻るだろう。寝起きに世界がぼやっとするのはよくあることだ。ハムスター柄のパジャマのまま、髪も整えずに、しばらく私は座椅子に座り続けた。
同居猫のふっくんが太ももにすり寄ってきた。「ママー」と鳴きながら、ごはんを欲しがる彼に、私は謝った。
「ごめんね、ふっくん。目が見えないの。もう少ししたら見えるようになるから、たぶん。そうしたらごはん、あげるね」
どうしたのだろう。
そういえば少し前から左目にめばちこができてたけど……
昨夜、お酒を飲みすぎたせいだろうか。
憂鬱な季節だからか、確かに最近、酒量が過ぎるとは思っていた。
この前は起きるなり激しいゲリダ豪雨に見舞われた。ずっと胃の中でうんこになる前の何かがドンドン音を立てて暴れているような不快感に、産まれて初めて胃薬というものを買って飲んだ。
それで収まったので安心していたら、今度は目に来たというのか……。
「このままあたし……、目が見えなくなっちゃうのかな……」
ふっくんが心配するように、足のあいだで「ママー」と鳴いた。
目が見えない生活を想像した。
まず仕事はできなくなるだろう。
頼れるひともいなければ、身内も近くにいない。
何より誰かに頼りたくはない。迷惑をかけたくないのもあるが、自分が嫌だ。私は一人で生きているというような、おかしなプライドを持っていた。
「……あっ?」
じっとしていたら、だんだんと白いもやのようなものが晴れ、目が見えはじめた。
「ふっくん! 見えるようになったよ! ごはん、あげよう」
ニコニコ笑顔になった私に、ふっくんがか細い声で「ニャァー……」と鳴いた。まるでごはんなんてどうでもいいように。
ふつうに仕事へ行き、いつものように帰るとお酒を飲んだ。スーパーマーケットで大量に半額のお惣菜を買って帰り、それをつまみながら。
からあげ、コロッケ、天ぷら、チキン南蛮──明日のお弁当にも入れようと思ってたのに、あまりに美味しすぎて、ついぜんぶ食べてしまう。
ふっくんにもおやつをあげながら、楽しいお酒を飲んだ。
じめじめする季節には私はかえって食欲が増進する。憂鬱を吹っ飛ばそうとするように。あるいはこれから来る食欲のなくなる季節の前に食い溜めしておこうとでもいうように。
お酒を飲みながら、スマートフォンで『小説家になりお』を開いた。素人が小説を投稿し、知らないひとたちに読んでもらえる小説投稿サイトだ。私はリアルに友達はいないが、ここには顔を知らない友達がたくさんいるのだ。
左目がなんだかぼやけて、文字がよく見えないので、文字を拡大しながら投稿作品を読んだ。
私は今、個人自主企画を開催しているのだ。
『梅雨のジトジト企画』と銘打って、陰鬱な作品や、逆に梅雨空がスカッと晴れるような作品を募集していた。なんだかじっとりとした小説が読みたくなっていたのだ。
参加者さんが投稿してくださった3,000文字程度の作品を、1,000文字程度読んで、目を瞑った。
そして書き込みをする。
『ごめんなさい、なんだか目がよく見えなくて……。また仕事中に朗読アプリで聴かせていただきますね』
相互お気に入りユーザーさんからメッセージが届いた。
『病院に行ったほうがいいよ! 知り合いがそれで失明してるから!』
ガムおじさんというハンドルネームのそのひとのメッセージを読みながら、大袈裟だなと思った。
一日に何度も左目が見えなくなるし、朝にはいつも両目が見えないが、しばらくじっとしていれば治るのだ。大したことはない。
何よりお給料が少ないので毎月ギリギリどころか赤字なのだ。病院に行くお金なんて、ない。
夜、布団に入って、考えた。
明日も目を覚ましたら世界が白いもやに覆われているのだろうか。
ほんとうに、このまま放っておいたら、私は失明してしまうのだろうか、ガムおじさんの言う通り──
今は目が見えている。たまに見えなくなるぐらいで。
でも、見えなくなったら、大好きな『小説家になりお』もできなくなる。
ふっくんのかわいい顔も、真っ白な毛のその艶も、何もかも色が失われて、闇の中で生きなければならなくなる。
私はふっと笑って、呟いた。
「世の中にはそんなひと、いくらでもいて、たぶんみんな幸せに生きているんだよ? そんなの大したことない、大したことないよ」
ふわ~っと、夢の中へ入っていった。
そうだ。きっと失明しても、夢の中なら物が見えるんだ。
梅雨明けの光が照らす、雨の雫を乗せた木々の緑の葉っぱを、私はにこにこと見つめた。
葉っぱの間から、雀の子が現れて、私に言う。
「後悔、した?」
「えっ?」
「後悔、ちた? ちゅん!」
目を開けると、何も見えなかった。
眼球を左右に動かしても世界が動かない。
手探りで、スマートフォンを探した。どこだ。どこにやったっけ?
後悔した。もっと早く、借金してでも、やっぱり病院に行っておくべきだった。
ようやく指に触れたそれを取り、電源ボタンを押した。
光が、灯った。
2時17分という文字が、見えた。
「眼圧が異常です」
眼科のおじいさん先生が、椅子をくるくる回しながら、呆れたように言った。
「放っておいたら失明するところでしたよ、両目とも」
どうやらお酒と脂っこいものが過ぎたらしい。
そういえば以前も暴飲暴食の末に若くして心筋梗塞なんて病気にかかったこともあったっけ。
とりあえず先に後悔しといてよかった。