ヒゲッパ事件
ヒゲッパはトノサマガエルだった。
僕が池で拾ってきたカエルだ。つぶらな愛らしい瞳と、きりりと結んだ凛々しい口元があまりに魅力的だったので拾った。彼はトノサマガエルだったが、ジェントルマンといった風情で『殿様』よりは『総裁』が似合う蛙だった。しかし『総裁』と呼ぶには何かが足りない。僕は震える指で墨汁の染み込んだ筆をとり、ヒゲッパの鼻の下にくるりとカールしたヒゲを描いた。総裁だった。実にいい総裁っぷりだった。けれどあまりのヒゲっぷりに、僕は彼を総裁とは呼べなくなってしまった。そこで彼を「ヒゲッパ」と名づけることにした。
ヒゲッパと帰宅すると、妹の礼子が茶をすすって火曜サスペンス劇場の録画を見ていた。相変わらず好きらしい。瞬時にヒゲッパは飛び跳ねて、礼子の口元に飛びついた。礼子は軽く舌打ちすると、僕のヒゲッパを顔からはがし、床に投げつけた。ヒゲッパが隣の台所の床に激突するいやな音がした。床にのびたヒゲッパの前足が少し震えている。よかった。生きているようだ。
「礼子、兄の友達にもっと広い心で接してやれんのか」
「兄として妹の貞操を心配する心はないわけ?」
「ヒゲッパはそんなに悪趣味じゃない。ヒゲッパをバカにするな!」
ヒゲッパを拾おうと屈んで、手を止めた。なんだかヒゲッパが急に大きくなっている。
「ヒゲッパ、でかくなってないか? 成長期?」
ヒゲッパの体が戦隊ヒーローものの巨大怪人のように大きくなっていく。僕はヒゲッパを人差し指でつついた。梅雨の重い空気が吹っ飛ぶほど、僕の心は弾んでいる。どうなるのか楽しみでならない。巨大蛙になったヒゲッパは、僕の素敵な友達第一号になるに違いなかった。
ヒゲッパを凝視していると、僕の顔とヒゲッパの顔が同じくらいのサイズになった。急にヒゲッパの緑色の体が黄色じみてきた。
「ミュータント忍者亀ならぬ忍者蛙になるぞ。ピザ食うかな」
礼子はそんな訳ないじゃない、と言いながらもこちらを伺っている。
「お前の唇から得体のしれない化学物質が出てるのかもしれん」
「失敬だな兄貴の癖に。これは夢よ、夢オチに違いないわ。ガマガエルの上に乗る素敵な忍者が現れた瞬間に目が覚めるんだわ。そういう創作小咄なんだわ!」
「ヒゲッパはトノサマガエルだから、多分夢オチじゃない」
すっかり肌色に変色したヒゲッパの頭から、少しずつ髪の毛が生えてきた。はじめは一本ずつ、やがて毛根エネルギーを一気に外に放出するように髪が伸びた。
「うわー、かつらメーカーにつきだしたいな。研究協力費貰えそう」
ヒゲッパの頭がすっかり黒くなる。もう青白い頭皮は見えない。髪の生えた肌色の蛙が顔を上げた。目がばっちりあってしまって僕はたじろいだ。けれど観察をやめるわけにはいかない。なまめかしく光っていた皮膚が乾燥したようだ。蛙に乾燥は危険だ。しかしこいつを蛙と呼んでもいいのだろうか。目が顔の中心に移動し、口が縮んでいく。へそも現れた。
「メタモルフォーゼってやつなのかしら?」
妹の声に呼応するように、ヒゲッパは完全な人間の姿になった。
「ヒゲッパ、人間だったのか」
「ヒゲッパ、美青年ね」
台所の床の上に、蛙座りともヤンキー座りともとれぬ格好のヒゲッパがいた。色白で細身だが筋肉質な青年だった。つぶらな瞳で口元も凛々しい。特徴は蛙のときと同じだ。ヒゲッパが腕を高くあげて大きく伸びた。ヒゲッパは裸体だった。
「マジ、長かったよ……」
「第一声がそれか」
「感謝の言葉はないの」
僕ら兄妹のツッコミに、ヒゲッパはヤンキー座りのまま、軽く右手を上げて言う。
「あ、ありがとう。早速だけど、煙草一本下さい」
いや、それ以前に裸体であることに誰かツッコミを入れろ。僕は黙ってヒゲッパに煙草とパンツを差し出した。かつて母が置いていったブリーフだ。数の限られたトランクスを共有するほど、僕は人間ができていないし、裕福でもない。ゴムのところには僕の名前が母の字で書いてあったけれど、わいせつ物陳列罪で逮捕されるよりはずっといいだろう。礼子が灰皿をもってきて、ライターで煙草に火をつけた。至れり尽くせりだ。
「あ、どうも」
ヒゲッパが礼を言って、少しヤンキー座りの姿勢を正して白い煙を吐き出す。目を細めてうめえ、と一言呟いた後、ようやく彼はパンツにその白い、それなりにすね毛の生えた脚を通した。僕はその様子を凝視していた。もはや蛙らしさは微塵もない。
「どうして蛙になってたんだ?」
素朴な疑問を投げかけると、ヒゲッパの表情が見事にくもった。きっと思い出したくもないことがあったに違いない。しかしそこは語ってもらわねば困る。僕はダーウィンもビックリな進化を目撃してしまったのだ。このことを世間に発表すればNHKから民放各局に至るまで僕とヒゲッパに取材が殺到して、テレビでもてはやされる日が続いて『ヒデとヒゲッパ』なんてデュオを結成して……ああ、いいかもしんない……。
「ヒゲッパ、あなた私のキスで人間に戻ったのね?」
僕の思考を打ち破ったのは礼子の声だった。礼子は探偵ばりに眉間にしわを寄せ、顎に手をあてて考えている。追及されたヒゲッパは、台所のオレンジの床の上に、ブリーフのみで正座していた。墨汁で書いたヒゲはそのまま、黒々と照明を受けて光っている。
「あんた見かけによらず、心は乙女なんだな」
「見かけによらずは余計よ。腐女子を差別しないでちょうだい。ところであなたを蛙にした犯人は誰なの?」
火サスのように、窓の向こうで雷が走った。なかなか素敵な演出効果だ。僕の心の中でCM前後の音楽が鳴る。ヒゲッパは煙草を吸い、そして大きくため息をついて白い煙を吐き出した。そしてその長いまつ毛を伏せ、ようやく彼は重いガマ口を開いた。
「ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔が、俺を蛙に変えたんだ……」
礼子がぴくりとその言葉に反応した。ヒゲッパの告白は、火サスならCM前後の山場になるだろう。きっと二回放送される部分だ。そんなくだらないことを考えながら、僕はじっとヒゲッパの次の言葉を待った。しかしヒゲッパは、いつまでたってもその口を開こうとはしなかった。こいつは取調べに骨が折れそうだ。ぐい、とスタンドライトを引き寄せ、ヒゲッパの顔に光を当てる。
「ヒゲッパ……吐け! 吐くんだ! 一体何があったのかを話すんだ!」
僕の声に、ヒゲッパは困った顔をした。しかしいまだに口を閉ざしたままだ。そんな僕たちを見て、礼子が口を開いた。
「なるほど……この謎、必ずといてみせるわ……腐女子の名にかけて!」
決め台詞らしいが、腐女子ならわかるとでもいうのだろうか。しかしゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔が犯人だとヒゲッパは言った。蛇の道は蛇というから、腐女子を侮るわけにもいかない。
オレンジ色の台所の床を、礼子がゆっくりと歩き回り、額に人差し指をあてるポーズをとる。まるで古畑任三郎だ。前かがみでこそないが、雰囲気は似ている。……ということは、僕は今泉か、今泉君なのか。ここは一丁、今泉君と違って細かいところに気がつくということを証明しなければならない。それには美味いカツ丼だ! 出前のカツ丼をどこから取るべきか悩んでいると、しばらく考え込んでいた礼子が動きを止め、呟いた。
「謎はすべて解けたわ……」
「謎はすべて解けた!? 早すぎない!?」
その言葉に僕は前のめりになる。おそらく今、僕の瞳は見開かれているだろう。きっと過去の日本人を探しても今の僕とはりあえるのは西郷隆盛くらいだ。黒ダイヤのような瞳だとアーネスト・サトウも日記に書くに違いない。
「一体何がわかったと言うんだ、礼子」
僕の震える声に、礼子はふふふと不敵に笑った。
「いいですか、兄さん。ヒゲッパは今『ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔』と言ったのです」
名探偵礼子の声に僕は黙ってうなずく。唾を飲むと乾いた喉が少し潤った。
「そしてヒゲッパは『乙女のキスで元に戻った』のです」
強い調子で礼子は先ほど額にあてていた人差し指でヒゲッパを指差して叫ぶ。
「いいですか、ヒゲッパさん。あなたはゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔に唇を狙われていたのです!」
「なんと!」
礼子の声に、僕はあんぐりと口を開けた。窓の外には強い雨が降り出した。雷鳴がとどろく。その雷に打たれたように、僕は動きを再開する。そして質問した。
「ヒゲッパは、唇を狙われたために蛙になって隠れた、そういうことですか? 名探偵礼子」
礼子は微笑して、人差し指を横にニ、三度、車のワイパーのように振った。
「違います。ヒゲッパが貞操を狙われたのであれば、ゲイでオカマの悪魔が豊胸手術をしているのは、少し変です」
「なるほど。ではゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔は、女役だということですね?」
「ご明察。兄さん、さすがです。ゲイでオカマの豊胸手術を受けた悪魔は、ヒゲッパを彼氏にしたかった……」
相変わらず正座したままのヒゲッパの周りを、ぐるぐると礼子が歩く。ヒゲッパはうなだれたままだ。
「あれ? ヒゲッパはその悪魔に好かれているんじゃないのですか? それなら何故カエルに? 犯人はゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔なんですよね?」
「ええ、そうです。しかしそうではないとも言えます」
礼子は一度目を伏せて、意味ありげな笑みを浮かべた。
「どういうことです?」
「ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔は、ヒゲッパを彼氏にしたかった。けれど……」
僕は唾を飲みこんだ。ついに核心に触れるときが来たのだ。こんなところでCMをはさむテレビ局があったら絶対許さない。CMの間中気になって、画面が切り替わるたびに身を乗り出すのは心臓に悪い。
「けれどヒゲッパは、その求愛を拒否した! 違いますか、ヒゲッパさん!」
「そうです、その通りです……俺にそっちの気はなかったんです!」
法廷ドラマも真っ青な礼子の追及に、ヒゲッパはうなだれた。今こそ脱今泉だ。僕は今泉君のやたら面積の広い額と決意を胸に、たたみかけた。
「ヒゲッパ、君はその悪魔の逆鱗に触れて蛙にされたんだな!?」
「いや、彼はそんなおとなげない奴じゃない」
再び雷鳴が轟いた。稲光が僕とヒゲッパを飲み込んだのが見えた。チクショウ、僕には探偵の素質がないらしい。やっぱり僕は今泉君なのか……!
悔しさにふるえる僕を置いて、礼子は笑いながら人差し指ワイパーを動かした。
「兄さん、いいところまで行ったんですがね……惜しかった。実に惜しい」
礼子が正座したヒゲッパの周りを歩きながら続ける。
「ヒゲッパさん、あなたが蛙にされたのにはもっと深い訳がある。貴方はきっと、純粋さのある乙女としかつきあわないと口を滑らせたのですね……」
ヒゲッパが礼子の言葉に反応して急に顔を上げた。表情が硬くなる。
「しょ、証拠は……証拠はあるんですか!?」
「ありますよ……」
礼子は悠然と腕組みして、目を細くした。ああ、礼子が性悪女になってしまった。サドだ。ドSだ。あまりの恐怖に僕は、膝の上でにぎりしめた拳をぶるぶると震わせた。
「ほら、ここをご覧なさい」
礼子がヒゲッパの左肩を指差した。肩口に薄く残る赤色に、僕はさらに恐怖を加速させた。
「これは……アザ……?」
顔色を変えたヒゲッパがあわてて肩を抑える。礼子は「いまさら隠しても遅いですよ」と底意地の悪いこと極まりない笑みを浮かべた。
「兄さん、あれはね、キスマークです。そばにうっすら口紅がついているでしょう? きっと落ちない口紅という奴です。おそらく水で濡れたくらいで口紅は落ちなかった」
ヒゲッパは口紅を落とそうと、肩口をごしごしとこする。礼子が黙って首を横にふると、かわいそうなヒゲッパはおびえきって、目じりに涙を浮かべた。正直、僕でも今の礼子に勝てる気がしない。こんな通常の三倍のサドっぷりを見せつけられては、踏み台にされるのがオチだ。今泉君上等である。
「お前はもう、キスされている……」
急に礼子の眉毛が太くなったような気がした。
肩を抑えたヒゲッパの手ががくがくと震えるたび、指のすきまから証拠のキスマークが見えた。
「ヒゲッパ、見えちゃう……!」
僕の声に、ヒゲッパは絶望した表情で叫ぶ。
「ゆ、指が……指の震えがぁ! 止まらない!」
「観念なさい、ヒゲッパさん! あなたは乙女のキスで人間に戻る魔法をかけられた。ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔の心が乙女であることを証明するために、魔法をかけられたのです!」
最後の置き土産とばかりに、一際大きな雷鳴が轟いた。稲光を背にしたヒゲッパは、往年の少女漫画ばりに衝撃を受け、大人しく肩から手を外しながら涙声で告げた。
「……その通りです……」
礼子が得意げに微笑んだ。いつの間にか雨は止んでいたらしく、分厚い雲のすきまから太陽の光がさしている。あまりにも天候変化が早すぎないか。
「貴方は、きっとゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔にキスをされたにも関わらず、元に戻らなかったのですね……そして蛙の姿のまま、生活することになった……」
ええ、とうなずきながら、ヒゲッパはむせび泣いた。ヒゲッパの涙が両目から垂れて、鼻の下から頬にかけて伸ばした墨汁のヒゲがにじんだ。
「思わせぶりな態度をとったオレが悪いんです。オレとあいつの間にあるのは友情だと信じて疑わなかったオレが……」
「……ヒゲッパさん、あなただけが悪い訳じゃない……人の心というのは、時に鬼にも蛇にもなるものです……」
「人じゃなくて悪魔だろ」
真顔でツッコミを入れた僕に、礼子の見事なアッパーカットが飛んできた。瞬時にヒゲッパの表情に戦慄が走る。後ろへ吹っ飛んだ僕は、台所の流しでしたたかに手を打った。
「そう、悪魔ならなおさら欲望には忠実なはずです……。それなのにあなたに友情を感じさせるほど、ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔は我慢したんです……ヒゲッパさん、あなたへの愛ゆえに……」
礼子がヒゲッパの肩にそっと手をそえた。ヒゲッパはびくりと肩をふるわせて、涙だらけの顔を礼子に向けた。墨汁で描いたヒゲがにじんでいる。太陽のそばの雲が、少しずつ茜色に染まっていくのが見えた。
「その、ゲイでオカマの豊胸手術をした悪魔もつらかったのですよ……あなたのために豊胸手術までしたのに、ふりむいてくれなかったものだから」
「ヒゲッパ! 今からでも遅くないはずだ。謝ろう!」
僕はヒゲッパに向かって叫んだ。ヒゲッパは涙まみれの顔を僕に向けた。もう墨汁のヒゲは原型を留めていない。雲は晴れ、強烈な朱色の夕陽が空を染めている。
「素直に謝って、素直に『君の気持ちに答えることができない』と言うんだ、ヒゲッパ! 僕も一緒について行ってやるから!」
「でも……いいのか? 今度はお前が狙われるかもしれないんだぞ」
涙で濡れたヒゲッパをまぶしく眺め、僕は自分の頬にも流れる涙を拭った。
「いいんだ、だって僕らはパンツを共有するほどの仲じゃないか!」
「ありがとう、ありがとう!!」
ヒゲッパと僕は抱き合って、互いに涙を流した。礼子がそれを静かに見ている。普段の礼子ならスケッチブックに鉛筆を走らせるはずだ。涙と鼻水とすね毛が、礼子の幻想を打ち破ったのかもしれない。腐女子パワーを僕らの友情パワーが上回ったのだ。どうだ礼子! これが男の友情だ!
「悪魔をどうやって探すのよ」
冷静な礼子の声で、僕らは我に返った。ブリーフだけを身に付けた男性が、涙と鼻水、そして墨汁で汚れた顔をこちらに向けていた。急激に冷めた。
「……お前、やっぱり池に帰れ」
<おわり>