境界を越える
日が落ちると、目が見えるようになった。
それは段階的な変化だった。真っ黒だった視界が、グレーがかかっていき。
ものの輪郭が陰影で感じ取れるようになり、気づいた時にはもとのように普通に見えるようになっていた。
灯りがともされていても、そこは関係ないらしい。太陽が沈むと見えるようになる、という決まりのようだ。
夜になっても皆が気を遣って一緒に過ごそうとしてくれる。しかし私は『もしかして、皆、ずっと寝ていないんじゃない?』と心配になった。
というのもユリアの目が充血していたからだ。昼間は視覚が失われていたから、そこに気づけなかった。
そういえばゲーム直後に私は昏倒したはずで、皆をすごく心配させたのかもしれない。……朝になって駆けつけてくれたわけではなく、真夜中からずっとリビングで待機してくれていたの?
休んでくださいと言っても、「大丈夫」と返されそう。そこで私は、
「少し疲れたので、休みたいです。皆さんも休んでください」
と言ってみた。
ユリアが眉尻を下げて、付いていたそうな顔をしたのだけれど、マイルズが気を利かせてすぐに腰を上げた。
「じゃあ、部屋から出ましょう。姉さんはひとりのほうが眠れると思うし、また明日もあるので」
皆を促したあと、マイルズが振り返ってにっこり笑いかけてくれて、私はホッとした。長い付き合いだから、すぐに気持ちが通じる。
隣に腰かけていたアドルファス王太子殿下のほうに顔を向けると、
「――可愛いディーナ」
髪の中に手を差し込まれ、チュ、とおでこにキスをされた。
不意打ち。
私は頬が熱くなった。
父が「あ」という顔をして、ワナワナ震え出す。
「ちょっと、アドルファス王太子殿下!」
「パピーもしてほしいですか?」
「君ねぇ!」
「パピーが考え中のようだから、僕たちはもう一回」
父をからかいながら、私の頬に素早くキスをするアドルファス王太子殿下。
彼独自の素養なのか、何をしても不思議な清潔感がある。彼らしい可愛いキスであり、スマートでもあった。
私はキスされた頬を手のひらで押さえて、呆気に取られた。
ど、どうしたの? メルヘン王子……!
「ねぇ、ディーナもして」
「あの」
迫るのはわりと得意だが、私は迫られると意外と防御力が弱いのだ。顔がどんどん赤くなる。
「だめですよ、アドルファス王太子殿下!」父はもうなんだか必死である。「ディーナは嫁入り前なんだから!」
「いいじゃないですか、あなた」母はクール。「キスくらい」
「よくない!」
「――じゃあハグは?」
アドルファス王太子殿下が悪戯に尋ね、父の返答を聞かずに私をハグする。
私は目を丸くし……やがて頬を赤らめて笑った。
* * *
少し疲れたので……皆にそう言ったのは建前だったはずなのに、実際に疲れが溜まっていたらしい。
日中、目を開けているのに何も見えないというのが初めての体験だったので、知らず知らず神経を使っていたようだ。
ベッドに横になると頭がぼんやりしてきて、私はすぐに眠りに落ちた。
――君が■■■■■んだ――……
何? 私は眉根を寄せる。
声が遠くてよく聞こえない。私を呼んでいるのは誰?
――来て――……
あなたは誰?
――ディーナ!
ハッとして目を開ける。
私はベッドの上で上半身を起こした。
手のひらを見おろすと、薄闇の中に輪郭が見える……ということは、まだ夜は明けていない。日が昇れば、私はまたものが見えなくなる。
窓の外に視線を移すと、夜空に星が瞬いていた。
私は寝衣の上にガウンを羽織った。
ベッドから出てリビングに続く扉を開ける。先の間はとても静かだ。
何かが……おかしい?
辺りを確認していると、廊下へと続く扉がグニャリと歪んだ気がした。水面に小石を投げ込んだ時に波紋が起こるような、あの感じ。扉のそばに歩み寄り、注意深く顔を近づける。けれど扉はもとの状態に戻っている。
ドアノブを捻り、廊下に出た。
……どうして誰もいないの?
長い廊下を見渡しても、ひとりも警備の人間がいない。異常な状態だった。
それにこの静寂――まるで別世界に迷い込んだかのよう――私は小走りに進んだ。すると廊下の右壁面に波紋が起こった。
波紋の向こうに、大切な人の姿を見た気がする。
「――アドルファス王太子殿下?」
直感的に『彼が危ない』と思った。
揺らぐ壁面に手を伸ばす――ヌルリとした感触。
私の体は一瞬で壁面に呑み込まれた。
* * *
マイルズは姉が寝泊まりしている客間の隣室をあてがわれている。
夜中、息苦しさを感じてベッドから身を起こし、奇妙な衝動に突き動かされるように廊下に出た。
そして廊下の先を歩いている姉に気づいた。
姉はこちらに背を向けているので、マイルズには気づいていない。声をかけようとした刹那、姉が右壁面に手を伸ばし、吸い込まれるように消えた。
「――姉さん!」
マイルズは廊下を駆けた。
姉が吸い込まれて行った壁面に手を伸ばした瞬間、バチンと弾かれる。
マイルズは奥歯を噛み、キョロキョロと周囲を見回した。
彼は繊細であるがゆえに、昔からあらゆるものの気配に敏感だった。――それは人の心の動きであったり、場の空気の流れであったり、様々だった。マイルズ自身はそれを特別な能力だと認識しておらず、ただ『自分は神経質なのだ』と考えていた。けれど彼が空気を読む能力は、ある意味突出した才能である。
マイルズは勘に従って廊下を進んだ。
そして綻びを見つける――壁の一点に指先を伸ばすと、そこから波紋が広がっていった。
彼もまた異界に招かれた――常人のラインを越えたからだ。
マイルズは壁の中に引き込まれた。




