ビッグチャンス
――現在。
彼が十九歳、私が二十歳。
王女殿下が十八歳、隣国のアドルファス王太子殿下が二十歳。
さすがにもうそろそろ王女殿下の婚約を進める必要があり、隣国から使者を迎えることになった。
アドルファス王太子殿下本人は所用が立て込んでいて来られないということで、彼の叔父であるルードヴィヒ王弟殿下が代わりにやって来るそうだ。
先方の希望で、少人数の落ち着いた環境で話をしたいとのこと。
――そしてその場に、私も呼ばれた。
呼ばれた経緯は、またもや国王陛下からの依頼だった。
王女殿下は内気で初対面の人とうまく喋れないから、気心の知れている私が同席し、場の空気を和やかにしてほしいとのこと。
私はこの会合がかなり重要であると考えていた。
先方のルードヴィヒ王弟殿下は、国王陛下との交流は別途行うはずで、この茶会の目的は、『花嫁の人となり』をじっくり見極めるためではないだろうか。
というのも、本人の性格を事前に把握しておかないと、花嫁を隣国の王宮内でどう扱うのか、方針を決められないだろうから。
茶会は王宮のサンルームで開かれた。
当国の出席者は、王女殿下、そして私。
先方の出席者はルードヴィヒ王弟殿下、そして秘書の女性。
私の婚約者も警護と称して、部屋の隅に立ち、じっと様子を窺っている。
* * *
ルードヴィヒ王弟殿下の顔を見た途端、私はなんともいえない複雑な気持ちになった。
――たとえば急な坂道の途中に台車を置いて、ストッパーもせずにその場を離れようとしている人を遠目で見たら、『危ない!』と感じるだろう。『それ、勝手に転がり落ちて行きますよ!』と。教えてあげられる距離にいて、事故を未然に防げればいいけれど、自分にはどうにもできない時もある。
まさにそんな気分だった。
これからマズイ事態になりそうな気配があり、私はそれに気づいている。
だけど私には到底、王女殿下を救うことはできそうになかった。だって彼女は勝手に落ち込み、自分から不幸になっていくに違いないから。
ルードヴィヒ王弟殿下は三十歳と聞いていたが、見た目はもっと上に感じられた。
クマのような外見……といったら、クマに失礼だろうか。
理由はよく分からないのだが、彼と対面した際、背筋がゾッとするような、奇妙で嫌な印象を受けた。下卑ていて、不浄で、邪悪で、醜悪に感じられた。
王女殿下は『この人、気持ち悪い』というのを露骨に態度に出し、サッと視線を下げると、モジモジとドレスの布地を弄り始めた。
私はそれを横目で眺め、冷静になることができた。
……いけないわ。
初対面でまだどういう人か分かっていないのに、そんなあからさまな態度を取っては。
しかも相手は大国の王族で、格上も格上だ。そんな人を見下すなんて、外交上、とんでもなく失礼な行いに当たるだろう。『外見が気持ち悪いから、顔も見たくない、なるべく関わりたくない』なんてことは到底許されない。
挨拶を終えて一同着席し、テーブルを囲む。
……私がしっかりしないと。
深呼吸をして、改めてルードヴィヒ王弟殿下を眺めてみると、不思議なことに、先ほどの嫌な感じがしなかった。
私は上辺だけの愛想笑いではなく、自然と和んだ笑みを浮かべていた。
「こちらへいらっしゃる途中、コーツ渓谷には立ち寄られましたか?」
隣国からここへ来るには、ふたつルートがあるのだが、コーツ渓谷を通るのは南回りのルートだ。
ルードヴィヒ王弟殿下は片眉を上げ、私の問いに丁寧に答えた。
「いえ、興味はあったのですが、急いでいたので北回りのルートで来たのですよ。コーツ渓谷に立ち寄ったほうがよかったですか?」
「眺めは綺麗です。――ただ、私が今お尋ねしたのは、コーツ渓谷の名物料理を召し上がったかどうかを知りたかったもので」
「名物料理?」
「生芋を原料とした食べものなんですが、味がすごく不思議なんです」
「美味しいのかな」
「すごく美味しいというわけでもないですね。でも食感と風味が変わっているので、面白いというか、食べて損はないものです」
ルードヴィヒ王弟殿下は声を立てて笑った。
「それは気になるなぁ! 帰りに寄って、ぜひ食べてみますよ」
少し話してみて、楽しい方だわ、と思った。すごく話しやすい。
彼が続ける。
「実はね――コーツ渓谷にはもともと行くつもりではあったんです」
「あら、そうでしたか」
「といっても、目当てはオカルト関係なんですが」
「え」
私は目を丸くした。……聞き間違いかしら? と思えば、そうでもないようだ。
「コーツ渓谷の教会に、人魚のミイラがあると聞いたんですよ」
「そうなのですか? 初耳です」
当国のことなのに、ここで暮らしている私よりも、隣国のルードヴィヒ王弟殿下のほうが詳しいとは。
「私は世界各地に伝わる呪いや、不思議なアイテムを研究して歩いているんです。――ほら、物事って意外なところからヒントを得られることがあるでしょう? 私はオカルトを研究して、そこから何か治世に役立てるアイディアが得られないかと考えているんですよ。実際に自分の体で呪いを試したりもしますし」
考えてみれば、『聖女』の力――塩湖の浄化などは、オカルトの最たるものだ。
「まぁ……なんだか、聞いているだけでワクワクします」
ルードヴィヒ王弟殿下はこれまでに会ったことのないタイプの人で、存在そのものが驚きに満ちている。私は目の中に星が散ったかのような衝撃を受けた。
ただ、私は他人事なので楽しんでいられるけれど、ずっと近くで仕えている人はどうなのだろう。視線を転じると、ルードヴィヒ王弟殿下の隣に腰かけている秘書の女性は、『ああ、まったく』とげんなりした顔をしている。
けれど彼女、あるじのことを心から尊敬しているようで、対面した当初から、私にはそのひたむきさがひしひしと伝わっていた。
たとえば当国の王女殿下がルードヴィヒ王弟殿下に失礼な態度を取った際、秘書の女性はとても鋭い視線でそれを眺めていたからだ。
その凛とした佇まいを見て、私は彼女に好感を抱いた。――『愛する人を侮辱された』――彼女の視線の真剣さからそれを読み取れたので、真っ直ぐな人だなと思った。
たぶんこの女性は、ルードヴィヒ王弟殿下のことが好きなのだ。二十代半ばに見えるので、ふたりの年齢はそう離れていない。
なんだか微笑ましかった。
それに、私が先ほどコーツ渓谷の話を持ち出した際、『なんとか空気を和らげよう』という意図を察したのか、秘書の女性が感謝したようにこちらを見つめてきた。
私は長いあいだ、こういう『察することができる人』に出会いたいと願っていた。『察することができない人たち』にずっと心を踏みにじられてきたから。
だから目の前のおふたりと会話できていることが、素直に嬉しくて。
私がにっこり笑って秘書の女性を見つめると、それに気づいて相手もにこりと笑みを返してくれる。
ああ……心弾むわ。
* * *
「アドルファス王太子殿下はどんな方ですか?」
すっかりリラックスして私が尋ねると、
「ああ、甥っ子は私にそっくりですよ」
とのルードヴィヒ王弟殿下の答え。
「そうなのですか」
それなら楽しそうな方ね……きっと。
「見た目はすごく似ているんですがねぇ……ああでも、性格はあいつのほうが、ちょっと気取っているかな」
「まぁ」
この野性味溢れる見た目で、性格が気取っていると、なんだか生きづらそうだわ。
すると視界の端に、はっきりと顔を顰めている王女殿下の顔が映った。美しく小作りな顔も、あんなふうに機嫌が悪そうにしていると台無しである。
……ああ、ちょっとは我慢してください……私のほうが顔を顰めたくなってきた。
王女殿下は、アドルファス王太子殿下の外見が、目の前の叔父に似ていると知り、すっかり投げやりになっている。
――ただこれはやはり、私にとってチャンスかもしれない。
ここ最近狙っていたことが、実現する可能性が高まった。
王女殿下は心細さを感じているはずで、私がこれからする提案におそらく飛びつく。
それはつまり。
「あの」
少し改まった口調で切り出す。
「ルードヴィヒ王弟殿下――私、そちらの国で何かお役に立てないでしょうか。事務官として働きたい希望がありまして、言語のほうも、日常で困らない程度には習得済みです。私も王女殿下の嫁入りの際、一緒に付いていけたら嬉しいのですが――王女殿下のことも心配ですし、近くにいれば色々サポートできるかと」
これは賭けだ。
隣国に行ければ、婚約者との繋がりを円満に切ることができる。国益になるなら、婚約破棄もペナルティなしで処理してもらえるだろう。
とはいえ、いつまでも王女殿下の面倒を見るのはごめんなので、隣国に渡ったら、事務官として一生懸命働いて、それで生きていけるように頑張りたい。価値を示せば、王女殿下のおもりをさせておくにはもったいないと思ってもらえるかも。
――私は新しい扉を開ける。
もうここで足踏みはしない。
王女殿下がこれに飛びついた。
「え、ディーナが一緒に来てくれるなら、嬉しい! 私、ひとりでは心細いわ! ひとりじゃ絶対無理だもの!」
ちょっとそれは……私は呻き声が漏れそうになる。心で思ったとしても、隣国のルードヴィヒ王弟殿下の前で言っていい台詞ではない。
本来ならば彼女は、『ディーナは優秀なので、お役に立つと思いますし、ぜひ帯同したいです』くらいの表現に留めるべきだっただろう。話をスムーズに通すために私が有用であると保証した上で、控えめに『連れて行きたい』という自身の希望を述べれば十分だ。『ひとりじゃ絶対無理!』と断言してしまう女性を、一体誰が歓迎するだろう。
少し場が荒れたのだが、問題なのは王女殿下だけではなかった。
「え……!」
想定外のところから悲鳴のような声が上がった。
――私の婚約者だ。
壁際で警護をするという役割のはずなのに、彼自身が一番の危険人物になってしまっている。
彼は愕然とした顔で、ふらりと近寄って来ようとした。ただ、職務上ありえない行動であるので、近くにいた騎士に止められている。
私はすぐに視線を逸らし、『気づきませんでした』というフリをした。
――四年間、あなたにこうされてきたわ。たくさんされたから、存在を無視するやり方はちゃんと分かっているの。
ルードヴィヒ王弟殿下は眉根を寄せて私の婚約者を眺めたあと、改まった顔でこちらに向き直った。
「ああ、だが……あなたは確か婚約しているのでは?」
「ですが、単なる政略結婚の相手です。互いにとてもドライな関係でして。私が隣国でお役に立てるなら、それは当国の貴族として、重要な役目を果たせることになります。国王陛下もお喜びになられるでしょう」
「おお……なるほど?」
「それに彼はほかに愛する人がいらっしゃるようなので、別々の道を歩むことは、互いにとって良いことのように思えます。私はパートナーになる人とは、誠実に向き合いたいのです。そのため婚約者を尊重できない彼とは、やっていけないと思っていました」
とはいえ彼は私と婚約解消しても、愛する王女殿下と結婚できるわけではない。だけど彼はどうせ愛のない結婚をするのなら、私のように伴侶と愛し合いたい人間ではなく『互いに愛人を作って楽しんでやる』くらいに割り切れる相手を選ぶべきだ。
私が今したことは、決して褒められたことじゃない――重々承知している。ここまで公の場で洗いざらいぶちまけてしまうのは、はしたないかもしれない。
けれど私はこのチャンスを何がなんでも掴むつもりだった。
その覚悟が伝わったのか、ルードヴィヒ王弟殿下が口角を上げた。
「――では、ぜひお願いしたい! 歓迎しますよ!」
やった!
たとえ口頭であっても、契約は契約。当国の誰よりも圧倒的に立場が上の人が認めたのだから、これは法的文書以上の効力を持つ。
目の前のルードヴィヒ王弟殿下が私を受け入れた時点で、私と婚約者の婚約解消は決定した。あとは後日、書類にサインするくらいのことはするようだろうが、それはもう事後のあと片づけみたいなものだ。
私はホッとして頭を下げた。
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
婚約者が壁際でよろけているようだけれど、極力視界に入れないようにしていたので、彼がどんな顔をしていたのか、私は確認していない。