腹黒聖女は病んでます。 後編
ネヴェスァレの逆鱗に触れ、シャルリィルと共にダンジョンに入るまで休む事になったウルラト。
当然だが、普通は優勢に思えるネヴェスァレ達を一人残らず返り討ちにして、ピンピンしている。
何しろ、朝一で準備運動をする様に一回りした。それには流石のネヴェスァレ達も呆れた。
呆れはしたが、益々惚れ直してもいる。
だから、ウルラトも含め全員が深くは考えない。結局、誰も不幸になってはいないのだから。
「──あ、ウルラト様、此方等も可愛いですよ」
「それは“イスィナロヴァの兎”の御守りだな
その伝承に因んで、水難厄除を願う意味で冒険者が身に付ける事が多いものだ
特に可愛らしいから女性冒険者に人気が高い」
シャルリィルが手にしている兎の駆け跳ねる姿をモチーフにした銀のペンダントを見て、ウルラトが即座に店員顔負けの判り易い説明をする。
決して、営業妨害をしている訳ではない。
ウルラトからすれば、ある意味では見慣れた品。知らないと言う方が難しい物だったりする。
だから、ウルラトの反応は可笑しくはない。
ただ、少しばかりウルラトも追加で説明をするか僅かばかりだが逡巡した。
それを自分が教えても良いのか、と。
直ぐに考え過ぎだと自嘲する様に胸中で苦笑し、シャルリィルに説明する事にする。
ただ、それより先にシャルリィルが質問がする。
「男性は身に付けられないのですか?」
「自分で購入して身に付ける者は滅多に居ないな
恋人や妻、仲間や友人、或いは姉妹や娘と親い者に贈る為に購入する事は有るがな」
「そうなのですね」
「男が身に付けている場合、それは贈られた物だ
そして、贈った相手は女性になる」
「それはどうしてでしょうか?」
「男が女性に贈る場合は単純に相手の無事を願った御守りとしてだ
ただ、女性が男に贈る場合には、「無事、私の所に戻って来て」という意味を含む」
「──えっ!?、そ、それは……つまり、え~と……
そういう事なのでしょうか?」
「ああ、そういう事だ」
ウルラトの言葉に顔を赤くするシャルリィル。
手にしていたペンダントは二つ。
自分用と──ウルラトの分だ。
決して、其処までの深い意味が有る訳ではない。ただ単純に一つの御守りとして、と考えての事。
勿論、自分に協力をしてくれているウルラトには無事で有って貰いたいのだが。
流石に、それを聞いてしまうと躊躇う。
躊躇うのだけれど、手は戻すに戻せない。
別に慌てて戻して「誤解しないで下さいね!」と取り繕うつもりは無いのだけれど。
ウルラトの目の前で戻すのも失礼なのでは、と。
そんな言い訳を自分にしながら。
御都合主義な屁理屈で納得する。
「無事を願って贈るのですよね?」
「ああ」
「それでは、私からウルラト様に御贈りします」
「……なら、俺からもシャルに贈ろう
御互いの無事を願ってな」
「はいっ」
ウルラトの言葉に素直に喜び、嬉しそうに微笑むシャルリィル。彼女に悪気は無い。
しかし、その様子を見ていた店員は笑顔の下では罵詈雑言を向けていたりする。
シャルリィルに、ではなく、ウルラトにだが。
ウルラトからすれば、男の嫉妬など日常茶飯事。寧ろ、どうでも良くなってしまっている位だ。
ただ、彼等の気持ちも理解は出来る。
如何に数多の美女・美少女と爛れた関係を持ち、慕われていようとも。
恋人でも、婚約者でも、妻でもない。
どんなにイチャついていようとも、違うのだ。
その空虚さと葛藤。そして、嫉妬は否めない。
まあ、だからと言って男に優しくして遣ろうとは微塵も思いもしないのがウルラトなのだが。
そんな感じでニンコマョハホの街を巡る二人。
何故か、デートしていたりする。
いや、二人にデートしているという意識は無く、そんなつもりでもないのだが。
端から見れば、それはデートでしかなかった。
父娘に見られても可笑しくはない年齢差だが。
基本的にウルラトは見た目が三十代前半位。
若い内は老けて見られるが、今は若く見られる。その為、シャルリィルとは父娘ではなく恋人同士に見られてしまうのは当然で。
先程の様な感じで一緒にいるのだから。
傍目には恋人にしか見えないのが道理である。
因みに、ウルラトが贈られたペンダントの総数は身に付けられないの量だったりする。
ネヴェスァレとも御互いに贈り合っている。
ただ、最近は久しく貰ってはいなかった事から、ウルラトは懐かしさと同時に嬉しくも思う。
勿論、深読みはしていない。
其処までの自信家でもナルシストでもないので。
ただ、無自覚な人誑しだったりはする。
ウルラトからすれば慣れた事なのだが。
当然の様に「付けてやる」と言いシャルリィルの細く色白な首にペンダントを付ける。
それも正面から。目を見詰めながら。
それはまるで「これで御前は俺の女だ」と。
言外に宣言されている様にシャルリィルは感じて緊張と高揚で体温を上げ、顔を赤くする。
勿論、恥ずかしさも有るのだが。
其処で嬉しさが勝ってしまうのも乙女心だろう。
ただ、シャルリィルも遣られっ放しではない。
いや、別に誰も競っても争っても戦ってもいないのだけれども。
「それでは、私もウルラト様に」と言って。
正面からウルラトに付ける。
ウルラトは慣れているが、其処に必然性は無い。正面である必然性は全く無い。
ただ、其処にシャルリィルの──聖女たる所以の純真無垢な故の男誑しの魔性が潜む。
ウルラトでなければ、確実に勘違いしている。
どう考えても男には女性からのアプローチにしか思えない行動なのだから。
そのウルラトだが、全く意識しない訳ではない。ウルラトとて普通に男ではあるのだから。
ただ、豊富な経験から、そういった意味の意図がシャルリィルには無い事を察しているだけ。
そうでなければ、ウルラトも勘違いしただろう。
シャルリィルが付け易い様に身長差を考えて屈むウルラトではあるが、何しろ30センチ近い差だ。平場では、どうしてもシャルリィルも爪先立ちに。
そうすると、自然とウルラトに寄り掛かる訳で。正面からである以上、シャルリィルの豊かな実りはウルラトの胸に当たって潰れる様に変形。
しかし、それが微妙にバランスを狂わせる。
結果、支える意味で、ウルラトはシャルリィルの腰へと腕を回し。シャルリィルは頑張って付け様とウルラトに密着して顔を近付ける。
御互いに他意は無い。
しかし、その様子を客観的に見れば、白昼堂々と決して少なくない往来する人通りの有る真ん中で、人目を憚りもせず抱き合っている恋人。
そうとしか見えなかったりする。
見せ付けるつもりなど二人には無いのだが。
そんな事は周囲には知る由も無く、関係無い事。だから、勝手に嫉妬するのは勝手なのだが。二人に悪意や敵意を向けるというのも御門違い。
ただ、そうは言っても行き場の無い感情である。その矛先が何処に向けられるのか。
それは当人にも判らない事でもある。
向けられた方からすれば傍迷惑でしかないが。
付け終えるとシャルリィルは満足そうに微笑み、自分の胸元で一歩間違うと深く埋もれてしまう様に顔を出している兎を指先で摘まんで見せる。
それに応える様に、ウルラトも自分の胸元の兎を摘まんで見せれば、シャルリィルは更に喜ぶ。
何処からどうみても、恋人の遣り取りである。
暫し、笑い合い。それから歩き出す二人。
側を擦れ違った男達が俯く様子にシャルリィルは気付かなかったが、ウルラトは察した。
その為、これ以上の傷心の犠牲者が出ない様にと人気の無い場所へ移動しようとして──止める。
流石のウルラトでも、そんな下らない理由だけで人気の無い場所にシャルリィルを連れて行った後、誤解を生んでも困ってしまう。
流れで、そうなるのとは大違いなのだから。
結果、ウルラトは気にしない事にした。
何れだけ男達が傷心となろうが知った事か。
一人の美少女の笑顔の方が絶対に大事である。
そんな持論の下、更に多くの犠牲者を量産した。
そんな二日間の休日を経て。
ウルラトとシャルリィルはダンジョンに挑む。
尚、二日間で二人の関係が進展する様な事は無く変わってはいないのだが。
シャルリィルの中では、ウルラトに対する意識は夜に部屋で一人になると枕を抱き締め、ベッド上で思い出して嬉しくなって転がり身悶えする位には、大きくなっていたりする。
それを、どう考えているのかは別にしても。
シャルリィルにとっては勇者と共に居た時よりもウルラトとの一時の方が充実している。
それだけは間違い無い事だと言える。
「……流石に誰も居ませんね」
「まあ、まだ未明だからな」
そう言いながら、ボラデ大森林を歩く二人。
まだ陽が上るには早い時間。
それでも空を覆う夜の帳は薄らいでいる。
ただ、二人が居るのはダンジョン。自然であり、自然ではない。
その為、光を拒むかの様に鬱蒼と生い茂る木々は大森林を闇夜よりも深い暗闇の中に抱く。
慣れている、対処可能なスキルが有る。
そう冒険者であれば、考えるし、口にする。
しかし、それでも、この時間帯に好き好んで態々入ってくる様な冒険者は先ず居ない。
その事実が、ダンジョンを侮ってはならない事を如実に物語っていると言えるだろう。
例え、其処までは考えてはいないのだとしても。それが常識だと認識しているのならば。
夜の明けぬ内に自然フィールドのダンジョンには入らない事が命を長らえる。
そう理解しているのと同じだと言えるのだから。
そんな夜が明ける前のダンジョンは徘徊しているモンスター達が一際獰猛で狂暴で好戦的になる。
過酷さが一段も二段も上がっている、その中を。ウルラト達は淡々と歩を進めている。
ウルラトの実力は勿論だが、シャルリィルの方も決して足を引っ張ってはいない。
圧倒的・大楽勝とまでは行かないものの。自分に襲い掛かってくるモンスターは自分で倒せる。
先日の件は、本当に偶々ミスをしただけの話。
勿論、そんな些細な小さな一つのミスですら死に直結するのがダンジョンではあるのだが。
それはダンジョンに限った話ではない。
だから、シャルリィルも反省はしても引き摺る程思い詰めたりはしていない。
勇者を支える聖女というのは伊達ではないのだ。
「この時間帯にダンジョンに入るのは初めてか?」
「はい、洞窟や迷宮を出たら、まだ外が暗いという事は何度も有りましたが……
夜明け前の自然フィールドダンジョンに入った事は一度も有りません」
「まあ、見ての通りだからな
普通、好き好んで入る奴は居ない」
そう言いながら戯れ付いてきた犬や猫を扱う様に暗闇から音も無く飛び掛かって来たボラディガル・ピューマを二体続けて見向きもせずに瞬殺。
既に感覚自体が麻痺しているかの様に、暴君的なウルラトの圧倒的な強さに疑問すら懐かなくなったシャルリィルは自分の役割に集中。
流石に見向きもせずに、とまでは行かないものの労せず、油断せずにモンスターを倒す。
モンスターからすれば、何方等が襲っているのか判らなくなってしまう程の圧倒的な実力差。
その為、当ダンジョンの食物連鎖の下位者達は、総じて二人から距離を取るか、身体を震わせながら嵐が去るのを待つ様に息を潜め、動かない。
因みに、こういった事は自然界では珍しくないがダンジョン内では実は非常に珍しかったりする。
基本的に弱いモンスターを倒し続ける様な真似を遣っていても何の旨みも無い。
だから、より強いモンスターの居るダンジョンに挑むのが冒険者の、この世界の常識。
その為、モンスターが怯えて近付かないといった現象は滅多に無い事。
シャルリィル自身、予めウルラトに説明をされて理解していたから驚きはしなかったが。
明らかに此方等に対して向けられている恐怖心を感じ取ると少々複雑な気持ちにもなる。
だからと言って、モンスターに同情などする事は聖女だとて微塵も有り得無いのだが。
いや、寧ろ、聖女だからこそ、だろう。
聖女が価値観を振らしていたら話に為らない。
そんな訳で、二人の進行は楽だったりする。
勿論、ウルラトが意図的に己の存在感を消したりすればモンスター達は群がってくるのだが。
今回は余計な邪魔が入らない事が最優先。
だからこそ、冒険者の少ない、この時間帯を態々選んで遣って来たのだから。
そんな馬鹿馬鹿しい事を「見ていろ」と自慢気に遣って見せて無駄な時間を割く事はしない。
ウルラトの承認欲求は一人の男としてのみ。
冒険者としては悪戯に目立つ気は無く、自慢気に手の内を晒す様な馬鹿な真似もしない。
それが原因で命を落とせば、他人の笑い話の種。自分には不名誉なレッテルしか残らないのだから。
ボラデ大森林を進み、目指すダンジョンの一角。
ボラデ大森林のダンジョンボスはアカラージャ・ガガラカガラガララ。
体長20メートルは有る玉虫色の大蛇。胴回りも3メートルは有り、大きな顎で捕らえれば、軽々と人を丸飲みに出来る。
硬い鱗の上に覆い被さる様に生える毛を針鼠等と同じ様に逆立てて攻守に用いてくる。しかも、毛に麻痺毒が有る為、気を付けなくてはならない。
その出現条件はボラデ大森林内に有る三つの泉の何れか一つに、五十匹以上の倒したモンスター達の屍を入れる事。他所からの持ち込みや、当日以前に倒した屍の持ち越しは不可。同一個体をバラバラに分けても一匹分としかカウントされない。
当日の、ボラデ大森林のモンスターの屍でのみ。青く澄んだ泉が、呪われた様に黒く赫く染まる。
因みに、屍は丸々ではなくても有効である事からウルラトは取れる素材は取る事にしている。
少しでも今回の依頼の報酬額を減らす為にもだ。
そうして、あっさりとダンジョンボスを出現させ二人は倒さず、しかし、挑発しながら移動。
ダヴラナラヴダ洞窟の中へと向かう。
第一段階の成功にシャルリィルは安堵。一方で、ウルラトは違う意味で安堵していた。
今の自分であれば、亜種──レア個体が出現する可能性が低くはないだろうと考えていたウルラト。そうなると色々と条件が変わってくる。
だから、こうして通常個体である事に安堵した。下手に知られたくはない情報でもあるのだから。
洞窟に入り、ウルラトのシミュレーション通りにアカラージャ・ガガラカガラガララを連れながら、次のダンジョンボスの出現条件を満たす。
出現したダヴラナラヴダ洞窟のダンジョンボスのヒュドマス・ヴァルパダスを加え、軽く戦闘しながら最後の移動。
ウルラトが決戦場に選んだ場所は“嘆きの窟”と呼ばれている洞窟内では中規模の広さのホール。
特徴としては、鍾乳石の様に天井から垂れ下がる岩が全体を覆い、顎を彷彿とさせる様に彼方此方に地面から突き出した鋭い岩が有る。宛ら巨大な口と噛み殺そうとする牙の様である。
はっきり言って、冒険者には不人気の場所。
理由を訊けば、「だから、選んだ」とウルラトは然も当たり前の様に答えるだろう。
しかし、勿論、それだけが理由ではない。
その答えをシャルリィルは直ぐに実感する。
眷族を召喚するヒュドマス・ヴァルパダスと戦う場所とすれば、好ましくはない。
自分達の動きを阻害し、制限するのだから。
だが、巨大なダンジョンボスを二体も相手にし、尚且つ、同時撃破を達成しなければならない。
この場合、如何にしてダンジョンボス同時撃破を可能にするのかが最重要課題となる。
其処でウルラトが考えたのが小さく、二人だけの自分達には影響が小さくて、ダンジョンボス達には大きな影響を与える場合として、此処を選んだ。
現にヒュドマス・ヴァルパダスは眷族を召喚し、二人を攻撃させようとするが、巨体で身動きし辛いアカラージャ・ガガラカガラガララに眷族は潰され全く役に立ってはいない。
加えて、御互いが邪魔で、絡まり、苛立ち。
ウルラト達を無視して攻撃し合い始めた。
これもウルラトの狙いの一つ。
連動型だが、同じダンジョンから生まれていない両者は決して仲が良い訳ではないし、協力しようと意志疎通を図っている訳でもない。
ただ、同じ様に侵入者を倒そうとしていただけ。
そして、それは御互いの存在も例外ではない。
息を潜め、気配を消し、無駄な事は一切せず。
同時撃破の一瞬のチャンスを見逃す事無く。
ウルラトは二体のダンジョンボスを仕留めた。
勿論、これで終わりではない。
何しろ、今回は此処からが本番なのだから。
通常であれば、主のダンジョンボスが倒されると新たなモンスターは誕生しなくなる。
冒険者達が全員外に出るか、日付けが変われば、ダンジョンは再生し、再びモンスターも生まれるが一時的にダンジョンは機能を停止する。
その為、独特の静寂が訪れるのだが。
ウルラトでさえ、初体験となる緊張感。
まるで、全ての音源を停止させたかの様な静寂に否応無しに息を飲む。
その静寂の中、硝子が、卵殻が割れる様に。
ホール中央の空間に黒い罅が走る。
ウルラトは経験から、一瞬で危険性を察した。
シャルリィルを抱き寄せ、【亜空間収納】により滅多に使う事の無い楯を目の前に呼び出す。
それは手に持つ類いの物ではない。
九重に重なる巨大な門扉の様な楯。
日に一度しか使えないが粉々に壊れてしまっても亜空間内で自動再生するスキルの様な性能の防具。
俗に“神器”と呼ばれる類いの世界に一つの物。
「出し惜しみをして死ぬのは馬鹿だ」と言い切る事が出来るウルラトならではの即断即決。
そして、それが見事に正解だったと直ぐに判る。
黒い罅が一気に広がり──虚空が爆ぜる。
空振というレベルではない。
ホール内の凹凸を全て吹き飛ばす様に閃光が奔り視界すらも飲み込んでいった。
視界が戻り、一時的に停止した思考が再起動。
今、自分達が置かれている状況を把握・理解し、冷や汗が伝う中、呼吸する事を思い出す。
ウルラトだけではなく、シャルリィルもスキルを出し惜しみする事無く使用。
瞬間的に発動させられる限りのスキルを多用し、二人は無傷で立っていた。
だが、ホールの面影は殆んど無くなっている。
ウルラトの楯、二人のスキルによって、円錐状に残っている僅かな範囲を除いて。
その現実を直視し、シャルリィルは後悔した。
血の気が引く、というレベルではない。
それは少し考えれば判る事だった。
この情報は口伝であり、かなり古い物。
継承してきた内容に変異は無かったのだとしても欠落している可能性は十分に有り得た。
それを失念し、ウルラトを巻き込んでしまった。
しかし、ウルラトが居てくれたから。
ウルラトだったから、自分は生きている。
その事実に感謝し、絶望に飲まれ消え掛けていた闘志を再び燃え上がらせる。
そんなシャルリィルの気配にウルラトは安堵。
視線を向ける事も難しい状況であるが故に、自ら立ち直ってくれた強靭な意志に称賛を送る。
その一方で、シャルリィルと同じ様に反省。
自身の迂闊さに自分を殺す勢いで殴りたくなるが今は遊んでいる余裕が無いので切り替える。
二人の視線の先──ホールだった場所の中央。
其処に居るのがヒュプニツプ・ヒドゥビトゥン・スプツニツピュラピス。
「これは亀だ」と言われれば、亀なのだろう。
ただ、率直な見た目の感想は──毛玉。
宙に浮かぶ直径5メートル程の毛糸玉の様な姿。しかし、よく見れば、モジャモジャとしている毛は蠢いている数多の蛇。伝承通りならば毒蛇だろう。喰らい合う様子は無いが、見ていて気持ちの良い物とは言えないのが正直な所。
勿論、その程度で戦意に影響が出る事は無い。
そんな事では冒険者など遣ってはいられないし、ダンジョンに挑むという事も出来無いのだから。
その毛玉が、ゆっくりと地面に降り、毒蛇の間を押し分ける様にして伸び出した六脚が地面を掴む。軽々と食い込む様子が爪の鋭さと硬さを物語る。
鎖を引く時に出る金属が擦れ合う様な音を響かせ蠍の毒針を思わせる三つの尾が現れ、別々の意思を持った生き物の様に靭やかに揺れる。
最後に植物が芽を出す様に伸び上がりながら姿を見せたのは蜘蛛の様な赤黒い光を宿した八つの眼に珊瑚の様な硬質感を持つ鶏冠を持った、全体的な形だけは亀に近いと言える長い首と頭。
宛ら、犬や猫が寝起きに背伸びをしながら小さく身震いする様に身体を震わせると二人を真っ直ぐに見据えてきた。
「嗚呼、随分と久し振りの客じゃないか」とでも言うかの様に僅かに目を細め──口角を上げた。
その仕草にウルラトはダンジョン創造者の悪意が詰まった存在である事を確信する。
そうでなくても出現時には強制的に挑戦者に対しスキルや装備・アイテムを消費させ、連戦する上に致命的なダメージを与えてくるという罠が有った。
「これ位じゃ、死なないよな?」と挑発的に嗤うダンジョン創造者の声が聞こえてきそうな程に。
ただ、ダンジョンボスである事には違い無い。
ならば、絶対に倒せない様な仕様ではない。
必ず、倒す事は出来る。それがダンジョンボス。
ただ、その難易度が最上級であるというだけで。絶望する方が楽な程の難易度なだけの事。
そう、それだけだ。
それが判るからこそ、ウルラトは舌打ちしたく。状況を忘れて楽しくなってしまう。
それを知っているからこそ。
ダンジョン創造者の想像を超えて遣りたい。
つい、そう思ってしまう。
取り敢えず、ウルラトは【鑑定】を試みる。
しかし、予想以上の情報は得られない。
【鑑定】は有効だが、初見では得られる情報には制限が掛けられている。
それはつまり、勇者であろうとも攻略本みたいに親切丁寧に情報を与えられはしない。
【鑑定】等の便利なスキルは優遇されてはいるが自身の強さや生存率には直結しない。
それらは飽くまで自ら培い、鍛えるしかない。
どんなスキルも補助でしかないのだから。
「シャル、予定通りに行くぞ」
「はい、それでは──参ります!」
ウルラトの腕の中から飛び出し、真っ直ぐに駆け出して向かってゆくシャルリィル。
聖女、と聞くと先ず後衛のエキスパートといったイメージが思い浮かぶかもしれない。だが、実際の聖女というジョブは後衛は勿論、前衛も熟す。
その能力や固有スキルは勇者にも匹敵する最上級ジョブの一角。単純なバランサーではない。
シャルリィルは【聖闘気】を発動させると全身に淡い銀の輝きを纏う。
身体能力・全属性耐性・ダメージ緩和を強化するハイスペックなスキル。
しかし、その使い手は聖女の中でも百年に一人と言われる程に限られた者しか獲得出来無い物。
そんなスキルを持っているシャルリィルが如何に聖女として優れているのか判る事だろう。
シャルリィルは今回の戦闘専用の装備を整えた。手にしているのは普段は滅多に使う機会が無くて、彼女の【アイテムボックス】に死蔵されていた品。全長が2メートルも有る両手剣。本柄に対し直角に伸びている補助柄を持つ事で女性でも扱える。
まあ、聖女の様な上級ジョブだからだが。
勇者のパーティーでは後衛に回り、サポート役がメインだったシャルリィルではあるが、聖女として勇者に出会うまではソロで戦っていた。
その当時、愛用していたのが手にする両手剣。
その戦い振りから“微笑みの戦乙女”と呼ばれた過去も有る程だったりする。
シャルリィルと話し合い、ウルラトは前衛に出し短期決戦に持ち込む事にした。
後衛専任では勿体無い。能力は活かしてこそだ。
集中し、怯む事無く突っ込むシャルリィル。
強くも歪んだ信仰心を持つ者に多く見られ勝ちな自爆特攻とは違う。
結果的に命を落とす事が有るのは仕方が無い事。常に命懸けで挑んでいるのだから。
しかし、シァメ真教会の教義は生きて尽くす事。それ故に自らの命を安売りする真似はしない。
だからこそ、ウルラトはシャルリィルを信頼し、共に戦う事に迷いは無い。
シャルリィルは肉薄するのと同時に速度は緩めず両手剣を振り抜く。負荷も大きく屈強な歴戦の男の冒険者でも遣りはしない一撃。それを躊躇わない。
毛玉の様な巨躰を一息に両断しようとする。
しかし、毛や糸ではないし、草木の枝葉とも違う弾力の有る肉塊の鎧。
数十匹の毒蛇が断ち斬られようとも構わない。
それにより勢いと威力は殺がれ、刃は肉塊の圧で挟み込まれる様に止まる。
当然、シャルリィルは強制停止させられる。
その一瞬を狙って蠍の尾が襲い掛かる。──が、シャルリィルは迷わず両手剣を手放して回避。
大きく飛び退き、間合いを取った。
空振りとなった尾が地面を貫き、突き刺さる。
その陰──死角から伸びた手が両手剣を掴む。
間を開けて接近したウルラトがシャルリィルより格段に強い膂力を以て力任せに振り抜く。
両断、とまでは行かないが、大きく毒蛇の肉鎧を斬り裂き、鋒が本体に小さな傷を刻む。
それにより、大きな絶叫が響き渡る。
「鎧の下は随分と敏感な様だな」と。
相手と場所と状況が違えば、そう言われた相手が赤面しているだろう感想をウルラトは懐く。
同時に長引かせると厄介である事も確信する。
この手の相手は本体へのダメージが入り始めると超守備的になり、持久戦を強いてくる事が多い。
そうなれば、ウルラトも流石に手の内を晒す事を余儀無くされてしまう。それは避けたい。
だからこその短期決戦でもあるのだから。
絶叫の後、憤怒を露にしてウルラトを睨み付けて攻撃しようと動く。
しかし、それよりも一手早くホールに光が奔る。
シャルリィルの【ホーリー・ライトニング】には一定範囲内の対象への同時均等攻撃と、一対象への集中攻撃の効果選択が備わっている。
ウルラトはシャルリィルに身体を覆う毒蛇全てを対象とする様に予め指示していた。
それ自体はスキルの自動補助も働く為、可能な事ではあるのだが。対象の全指定が完了するまでには数が多ければ多くなる程に時間が掛かるもの。
それを略数秒と掛からずに完了させられたのは、間違い無くシャルリィルの能力である。
ただ、シャルリィル自身、二つの勇者パーティーでの経験から考えると、驚くしかない早さだった。
それはつまり、それだけウルラトと共に戦う事はシャルリィルの能力を存分に発揮出来る事の証。
事実、今のシャルリィルは、一対一で戦っている感覚に近い集中状態。勇者パーティーでは後衛の為全体に気を配る必要が有った。しかし、ウルラトの場合には気にしなくていい。寧ろ、ウルラトの方がシャルリィルを気遣い、フォローしてくれる。
シャルリィルにとって、こんなにも戦い易い事はソロで遣っている時以外には無く。ウルラトとならソロ以上に戦い易い。その為、集中は増し、戦意も高揚していくのは仕方が無い事だと言える。
勇者を助け、支え、尽くすのが聖女。
しかし、その能力は寧ろ、勇者が後衛に回る方が遺憾無く発揮されるという皮肉さ。
その上、シャルリィルは特に攻撃型な聖女。
所有するスキルを聞いたウルラトが「勇者よりも勇者らしい活躍が出来るな」と思った程だ。
その実力は紛れも無く、世界有数である。
防御も回避も許さず、毒蛇を襲った聖雷。
一対象への集中攻撃なら、均等攻撃の十倍程だ。だが、毒蛇は本体に繋がっている。繋がっていない状態だったとしても身を覆う以上、本体に逃げ場は存在していないのも同然。
つまり、今回に限れば均等攻撃をした方が与えるダメージ量は圧倒的に上回る。
その総計ダメージは集中攻撃の比ではない。
現にウルラトが【鑑定】すると圧倒的だった筈のHPが一撃で三割近く削られている。
数値ではなく、バー形式でしか判らないが。
そんな事は問題ではない。
単純に考えれば、後二発と他のダメージで十分に倒す事が出来る計算になる。
勿論、そんなに甘い訳が無い。
【ホーリー・ライトニング】にはスキル使用後、再使用までにインターバルが有る。
その上、シャルリィル自身には攻撃制限が付く。シャルリィル以外のパーティーメンバーがスキルを使用してダメージを与えなくてはならない。
つまり、シャルリィル単身での連続使用は不可能という事。それだけ強力なスキルだという事だ。
ただ、それはウルラトも事前に知っている訳で。何の用意も無しにシャルリィルに切り札とも言えるスキルを使わせはしない。
忌々しくシャルリィルを睨み付ける。その視界の端から染めていく様に、再び光が奔った。
ウルラトは聖女ではないし、聖女にはなれない。当然、【弱肉強食】の様なスキルも無い。
だが、奥の手が無い訳ではない。
それが、エクストラスキル【百花繚乱】。
自分が所有してはいなくてもスキルの事を知り、尚且つ、それを一定時間内に誰かが使用していれば模倣、或いは輪唱をするかの様に同じスキルを使用可能という反則的なスキルである。
初撃という事で、必ず、シャルリィルへと意識が向く事を読んで、【百花繚乱】により【ホーリー・ライトニング】をウルラトは使用した。
当然ながらシャルリィルからスキルを聞いた際に自分のスキルの事も説明し、この作戦を提案した。
だから、シャルリィルも迷わずに次を撃てる。
ただ、通常であれば、まだ先程のインターバルが終わってはいない。撃つ事は出来無い。
しかし、シャルリィルにも奥の手は有る。
ウルラトも持っている【双極の連撃】という名のエクストラスキルだ。
このスキルは一度使用すると再使用まで1時間のインターバルが有るが、その効果は他のスキルでのインターバルを一度だけ無視した使用が出来る事。飽く迄もインターバルだけにしか有効ではないが、今回は最適だと言える。
油断する様子も無いウルラトを憤怒から憎悪へと感情を深めながら睨み付けようとした矢先。
シャルリィルの【ホーリー・ライトニング】が。
まさか、二人を相手にしているとは思えない程の連続攻撃を受け、あっと言う間に残りのHPバーは1割を切ってしまった。
これがゲームであれば、ボスの攻撃パターン等が変わったり、再びHPが全快する、という挑戦者を嘲笑い絶望させる様なギミックの仕様も珍しくない事だったりするだろう。
実際、ダンジョンボスや特殊なモンスター等にはそういった展開が待っている事は多々有る。
ただ、これはゲームではなく、現実。
つまり、態々待っている必要は無い。
何かをしようとしていたとしても。
何かが起きるのだとしても。
“条件を満たしてから”という制限が付く以上、自らのタイミングや判断で遣っている訳ではない。
それ故に、不可避のタイムラグが生じる。
しかし、その間は全てを無効化したり出来る様な所謂“無敵状態”になる訳でもない。
それを待って遣る程、御人好しではない。
そう言わんばかりに、動きの止まった一瞬の内にウルラトは手にしている両手剣と、自分が愛用する日本刀──此方等では“刀”でしかない──を持ち肉薄して仕上げに掛かる。
豊富な戦闘経験からウルラトは最も安定している与ダメージは純粋な物理攻撃だと考える。
攻撃に属性が付けば、或いは弱点の属性を突けば与えるダメージ量は格段に上がるのは確かだ。
ただ、それらは何れも特化している方法。決して万能とまでは言わないまでも、汎用性に長けた方法だとは言い切れない。
だから、ウルラトは無属性の攻撃を尊ぶ。
それから自身の能力を強化するスキルには属性が有ろうとも攻撃には影響が出ない。それも考慮し、ウルラトは強化を積む。
その上で無属性の武器を使用するのも拘りであり武器を変えるだけで属性特化としても使える。
地味だが、これが有効な事を自ら証明してきた。
両手に持つ武器で十二連撃する【双刻】。
手にする武器を用いて攻撃するスキルの攻撃回数を二倍にする【影之刃】。
剣スキルの攻撃回数を三倍にする【隼之剣】。
これらの同時発動で行う七十二連撃。
問答無用の純然たる破壊力。
だが、これは誰でも出来る事ではない。
スキルの同時使用や複合使用という事には専用の補助スキルが有れば気にもしないのだが。
普通は出来無いし、遣ろうとすら思わない。
常時発動型の強化系スキル等の重複とは違って、任意発動型のスキルの併用は使用者に著しく負荷を掛けるし、反動や副作用も出る。
その為、正気であれば遣らない事だ。
しかし、若かったウルラトは失う物は無い事から自らを虐め抜き──それを可能とした。
【影之刃】も【隼之剣】も一見すると補助の様に受け取り勝ちなスキルなのだが、これらは自動適用されるスキルではなく、任意発動のスキル。
つまり、何方等も発動後に使用するスキル1つを対象として効果を発揮するもので、重複はしない。
それは補助スキルでは不可能な領域。
文字通り、ウルラトが執念で体得した極地だ。
シャルリィルはウルラトの姿に思わず魅入る。
どんな勇者にも不可能な事を。
目の前の人物は独力で成し遂げたのだ。
勇者は十二人も居るし、絶える事は無い。
それでも、誰一人として勇者という枠を越えて、その先に至った者は皆無である。
それを理解すればこそ。
シャルリィルは無意識に両手を組んでいた。
奇跡の体現者。
それを勇者と呼ばずして、何と呼ぶべきなのか。
ジョブとしての勇者ではない。
人としての勇者が、今、目の前に居る。
そうウルラトを見詰めながら思ってしまうのは。仕方の無い事だろう。
ダンジョンボスが光の粒となって霧散する中。
二人の頭の中に響くのはダンジョンボスを倒した専用のシステムアナウンス。
少なくない経験が有る為、二人共聞きながらでも問題無く状況把握や周辺確認、そして素材の回収を平行して行う事が出来る。
ダンジョンボスが残した素材は三つ。特殊条件を満たしたからだとシステムアナウンスで理解。
視線でシャルリィルに確認するとウルラトは目的以外の二つは【アイテムボックス】に収納する。
そして、舊亀の紅玉はシャルリィルに手渡す。
こっそりと【鑑定】し、詳細を確認する。
それによると、舊亀の紅玉というのはアイテムで条件を満たした使用者であれば、あらゆる病を治す事が出来る物らしい。
一対象、使い切りのアイテム。
その情報からウルラトは、コレをシャルリィルが必要とするのは病の治療である事を確信する。
また、ウルラトに対してアイテムに関する情報が伏せられていた事から考えると訳有りだと考えられウルラトも追及しようとは思わなかった。
その事情を追及すれば自分へ返ってくる可能性を考えられない程に浅慮なウルラトではない。
それに、依頼が無事完了すればシャルリィルとは何の問題も無く別れる事が出来るのだ。
好奇心で墓穴を掘るウルラトはではない。
だから、御互いの健闘を称えながら帰還する。
二人が洞窟を出たのは夜が明けたばかりの頃で。数は少ないが、早朝から挑む冒険者のパーティーと擦れ違う際にはダンジョンボスを倒したという事を伝えておく事も忘れない。
こういったマナーは地味に大事なのだから。
館に付くと一旦別れ、汗や汚れを落としてから、少し遅い朝食を一緒に取った。
依頼も無事に成功し、気楽に談笑しながら。
まるで、恋人であるかの様に。
その様子からは、各々に相手には言えない本音を抱えているとは周囲は思わなかった事だろう。
朝食を済ませた後、各々の部屋へと戻る。如何に余裕は有ろうともボス戦後。疲労は否めない。
実際、シャルリィルは張り詰めていた緊張感から解放された事で、本人が眠気や疲労感を自覚しないままに眠りに落ちていた。
どんなに優秀でも、普通はそうなる。
一方のウルラトはと言うと。部屋には戻ったが、正直に言って暇を持て余していた。
ネヴェスァレから「休みなさい」と言われている事も有って依頼を受けたり、ダンジョンに行く事はしない様にしたのだが。
その為、特に遣る事も無くなってしまった。
これが夜なら、それなりに予定が出来るのだが。流石に昼前からでは難しい。一時的な時間潰し程の事なら適当に足を運んで回れば可能だとは思うが。今は、そういう気分ではなかった。勿論、自分から動く気が無いだけで誘われれば別である。
そういう訳で、ベッドに寝転んではいるのだが。シャルリィルとは違いウルラトは、まだまだ元気。もう二~三度、同じ事を遣っても大丈夫。
まあ、遣る度に効率も良くなり、無駄を省きつつシャルリィルとの連携や意志疎通も改善・向上する事だろうから、相対的に負担も減少していくので。一発勝負だった今回よりも容易くなる事は確実だ。
現実としては、当分は再挑戦は不可能だろう。
そういう意味では自分達は運も良かった。
そうウルラトは今回の一戦を総評した。
──と、一区切りした所で、思考を切り替えると外に出掛ける事にした。
このままベッドに寝転がっていても眠たくもない状態では眠れそうにもないし、暇なだけ。
気分転換も兼ねて適当に街を散歩でもしよう。
──そんな風に考えていた頃の自分をウルラトは全力で殴りたくなる。
基本的にウルラトは悪目立ちする事や面倒な事は避ける様にしている。まあ、大体の者がそうだが。前世と比較すると厄介さが違うからだ。
ただ、それでも思わず手を差し伸べてしまうのもウルラトらしい所だったりもする。
決して、御人好しではないが。
「適当に時間を潰せればいい」と考えていた為、特に目的も無く散歩していたのが悪かったのか。
それとも、具合の悪そうな女性を見付けてしまい声を掛けてしまったのが悪かったのか。
或いは、その女性に感謝され、誘われるがままに身体を重ねてしまった事が悪かったのか。
ウルラトの目の前では二人の女性が睨み合う。
片方が助けた女性なのは言うまでもないだろう。問題なのは、もう一人の女性の方である。
その女性の息子の嫁であり。
実はウルラトとも既知の関係。そう、例に漏れず会えばウルラトを求める女性の一人である。
ただ、助けた女性と一緒に居る所を見られたなら誤魔化し様は幾らでも有ったと言える。
しかし、本の少しのズレが運命の悪戯なのか。
その助けた女性が家族への御土産を買う為に店に入っていた時、女性を探していた女性の息子の嫁である彼女が通り掛かって、ウルラトに抱き付いた。仲間や友人の抱擁とは違う、男女の抱擁。
その現場を、買い物を終えた女性が見てしまう。
そして、バッチバチに始まったのが女の戦い。
女性は嫁の息子に対する不貞を怒るが、嫁は嫁で義母の義父への不貞を指摘。
御互いに身を以て知っているが故に判る。
ウルラトと一緒に居て、「何も無かった」なんて先ず有り得無いという事を。
それ故に泥沼化している。
御互いに向けて振るわれる罵詈雑言の鋭い言刃は放てば放つ程に自らも傷付ける。
正に両刃だったりするのだが。
感情的になっている二人は止まらない。
自分を傷付けながら相手を攻撃する姿は捨て身と呼ぶにはあまりにも滑稽であり、醜いと言える。
しかし、自分が原因である為、ウルラトとしても指摘し辛いし、片方の味方もし難い。
関係──付き合いの長さを考えれば嫁の方だが。だからと言って、先程まで求め合っていた姑の事を見捨てる様な真似も出来無い。
所謂、“板挟み”の状態だと言えた。
それでも、救いが有るのだとすれば。
幸いにも──と言うのも、普通は可笑しいのかもしれないのだが、場所を選ぶ程度には冷静な事。
「心配しましたよ、御義母さん」と笑顔の嫁と。笑顔で「有難う、この方に助けて頂いたの」と言い空いている方の腕を取ってきた姑。
そのまま「うふふ」「あはは」としか言わないで連れ込まれたのが、今居るホテルの一室。
因みに、先程まで姑の女性と一緒に居たホテルは別であり、二人が家族で泊まる宿でもない。
当然ながら、ホテル代は何方等もウルラト持ち。その辺りの無条件の判断もウルラトが人気の理由。ウルラトにすれば染み付いた習慣でしかないが。
普通なら、頭を抱えたくはなる状況。男にとって良い結果には先ず成らないだろう。
しかし、ウルラトにとって初めての事ではない。慣れてはいないし、平気という訳でもないのだが。こういう状況の落とし方は知っている。
知らない方が、人としては真っ当なのだろうが。ウルラトは成り行き上、経験してきた。
決して、好き好んで自分から作った訳ではない。飽く迄も、今回の様に運命の悪戯で、である。
さて、その打開策なのだが。
ウルラトは二人に構わず無言で服を脱ぎ始める。此処で二人を気にしてはならない。堂々とだ。
それを視界に入れた二人は意識も勢いも削がれ、破裂寸前だった感情が萎む様に声が小さくなって、気付けば言葉は途切れている。
ウルラトの身体を見て御互いに喉を鳴らした事を合図に顔を見合わせると黙って頷き合った。
嫁姑という立場は違っていても同じ女性である。ウルラトを前にして考える事・望む事は同じ。
彼是と考える事は止め、只管にウルラトを求め、貪り、貪られるだけだった。
そんな二人だが、別れる頃には「あの罵詈雑言は一体何だったんだ?」と思う程に仲良しに。
嫁姑という立場を越えた絆が二人を繋ぐ。
分かち合える秘密を共有すればこそ、女の友情は強く確かなものとなる。
そんな事を何処かで聞いた様な気もする。
だがまあ、深く考えないのがウルラトの精神的な安定を保つ秘訣だったりする。
トラブルを望んだ訳ではないが、結果的に見れば時間を費やす事にはなった。
ネヴェスァレとの夕食に間に合う様にウルラトは戻って、シャワーを浴びる。
向こうを出る前にも浴びてきたが、それはそれ。着替えを含め、きちんと身形は整える。
それがネヴェスァレ達への敬意であり礼儀。
親しいからと甘えてしまうと相手の評価や立場を悪くする可能性も有るのだから。
それから、外から戻って来た時に、夕食を終えて部屋に戻る途中のシャルリィルに会った。
疲れが残っている様子も無く、改めて感謝され、報酬の支払い──情報の提供は明日、行う事に。
盗聴等の対策としても、此処の一室を借りて行う事が最も信頼出来るという事も大きい。
尚、普通なら同じ様な用途を含む冒険者ギルドの一室を借りる事が多いのだが、今回の依頼は冒険者ギルドを通さずに個人の間で成立している事から、ギルドを利用する事は控えるのが、冒険者としてのマナーだったりする。
勿論、必要であればギルドの部屋を利用する事は全然構わないのだが。ギルド側にしても優先順位を付けてしまう事は仕方の無い事。
それ故の利用者側のマナー、という事である。
何だかんだで予定した以外の事も色々と有ったが今日という日も後は夜を残すだけとなった。
此処から先は予定外の事は起きないだろう。
何しろ、ネヴェスァレがオーナーのホテルの中。しかも、関係者でも限られた者しか入れない特別フロア。其処に居るのだから、何かが起こるとは先ず思わないだろう。
しかし、こういう思考等がフラグとなるもの。
ウルラトの部屋──事実上の寝室を訪れたのは、ネヴェスァレではなかった。
女性が主に男性を誘う時に着る半透明な夜着。
そういった事とは関係無く愛用する者も居るが。男が居る部屋に着て来るのなら、意図は一つ。
それを理解した上でウルラトが見詰めているのは顔を赤くしたミアレッタだった。
自らドアを開け、部屋に入ってきたミアレッタ。鍵は掛かっていたので、それを開けた、という事はネヴェスァレから合鍵を渡されたという事。
つまり、これはネヴェスァレ達の公認であって、ミアレッタ自身の希望、という事になる。
そのウルラトの考えは正しかった。
元々、ネヴェスァレはミアレッタにはウルラトがニンコマョハホを離れる前に機会を用意するつもりではいたのだが。シャルリィルという予定外の者の登場により、少しばかり予定を変更。
本来ならば、ウルラトの滞在予定の最終日に、と考えていた所を前倒しした。
勿論、ミアレッタ自身にも意思を確認した上で、ウルラトを取り巻く女性事情を一通り話して。
それでも、ミアレッタが望んだからこその実現。覚悟が無ければ、ウルラトを求める事は出来無い。その現実を突き付け、自覚させて、である。
ただまあ、それはそれ、これはこれ。
ミアレッタ自身が自ら望んだ事では有るのだが。流石に今着ている夜着の事は頭には無かった。
それなりには流行に敏感だったが、夜の流行には未経験者では疎くて当然。
その為、素肌よりも下着が透けて見えている方が恥ずかしさを掻き立てて顔が赤くなってしまう。
決して、酒に酔った勢いで、という事はしない。そんな真似は見逃されないし、何よりもウルラトが受け入れる事はしないから。
ただ、恥ずかしさを誤魔化す為に、キツい御酒を一杯だけで構わないので飲みたくもなる。
──が、そんな人生屈指の恥辱の念もウルラトの一言により吹き飛んでしまう。
「本当に俺で良いのか?」
「は、はい、貴男に貰って欲しいんです」
彼是と訊く事はせず、一番大事な確認だけ。
想い人に真っ直ぐに見詰められ、そう訊かれたら余計な思考も塗り潰されてしまうだけ。
優しく頬に触れる掌。そのまま擽ったさを覚える様に耳を撫でる指先の感触。
触覚を刺激されながら視界はウルラトの顔により遮る様に埋め尽くされ、初めての唇を捧げる。
重なり合い、触れ合うだけの初々しい唇。
だが、息継ぎをする様に一度離れただけで少女は本能に従順になり、女へと変わってゆく。
自ら、ウルラトの首に腕を回して抱き付き、唇を割って舌を差し込み、奥へと侵入し、求める。
そんなミアレッタの身体を抱き寄せ、ゆっくりとダンスを踊るかの様に位置を入れ替えてベッドへと移動してゆくウルラト。そのスムーズさを客観的に解説したなら、玄人にしか判らない凄さだろう。
何しろ、ミアレッタが気付いた時にはウルラトに押し倒された様にベッドの上に仰向けで横たわって見上げているのだから。
それはもう、一種の不思議体験だと言える。
待ち望んだ事。想像よりもドキドキとしながら、想像以上に身体は熱を帯び、火照っている。
ウルラトの手が薄絹の下へと潜り込み、肌を撫でながら下着を脱がしてゆく。
それを視覚ではなく、触覚で感じからだろうか。或いは想像による補完の副産物なのか。
ミアレッタは自分の感覚が感じた事が無い程に、鋭く敏感になっている様に思う。
そんな雑念は思考する余裕が有るからなのだが。その余裕は間も無く綺麗さっぱりと消え失せる。
ミアレッタに見える様にウルラトが服を脱げば、臨戦態勢になった戦士が姿を現す。
その猛々しさに。雄々しさに。
初めて目にする筈なのに──身体の奥が疼く。
余計な思考が消え、ウルラトだけに収束する。
ウルラトの唇が、指が、肌が、息が、温もりが、匂いが、熱が、自分の全てを染め上げるかの様に。ミアレッタはウルラトを求める事だけに没頭。
後に「初めての時は?」等と訊かれたとしても。多分、ミアレッタは言葉にする事は難しいだろう。それ程までに形容し難い快楽と愉悦なのだから。
ただ、それはミアレッタに限った事ではない。
初めてでも、ウルラトが相手ならば。誰だろうと乱れない事は不可能である。
そう経験者達に言い切られる程。ウルラトならば最高の初体験をさせてくれる。だからこそ、娼館の新人相手の依頼等が有るのだから。
そんなミアレッタなのだが。本人には勿論の事、ウルラトも気付いてはいないのだろう。
病弱な弟と自分の生活を背負っていた事も有り、ミアレッタは誰かに頼る事に、甘える事に対して。無意識に罪悪感や申し訳無さを懐く思考が心の奥に深く根を張っている。
その重責が、ウルラトにより無くなったに等しい程にまで取り除かれた結果、今までの反動なのか。ウルラトを求める女としての本能とは別に、何処か幼い子供の様に甘えている部分も出ていた。
──とは言え、実際には子供とは違う。欲を知り女としての本能を花開かせたミアレッタの甘え方が何に強く傾いたのかは言うまでも無い。
ウルラトからすれば、どういう反応や欲求であれ真っ向から向き合って受け止め、応えるだけ。
それ故に頭で細かくは考えず、相手と向き合った感情や感覚のまま真っ直ぐに。
そういう所もウルラトの人気の要因である。
記憶が記憶としては成立し難い程に夢中になった初夜を越えた翌朝。ミアレッタはウルラトの腕枕で目を覚まし、半分寝惚けながら、おはようキス。
その唇の感触や湿り気、息遣い、触れ合う素肌の感じや温もりが、普段の夢にしては生々し過ぎて。その違和感が昨夜の事を呼び起こす。
充足感が、幸福感が、沸き上がる喜びが溢れる。
恥ずかしさも桁違いだが、それ以上に勝る。
そして何より、知ってしまったが故に渇望する。満たされて尚、飢餓を覚えてしまうから。
ミアレッタはウルラトの身体の上で乱れ踊る。
これが最後という訳ではないのだが。ウルラトがニンコマョハホを離れてしまえば暫くは会えない。そんな「だから今は……」を建前に求める。
勿論、ミアレッタ自身は修行中の身。その現実を忘れてしまう程、愚かではない。
抑、その今を与えてくれたのがウルラトなのだ。その信頼を、恩を、裏切る様な事は出来無い。
……出来てしまえば話は別なのだが。
そんな迂闊な事をしないのもウルラトなのだと。ネヴェスァレから聞かされて理解もしている。
だから、今は現状で十分だと思う。
底無しの欲求を抑える事も必要なのだから。
身仕度を整え、ミアレッタとの朝食を済ませたら昨日の約束通りにシャルリィルとホテルの一室にて報酬となる情報を受け取る。
はっきり言えば、ウルラトは大して期待はせず、飽く迄も「今回の報酬として十分な価値が有る」と自分が決める事が出来る点が重要だった訳で。
本当に、依頼に見合う価値は求めてはいない。
聖女達を、シァメ真教会を。本気で敵に回す様な事にはしたくはないのだから。
しかし、いざシャルリィルから話を聞いてみればウルラトが思っていた以上に価値が有ると言えた。
勿論、その情報を冒険者ギルドが査定したなら、到底、報酬額としては届かないだろう。
だが、ソロで遣ってきたウルラトにとってみればシャルリィルから得た情報は役に立つ事が多いし、個人的にも興味を引かれる内容が多かった。
中にはシァメ真教会や聖女にのみ口伝されてきた伝承や逸話等も有り、聞いているだけでも楽しく。その為、昼食を一緒に取った後も続き、気付いたら夕食の時間になってしまっていた程で。
利用時間の関係で、其処で終了となった。
ウルラトとしては良い意味での予想外だったが、報酬としては十分だと思えた。
客観的に見れば「本当、御人好しなんだから」と言われても可笑しくはないのだが。
そんな事は気にしないのがウルラトである。
そして、今夜はミアレッタがネヴェスァレと共に部屋を訪れて──ああいや、他にも多数の参加者が後に続いて遣ってきたのだが。
誰一人拒まずに受け止め、完勝する事になる。
一方、自室に戻ったシャルリィルはウルラトとの今日一日の事を静かに振り返っていた。
ベッドに腰掛け、右手にはイスィナヴァロの兎の御守り。ウルラトから贈られた物だ。
それを見詰めながら、この数日を思い返す。
勇者様の元を離れ、単身でニンコマョハホに来て舊亀の紅玉を入手しようとしていた。
正直に言えば、シャルリィル自身、最初から入手出来る可能性は無いに等しいと思っていた。
諦める事は容易かったのだが。その結果、自分の所為で勇者様に余計な気負いや罪悪感を懐かせる事になってしまう可能性を考えれば、出来無かった。だから、逃げる様に離れたとも言える。
そんなシャルリィルは、あの時──ウルラトとの運命的な出逢いとなった、助けられた場面で。
実は死を受け入れていた。
それをウルラトにより覆された。
最初から利用しようとは考えてはいなかったが、ホテルで再会した事も有り、運命を感じた。
聖女という存在だからこそ。その導かれていると感じてしまう状況は流れに身を任せ易い事も有り、ウルラトに依頼をしてみようと思い立った。
ただ、それとこれとは別の話でもあった。
最初から判ってはいた事ではあるが、自分のした依頼に対する報酬額は冒険者ギルドの査定で言えば考えられない位に桁違いに高額となるもの。
それを、ウルラトは破格で引き受けてくれた上に見事に達成してくれた。
自身も参加していたとは言え、ウルラトと一緒に行動してみて思ったのが、自分が不参加だとしてもウルラトなら問題無く、撃破は成功していた。
ただ、必要な舊亀の紅玉を得る為に、聖女の参加という条件が有る可能性を考慮した為なだけで。
それが無関係だったなら、出来ていたと思う。
それらを踏まえて。シャルリィルは安い報酬しか出せない自分に対する罪悪感を否めない。
大体の者は「格安で引き受けてくれたんだから、気にしなくてもいいよね」と思うのだろう。
しかし、聖女の使命を果たす為という名目でなら平然と腹黒い事でも遣れるのだけれども今回の様に無関係に近い状況となると話は違ってくる。
根が真面目なシャルリィルにとってはウルラトを騙して利用したにも等しい。その上、報酬の面でもウルラトに大きく助けられているのだ。
正面な道徳観なら、気にしない訳が無い。
ただ、そんな状況にも関わらず、ウルラトと話す二人きりの時間はシャルリィルにとって、不思議とマイナス思考を忘れてしまう程に楽しくて。
こうして、部屋に戻ってきてからも、反省よりも思い出しただけで口元が綻んでしまう。
矛盾する感情と思考。けれど、悩ましい筈なのにシャルリィルにとってはウルラトと一緒に過ごしたという嬉しさの方が圧倒的に勝っている。
そんな感覚は、感情は、生まれて初めての事。
戸惑う気持ちも全く無い訳ではないのだけれど。胸の奥の方から温かくなってくる様に思う。
イスィナヴァロの兎の御守りを両手で握り締め、大事に大事に胸元で抱く。
「……本当に、貴男には感謝してもし切れません」
そう呟きながらも「出来る事ならば……」と続く想いは秘める様に飲み込む。
それは聖女である自分にとって望むべきではない我欲を優先してしまう事。誰も居ないからといって軽々しく口にしてもいい事ではない。
声は詠唱、言葉は呪文。口にする事で想像の域を越えて現実へと影響を及ぼす。
そう教えられている。
聖女として育てられ、生きてきたシャルリィルにとっては自らを否定する様なものなのだから。
だけど、それでも。
シャルリィルはウルラトに言葉では伝え切れない感謝と尊敬の思いを懐かずにはいられない。
初めて使命を果たす為に同行した女性の勇者には時々、「息抜きがしたいから」と自分やパーティーメンバーとは別行動をする事が有った。何も問題が無ければ別に構わない。勇者とは言え人なのだから。
ただ、その女性の勇者は運が悪った。皆も慣れた普段通りの別行動中に亡くなってしまった。
「一緒に居れば……」と思わなくもないのだが。個人の意思を尊重すればこそ、其処は自己責任で。寧ろ、「何を勝手に死んでいるのですか?」という職務放棄の責任を追及したくなるのがシァメ真教会全体の意見だったりする。
その様な事態にならない様にする為にも、聖女は勇者に苦言を呈し、厳しく律したくなるのだが。
その厳しさに耐え兼ねて逃げ出す勇者も過去には少なからず存在したという事実が有る。
その為、聖女は一歩引き、勇者の意思を尊重する姿勢を第一とする様になったという歴史が有る。
故に、その女性の勇者の死に対しシャルリィルは悲哀の感情は懐かなかった。
どんなに素晴らしい人でも、勇者としての使命を果たせなければ期待外れ。
口にはしないが、そう評価されて終わるだけ。
勇者とは、使命を成して初めて真価を得る存在。それ以外の勇者は、真に勇者とは呼べない存在で。謂わば、量産した試作品。
完成しなければ商品価値は無い、という事。
壊れた装備や道具を処分し、新しい物を求める。そんな誰しもが行う事と同じで。
一人の勇者に拘る聖女は居ない。
ただ、だからこそ。こういった形で亡くなる方も多いという事を勇者にも伝える事は怠らない。
その上での自由の尊重を優先するのか。
或いは、曾てウルラトが関係を持った聖女の様に勇者と共に死ぬまで歩み続けるのか。
それを決めるのは勇者自身である。
聖女は勇者の意思を尊重し、汲み取るのみ。
だから、執着心は無く、直ぐに切り替えられる。そうでなければ、聖女という使命は務まらない。
一々、勇者の言動や別離や死に左右されていては精神的に耐えられず、直ぐに使い物にならなくなる事は想像に難くないのだから。
故に、聖女は勇者に尽くすのみ。
個人ではなく、勇者という存在を重んじる。
ただそれだけの事。
それ故に時には軽薄な様にも思われてしまうが。そんな事を気にしていては遣っていられない。
だから、シャルリィルも直ぐに次の勇者の元へと向かって最近まで行動を共にしていた。
その男性の勇者の元を離れる際に懐いた気持ちは聖女としての使命を途中で放棄する悔しさであり、自身の不甲斐なさに対する憤怒だった。
勇者と離れる事自体には何も思いはしなかった。それが、聖女としての価値観なのだから。
因みに、それを理解していればこそ、ウルラトは勇者には成りたくはなかった。
昔の、何も知らない若き日の自分は別にしても。今は好き好んで自分から成りたいとは思わない。
結果的に成ってしまった事は不可抗力だが。
だからと言って、聖女の在り方を、どうこう言うつもりも全く無い。そんな権利は無いのだから。
そんな聖女として生きてきた筈のシャルリィルの価値観はウルラトとの出逢いで変化している。
シャルリィル自身、まだ全く自覚してはいないが聖女という在り方よりも、ウルラトに対する想いが次第に大きくなり──勝り始めていると。
──とは言え、シャルリィルは生粋の聖女の為、知識や物語としては知っていても、本当の意味では何も理解はしていない。それ故に気付かない。
ただ、自らの全てを勇者に捧げ尽くすのが聖女。そんな極端過ぎる生き方・在り方しか知らないのがシャルリィルである。
その対象が勇者から、一人へと変わったなら。
どうなるのかはシャルリィル自身にも判らない。何しろ、そんな経験自体が初めての事なのだから。
瞑目し、ウルラトに対する想いを祈りにして。
暫しの静寂の後、シャルリィルは立ち上がる。
机の上に置いておいた舊亀の紅玉を手に取ると、既に床に広げてある特製の魔法陣の刻まれた聖布。その中央に座り、再び瞑目する。
どういった理由が有れ、個人的に必要な事からも流石に報酬を未払いのまま使用する事はしない。
その辺りを、しっかりと弁えている生真面目さがシャルリィルの本来の本質だろう。
雑念を排除し、集中しなくてはならないのだが。シャルリィルは最後に再びウルラトに感謝する。
全てはウルラトに出逢えた御陰なのだから。
大きな仕事終えた翌日──とは言ってウルラトにとってみれば、一日は一日。何かが有った日でも、その翌日でも前日でも結局は同じ一日でしかない。だから、ウルラトに特別な意識は無い。
勿論、女性関係に関して、きちんと配慮するが。それは様々な経験により身に付いた習性に近い為、特別に意識している訳でもない。
ネヴェスァレ以外が自分の仕事の為にウルラトに挨拶とキスをして退室していった後、ネヴェスァレとの朝の一時を過ごし、身仕度を整えて朝食。
自分の執務室に向かうネヴェスァレと歩きながら雑談をしつつ今日の事を考える。
昨日一日、しっかりと休んだので、今日はやはりダンジョンに行って来よう。
──そう決め掛けた時だった。
通路の分かれ道からシャルリィルが姿を見せた。勿論、泊まっているのだから何も可笑しくはないし現在地はネヴェスァレの館でもない。
だから、特に身構えたりはしないのだが。
その姿を見た瞬間、何か嫌な予感がした。
「あら、シャルリィル様、御早う御座います」
そうネヴェスァレが立ち止まり、声を掛けたのと同時だった。
同じく立ち止まり、笑顔で丁寧に挨拶を返す。
そんなシャルリィルの姿を想像していたのだが、シャルリィルは静かに崩れ落ちる様に倒れる。
──が、ウルラトが即座に反応し抱き止める。
突然の事に驚き、思考も動きも止まってしまったネヴェスァレだったが、状況を把握するよりも先にウルラトの対応を見て、一先ずは安堵する。
しかし、直ぐに気付く。
そのウルラトの反応が無い事に。
「おい、シャル、聞こえるか?」
シャルリィルを抱き止めたまま落ち着きを持って荒げず、強過ぎず、大き過ぎず声を掛ける。
だが、反応は無い。軽く身体を揺らしてもみるがシャルリィルは既に自力で立っていられない状態。呼吸も浅く短いし、乱れている。
傍に来たネヴェスァレが顔を確認しようとした、その時だった。シャルリィルが急に血を吐いた。
避ける事も出来ず、ウルラトの服は正面に浴び、汚れてしまうが──それ所ではなかった。
ウルラトは素早くシャルリィルを抱き上げると、走り出したネヴェスァレの後を追う。
状態も状況も判らない以上、第一に行うべき事はシャルリィルを隔離する事。
そう判断し、自身の館に引き返す。
その道中で擦れ違う部下に簡単に指示を飛ばす。ウルラトとシャルリィルの姿を一目見て、彼女達は事の緊急性を即座に理解し、動く。
日々、学び、鍛え上げ、構築されてきた組織力が正しく活かされていた。
ネヴェスァレの館の中でも、こういった時の為に用意されている専用の一室へと運び込む。
ウルラト自身、チラッと覗いた事が有る程度だが今は気にしている場合ではなかった。
中央に設置されたベッドにシャルリィルを直ぐに寝かせると、そのまま服を脱がし始めるウルラト。それを見て、ネヴェスァレはウルラトを凝視。
見た目に反して、実は特殊な構造をしている事で一部では有名な聖女専用の聖衣。それを何の躊躇も無く脱がせられるのを見て「どうして貴男が聖衣を脱がせられるのかしら?」と思わず緊迫した状況も忘れて問い詰めたくなるネヴェスァレは悪くない。
それも当然で、シァメ真教会の聖女の聖衣は聖女自身の手作りであり、裁縫技術を含む製法は聖女の使命に就いた者だけが、知る事を許される秘法。
聖女としての最初の仕事は自らの手で聖衣を作る事であり、そうする事により、聖衣を身に纏う事の意味を常に意識する為だったりする。
その為、当然ながら普通は着脱する手順すら不明というのが知る者の間では常識。
だから、緊急時だと判っていてもネヴェスァレが問い詰めたくなるのも仕方が無いと言える。
実際には今は追及したりはしない。
因みに、ウルラトが聖衣の構造を知っているのは例の若気の至りというべきか。今は亡き一人の聖女からの贈り物の様な物。
勿論、御互いに、この様な形で活かされようとは当時は思いもしなかったのだが。
人生、何が何処で如何に関わり、繋がるのか。
そんなも事は誰にも判らないのだから。
尚、その聖衣に関するプチ情報。
聖衣の基本的な配色は決まってはいるが、其処に各流派や個人の趣味嗜好を加えている為、この世に一点のみ、唯一無二の物だったりする。
構造的には同じでも、袖や裾、丈の長さや広さ、重ねる部分の形状等は自由。
その為、見た目には別物に見えても、構造的には大差が無い為、一度理解すれば着脱は難しくはないというのが実際の所だったりする。
ただまあ、それはそれ、これはこれ。ウルラトの知らない一面を見て嬉しいけれど呆れもするという複雑な感情を懐くネヴェスァレ。
そんなネヴェスァレが見詰める前で脱がせ終えたウルラトが動きを止めた。
邪魔をしない様にと下がっていたネヴェスァレも側に移動し──思わず口元を両手で覆った。
決して、不気味さに吐き気がした、グロテスクで見るに耐えない程に醜悪な姿だった、といった様な理由からではない。
想像を越えた現実に驚愕し、恐怖したからだ。
聖衣を脱がされたシャルリィルは同性も魅了する抜群の美しい肢体と、それを飾り立てる為の下着を晒しているのだが──それ所ではなかった。
シャルリィルの白磁を思わせる白い肌を侵す様に広がっている漆黒。痣の類いではないと一目で判る異常さを目の当たりにする。
本来であれば、美術品の様に綺麗な筈の御腹だが今は真っ黒に染まっている。
それは常識では考えられない事だと言えた。
だから、ネヴェスァレは思わず口元を隠した。
見た事も無く──しかし、一目見ただけで判る。これは絶望的な状態だと直感的に理解したが故に。
そんなネヴェスァレの目の前でだが、ウルラトは躊躇う事無く【鑑定】を使う。
勇者である事がバレる心配等はしない。今は只、シャルリィルを救う事だけを考えている。
そして、その結果にウルラトは思わず息を飲む。想像していた可能性の一つでは有る。だが、それは最悪の場合として想定していたもの。ウルラトでも表情一つ変えない、という事は出来無かった。
「……ネヴィ、シャルの事を頼めるか?」
「貴男、まさか……これを治せるの?」
「正直な話、「絶対に」とは断言は出来無い
これ自体、初めて見るものだからな
だが、恐らくは“魔障呪瘍”の一種だろう」
推測したかの様に言ってはいるが、【鑑定】にて判明している事実。御丁寧に対処方法まで出ている親切さにはウルラトも驚く。
気になるのは、何故、一緒に行動していた勇者が気付かなかったのか、という事なのだが。
ウルラトは直ぐに心当たりを二つ見付ける。
一つ目は、その勇者に【鑑定】を使う上で相手の個人情報に対する配慮が有った、という可能性。
もう一つは聖衣の機能。如何に勇者に尽くす事が聖女の使命であり、シァメ真教会の理念だとしても守るべき秘密というのは存在する。
その守秘の為、聖女の聖衣には【鑑定】に対する閲覧制限の様な効果が付随している。
その何方等か、或いは両方により、その勇者にはシャルリィルの秘密は判らなかったのだろう。
「魔障呪瘍って……アレは空想の産物でしょう?」
「いや、実在する──と言うよりも、そう言うしか出来無いから、そう呼称しているんだがな」
「それは……仮に、そうだとしても手は有るの?
彼女はシァメ真教会の聖女なのよ?」
ネヴェスァレが何を言いたいのかは判る。
聖女は勇者を助け、支え、尽くす事が全てだ。
そして、その聖女を助け、支え、尽くす事こそがシァメ真教会の存在意義そのものだったりする。
此処で少し、聖女とシァメ真教会に付いて。
聖女には【聖女の秘言】という聖女専用スキルが存在しており、その効果で聖女同士はテレパシーの様な形で情報を遣り取りする事が可能。
謂わば、思念型のグループSNSの様な物だ。
それに加え、真教会の情報収集・通信網は世界で一・二を争う程の規模と速度を持っている。
それなのに、シャルリィルの治癒は出来無いまま目の前で倒れてしまっている。
それは事実上、不可能に等しいと言えるからだ。
しかし、その不可能を今、覆すかもしれない者がネヴェスァレの目の前に居る。
不謹慎な話だが、それを想像してしまっただけでネヴェスァレは胸が高鳴ってしまう。それはまるで幼い頃に憧れた英雄譚の主人公が現れたかの様に。不可能を可能にする存在となる者が。
そんなネヴェスァレの憧憬と期待には気付かす、ウルラトは普通に話を続ける。
「過去、二度だけだが、魔障呪瘍と考えるしかない発症者に会い、助けた事が有る
各々に治癒方法は違ったが……
一つ、治癒出来る可能性に心当たりが有る」
そう言うウルトラだが──前半部分は嘘だ。
そんな過去は存在しない。
まあ、魔障呪瘍ではなければ、そういった内容の出来事は無かった訳ではないが。
それが事実か否か。重要なのは確かめられる術がネヴェスァレには無いという事。
その事をウルトラは判っている。
付け加えるなら、ネヴェスァレからしても同様。その相手が女性であれば、尚更に不可能。
命の恩人であり、想い人であるウルトラが嫌がる情報を公表する様な真似は先ず遣らない。
何より、それを遣れば恋敵を増やすだけ。
そんな自分の首を絞める真似を遣る訳が無い。
だから、ウルトラの言葉の真偽を確かめる術など最初から存在していないと言える。
勿論、両者の認識には多少のズレは有るのだが。そんな事は結果が同じ以上、関係無い事でもある。
「………………はぁ~~……止めても無駄よね
判ったわ、彼女の事は任せなさい」
「頼む」
問答する時間も今は惜しい。
そう判断して、ネヴェスァレはウルラトの頼みを承諾する。人命が掛かっている以上、此処で彼是と言い合う事は無駄でしかない。
勿論、本音を言えば複雑ではある。
シャルリィルの事は助けたい。しかし、その為にウルラトが危険を冒す事を容易くは容認出来無い。だが、ウルラトだからこそ期待もしてしまう。
──といった感情と思考が混ざりに混ざり合った状態だからこそ、考える事は止め──信じる。
結局の所、そうなるのだから。
ウルラトが部屋を出るのと同時にネヴェスァレはシャルリィルを前に自分の戦いを始める。
戦いと言ってもモンスターと戦う訳ではないが。ある意味、これはウルラトとの共闘。
攻めるウルラトの背中を預かる。
そういう風に思えば自然と気合いも入る。
【アイテムボックス】から魔杖を取り出したら、椅子を引き寄せて座る。
これから、シャルリィルを助ける為に魔法を使うのだが長期戦になる可能性は高い。だから最初から椅子に座って体力を温存し、疲労を軽減する。
また、取り出した魔杖も同様の理由から。普通に使う分には魔杖は不要。しかし、長期戦を考えれば少しでも補助になる物を使い、節約する事は重要。地味だが、こういう事が成否を分ける事は多いのも珍しくはない事だと言える。
手早く準備を整え、ネヴェスァレが使った魔法は第三者が見れば疑問を懐くだろう【スロウ】。
この【スロウ】は対象の動きを遅らせたり、他の誰かが使った【クイック】の魔法の効果を相殺するといった目的で用いられる。
そんな【スロウ】は寿命という点では無意味だが毒や病、怪我や出血といった肉体の活動速度自体を遅らせる事によって擬似的な延命措置を可能とする。
勿論、万能ではないし、抑として、完全制御下で行使し、自己調整が出来無ければ不可能な絶技。
何より、解決方法が無ければ【スロウ】を無駄な延命措置・応急措置でしか無いのだが。ある意味、だから、裏技だと言える。
つまり、ネヴェスァレにしてみても、ウルラトが絶対に何とかすると信じていればこそ。
そうでなければ、ただ無駄に苦しませるだけで、何の救いにも為らないのだから。
そんな一連の会話を。シャルリィルは僅かに残る意識を振り絞りながら聞いていた。
昨夜、舊亀の紅玉を用いた儀式で己の病──身に起きた異変を治そうとした。しかし、結果は儀式が発動する事は無く、舊亀の紅玉も残ったまま。
つまり、これは病ではないと判明した。
その事実には、希望を見出だしたシャルリィルは絶望するしかなった。
あまりにも残酷過ぎる仕打ちだと。
しかし、それでも尚、聖女としての威厳を守り、貫かなくてはならない、と。自分を奮起させた。
せめて、笑顔でウルラトの前から消えたい。
ウルラトの中では、綺麗なままで在りたい。
そう思って、ホテルを出ようとしていたのだが。そのウルラトに三度助けられる事になる。
朦朧とする意識の中、僅かに聞こえる声は視界と同じ様に焦点が合っていない様にズレて、重なり、歪み、割れて、煩わしいだけ。
それでも、ウルラトの声だけは聞き分けられる。その温もりが、匂いが、自分を繋ぎ止める。
ただ、自分では何も出来無い。目蓋を自力で開く事さえも出来無くなっている。
だから、こんな事を考えるのは可笑しいけれど。
ウルラトによって聖衣を脱がされていると判ると思わず「あの下着で大丈夫でしょうか?」等というズレた不安が思考の大半を占めていて。
今、自分が生死の境を彷徨っているという事すら忘れてしまっていて。
気付けば死に方を考えていた思考は消えていて。不思議な事に未来を思い描いている。
聖女は勇者を助け、支え、尽くす事が天命。
その為にウルラトを巻き込んでしまった。
そんな罪深く、浅ましい自分を。
どうして貴男は救おうとして下さるのですか?。
そう泣きながら心の中で叫ぶしか出来無くて。
でも、私の為に動いて下さる事が嬉しくて。
どうしたらいいのか。自分でも判らなくて。
──と、其処へ聞こえてくる優しい声。
「まさか空想上のものだと思われている魔障呪瘍を発症する人が居るだなんてね……
貴女も運が良いのか、悪いのか……」
そう言われても、何故か、「運が悪いですよ」と即答は出来無い気がします。
その理由は──思い浮かぶ、ウルラト様の所為。
他には考えられません。
「運が良いのだとすれば、勇者なんかよりも遥かに頼りになる男に手を掴まれた事ね
彼が何れだけの人を助け、救ってきたのかなんて、殆どの人は知りもしないでしょうけど」
……そうですね。私は助けられてばかりですが、ウルラト様の事は殆ど知りません。
今までの私には、そういった事を知る必要性さえ思い付きませんでしたから。
だから──もっと知りたい。ウルラト様を。
そう心から強く思います。
「運が悪いのだとすれば──」
それは生きようとしているからなのでしょう。
苦しさは相変わらず有りますけど、不思議な事に強い眠気が私を誘います。
それは死へではなくて。残った生命力を温存し、助かる可能性を少しでも上げる為に。
眠る事しか出来ませんが。私はもう諦めません。生きる為に必死に足掻きます。
貴男と、まだ見ぬ未来を歩む為に。
シャルリィルの事をネヴェスァレに任せて部屋を出たウルラトは途中で会ったネヴェスァレの部下に簡単に説明をしてネヴェスァレが暫く動けない事を伝えるとホテルを出て、ニンコマョハホを離れる。
【鑑定】によれば、シャルリィルが発症したのは魔障呪瘍の一つで“シヴィヤド”という物らしい。初期症状は気怠さが一ヶ月以上続き、その気怠さが消えた後に腹部に黒子としか思えない程の大きさの漆黒の斑点が現れる。特に体調には変化は無いが、その斑点が徐々に大きくなり、広がってゆく。
しかし、末期に入ると発症者は急に体調が悪化し意識が混濁、自力での行動は不可能となる。
そして、この状態にまでなってしまうと残された猶予は長くても二日、人に由っては半日と持たずに絶命してしまう事となる。
──という様に解説がされていた。
このシヴィヤド。シャルリィルが最後の望みだと考えて求めた舊亀の紅玉では治らない。何故なら、病ではないのだから。
解説からすると、どうやら全ての魔障呪瘍が同じという訳ではないらしい。
病に入る魔障呪瘍も存在はするのだろう。
その中でも、このシヴィヤドは特に厄介になる。病ではないし、状態異常や呪いの類いでもない。
その原因が一種の抗体の反応だからだ。
その仕組みを簡単に説明すると、シャルリィルの様に突出した魔法関連の才能を持つ者が、高濃度のマナの中に長時間、身を置くと体内に気付かないで過剰なマナを蓄積してしまう事が有るらしい。
通常ならば、自然に排出なら濾過なりされるので無害な事であり、気にもされない事。
だが、極稀に蓄積し過ぎて拒絶反応が出る場合が有るらしい。アレルギー反応の様に。
それが、このシヴィヤド。勿論、その辺の普通のアレルギー反応ならば舊亀の紅玉で治せるのだが。この世界特有の、ある意味では根幹とも言える力が原因である為、病としては認識されない。
故に、発症してしまうと、粗詰みだと言える。
けれど、手が無い訳ではない。
ただそれが、不可能に近い、というだけで。
ニンコマョハホから粗真っ直ぐ東に350キロ、ビーゼンから粗真っ直ぐ南に400キロ。其処には七海域の一つ、“ミヴィナスローノ海”が広がり、其処に面した“アスィヴェリ氷雪連峰”が聳える。
アスィヴェリ氷雪連峰は名前の通りに、幾つもの険しい雪山・氷山が連なる山脈。当然、その全域が自然フィールドのダンジョン。北から西に掛けては陸地に面し、それ以外は海に面しており、その周辺海域は海水温度も氷点下を下回る。
この世界に遣ってきたばかりの──否、そこそこ長く生き抜いてきた日本人にすれば理解不能な程、その周辺との関連性が無い。
「温暖化だ」「海面上昇だ」「氷山が溶ける」と言っていたウルラトの前世の世界とは違い、環境が大きく変化するという事は滅多に無い。
だから、「そういう物だ」と如何に割り切って、在るが侭を受け入れられるかが生死を分ける。
そんなアスィヴェリ氷雪連峰には世界十大難所の一つである“カノラース永氷洞”が存在している。其処がウルラトが目指している場所となる。
最短距離を進んでいるウルラトだが、通常ならば人目を気にする所。だが、今は無視──とは言え、目撃されては面倒なので【気配遮断】を使いながら道中での戦闘も必要最小限に抑える。
【環境適応】が有る為、アスィヴェリ氷雪連峰に特に防寒対策をしなくても踏み入る事が出来る為、速度を落とす事無く、突き進む。
遭遇したモンスター達は運が悪かったと言うか、不幸な事故だったと言うか。ウルラトを認識出来て倒されたのならモンスターとしては使命を果たしたと言えるだろう。ウルラトを、自分の死さえも認識出来ずに消滅したモンスター達に比べたならば。
さて、目的地となるカノラース永氷洞なのだが。実は一度、海へと出なければならない。何故なら、その入り口は陸上にはなく、海中に存在するから。海中を潜らなければ中には入る事が出来無い。
その時点で既に挑戦出来る者は限られてくる為、世界十大難所とされていたりする。
ウルラトは躊躇う事無く、標高3000メートル以上有る山頂から駆け下り、500メートルは有る断崖絶壁から海面に向かって飛び込む。それは宛らペンギンの様に、或いは魚雷の様に。
常識的な思考と判断力が有れば遣らないだろう。一歩間違えば水面に叩き付けられて即死。運が良く入水には成功しても、落下時の物理的エネルギーは無くなる訳ではない。それを理解すれば。
そんな常識外れな事をウルラトは行った。だが、焦った訳でも、一か八かでもない。出来る、という確信を持ってだ。
今のウルラトだからこそ出来る荒業ではあるが、それを可能にする技術は長年の経験等に由るもの。スキルやステータス頼みだけでは出来はしない事。遣れたとしても成功するかは運任せになるだろう。命懸けの一発勝負を遣る者は先ず居ない。
此処までは上手く行っている。しかし、海の中も安全な訳ではない。それは前世でも同じである。
派手に入水すれば、その音や振動、水飛沫や泡に反応して集まってくる水生・海生のモンスター達。間抜けな餌を喰らおうとするのは当然の事。
だが、ウルラトは【遊泳自在】と【呼吸不要】の二つのエクストラスキルにより、水中・海中という圧倒的な逆境を覆す。
──とは言え、不安が無い訳ではない。
何しろ、【呼吸不要】は先日のシャルリィルとの共闘により倒したヒュプニツプ・ヒドゥビトゥン・スプツニツピュラピス戦の後に獲得したもの。まだ使い慣れてはいない為、呼吸をしない様に意識するというのが地味に難しく普段通りに動いてしまうと無意識に呼吸してしまう。呼吸すると必然的に肺に海水を呼び込んでしまう。そうなれば溺死一直線。故に、意識し続ける必要が有る事。
ただ、そうは言ってもウルラトが有利な状況には間違いなかったりもする。
巨体になればなる程、水の抵抗を受ける事になるモンスター達を嘲笑いながら翻弄する様に超高速で泳ぎ回りながら撃破し、突き進む。
多少の不慣れならウルラトにとっては、その場で修正可能な事でしかないのだから。
だが、そんなウルラトにも簡単には解決出来無い問題というものも有る。
どんなに海中での活動等が有利になあろうとも、ウルラトにとっては此処は未知の領域だという事。既知の場所ではない為、カノラース永氷洞の入り口自体が何処に有るのかは判らない。
情報が全く無い訳ではないが、あやふやなもので真偽を確かめた訳ではない。
今は本の少しでも時間が惜しい状況。
それでも、己を見失わず、冷静に判断出来るのは幾多の困難を乗り越えてきたが故のもの。
(────っ!、アレがそうなのか?)
その情報──古い文献に乗っていた一文によればアスィヴェリ氷雪連峰の裏側、氷山と氷海の奥底に暗く深い魔の顎は待ち構える。そう記されていた。
それに合致する様に、海底に獰猛な肉食の歯牙を思わせる鋭く尖った岩の並んだ洞窟が見える。
入り口に偽物罠が有る、という情報は無かった。警戒は怠らないが──進むしかない。
そう決めているウルラトは迷わず進入する。
ウルラトは平気だが、入り口の外は海流が複雑でモンスター達ですら近寄っては来ない。気を抜けば海流に弄ばれ、海の藻屑と化すだろう。
入り口に入ったら入ったで、暫くは四方に尖った岩が串刺しを狙うかの様に待ち構えている。加えて不規則に海流も変化している。
「挑戦させるつもりが有るのか?」と疑う程に。スタートラインに着く前でさえ悪辣過ぎる仕様にはウルラトも呆れるしかなった。
「悪ノリした結果、誰も挑戦出来無くなった」と後に反省のコメントが出ただろうなと思っしまう。それ程に無茶苦茶な難易度だと言えるのだから。
色々と常人離れした今のウルラトで、10分程。進み続けた辺りで洞窟は普通の無害そうな円筒状の自然穴っぽいものへと変わり、其処から更に泳いで20分程進んだ所で。漸く、変化の無い視線の先に出口らしき揺れている水面が見えた。
以前の使用後に、きちんと片付けなかったから、絡みに絡んだロープの様に曲がりくねっていたが、一歩道だったのが不幸中の幸いだった。入り組んだ構造になっていたら何れだけの時間を要した事か。正直、考えたくはない状況になっていたと思える。
そんな海底洞窟を排水用の管の中を遡る様にして浮上した先は幅10メートル、深さ5メートル程の擂り鉢状の地底湖へと繋がっていた。
中心に有る海底洞窟と繋がっている部分は火山の様に盛り上がっている。その事から、仮に地底湖の水位が下がっても、洞窟側の水位が下がらない為の工夫なのかもしれない──が、意味は有るのか?。
そんな疑問を懐きながらも、周囲を確かめる。
地底湖の中にモンスターの姿は無し。見上げれば頭上はドーム状になっており、此処が球形の空間になっている事が判る。
そんな空間の中、飛び込み台の様に地底湖の上に張り出している岩が有る。
他に目立つ物も無いので、一旦水中に潜り勢いを付けて飛び出し、岩に飛び乗る。
警戒していたが特に何も起こらず。
濡れた身体と衣服を乾かしながら、目の前に有る奥へと続く岩肌の裂け目へと足を進める。
平均的な身長の大人のヒュームが一人通れる程の横幅と高さしかない道。自然に出来た様に見えてもダンジョンである以上、造られた存在。
感動はしないし、油断もしない。
蛇が這った後を辿る様に歩く事、約5分。
狭く暗い道の先に見えた出口の向こうへと進めば広がっていたのは、水晶と見間違える程に澄んだ“永久結氷”で出来た絶景。
長閑な高原を思わせる様に緩やかな起伏が有り、木々や草花、土や小石の様に見えてる地面までもが永久結氷で出来ていて、その中に大小の川が有り、水が凍る事無く流れて行く様は神秘でしかない。
頭上を見上げれば、青空にしか見えない天井が。勿論、よくよく見れば壁面であり、空に見える青と薄い雲に見える白は永久結氷の濃淡でしかないが。そういう事を考える思考自体が不粋だと思える。
そんな絶景を絶景としているのが“氷天月苔”。所謂、光苔の一種だが、名前の通りに寒冷地にのみ自生している稀少種。加えて、風の無い場所にしか生えない為、条件が揃う場所は限られる。
ウルラトは他の場所でも見た事は有るが、此処の氷天月苔は状態・品質・純度の全てが格が違った。
その為、観察しながらも採取してしまう冒険者の染み付いた性は誰にも責める権利は無い事である。
ウルラトでも思わず立ち止まり、眺めてしまう。自然界では何処かに有りそうで難しく、人工的にも出来そうで出来無い。そんな景色が目の前に有れば見てしまうのも仕方が無い事だろう。
勿論、此処に来た目的を忘れてはいない。
「さて、何処をどう探したものか……」
改めてになるが、カノラース永氷洞をウルラトが訪れる事自体が初めて。右も左も上も下も、全てが未知の領域。全てが手探りの状態である。
そんなウルラトが求めているのは此処だけにしか存在しない“ツークプリナン”という固有種の花。当然ながら世間は勿論、何処にも知られてはいない存在自体が未発見の代物。
その為、あの場では信頼するネヴェスァレにさえ具体的な事を話さなかった。
情報元に付いて調べられたとしても証拠は無い。だから、どうとでも誤魔化せるし、万が一、勇者を使って【鑑定】されても【隠者の幻影】が有る為、ウルラトが勇者である事は隠し通せるだろう。
ただそれでも油断は禁物。些細な事が綻びを生み真実を暴かれてしまう事は珍しくもない話。それを知っているからこそ、ウルラトは慎重になる。
話を戻して。件のツークプリナンの事なのだが、実物を【鑑定】した訳ではない為、間接的に判った情報というのは極僅か。その姿形・色等は一切不明というのが現状。つまり、虱潰しに探すしかない。こればっかりは運頼みになってしまう。
幸いにもウルラトには探索者時代に獲得しているエクストラスキルの【オートマッピング】の御陰で適当に歩き回るだけで、それなりに高精度の地図を自動で作成してくれるので助かる。
勿論、ウルラト自身の培った地図作成技能だとか観察力・記憶力も重要。それらが揃っていればこそウルラトは長い間トップ帯の冒険者として活躍する事が出来ていると言える。
一先ず、目に見えている範囲の探索をしながら、地図を作成、把握してゆく。
当然、ダンジョンなのでモンスターも存在する。見る物全てが未知・初見であり、冒険者として長く活動してきたウルラトでも思わず童心を思い出す。それ位に刺激的であり、状況が違えば、一ヶ月程、滞在して攻略するのも有りだと思えた。
抑の目的を見失ったりはしないが。
1時間程で最初のエリアのマッピングが完了し、次のエリアを目指す事にするウルラト。
其処で問題となるのが、現在のエリアから伸びるルートが三つ存在する事。
一つ目は永久結氷の森の奥に有った洞窟。王道と呼ぶに相応しい存在感で挑発する様に口を開ける。外からでは【夜目】や【暗視】、勇者からの戦利品である【遠見】も無効化されている。油断は禁物。だが、未攻略のダンジョンでは実は珍しくもない。故にウルラトは焦りもしない。
二つ目は永久結氷の断崖絶壁を登って、降って、岩陰に小さく見えていた隙間を塞ぐ大岩を壊したら姿を見せた縦穴。此方等も覗き込んで見ただけでは奥は見えなかった。しかし、天井の方は直ぐ其処に見えていた為、上への進路は無い事だけは判った。
そして三つ目。ある意味では、これが最も怪しいルートだったりする。このエリアを流れている川は大小に関わらず、全てが同じ場所──湖に行き着く様になっている。逆に遡った先は全て岩の隙間から溢れ出しており、その周辺は破壊不可能だった為、先は無いと判明している。そんな湖の底には横穴が永久結氷の海藻群の奥に隠されていた。他の二つと同じ様に先は確認が出来無かった。
考えれば考える程、何れもこれも怪しいのだが。これと言った仕掛けも無い為、判断に困っている。共通点等、比較する事も出来るが、それ故に悩む。時間が有れば、一つずつ潰すだけなのだが。
こういう時に、【直感】【予感】【勘】といったユニークスキルが有れば一助となるのだが、生憎とウルラトは獲得しておらず、勇者も未所持。
無い物強請りなのは判っているが、悩ましい。
結局、ウルラトは湖の横穴を選んだ。
唯一、この地で動きを止めない水。それに意味を見出だすのなら、水先案内。そう考えて。
もう少し論理的な事を言えば、ダンジョンという存在は“転移”の仕掛けでもない限り、構造的には矛盾しない様に設計されている。
その為、三つのルートを考えると、横と下と深い横の三つとなる。進む方向は各々に違うのだろうが間を取った感じなのが気になったからでもある。
湖の横穴は直径1メートル程で戦闘が出来る様な広さではないが、悪辣なダンジョンだと、容赦無くモンスターが襲って来たり、罠が有る。そういった経験をウルラトは味わっているので気を抜かない。ダンジョン攻略に可愛げは不要である。
その思考に応えるかの様に体長20センチ前後の小魚型のモンスター、“シーペルダンツ”の群れが突っ込んで来たり、壁に潜んで迎撃する様に唐突に飛んでくる“ドリャリィガル”、漁師が投網を打つ様に網糸を吐く蜘蛛“ヤプチャーキ”を倒しながら進む事、約15分。横穴を抜けた。
直径3メートル程の広さで、深さ5メートル程のモンスターの居ない水中。頭上に降り注ぐ光に顔を向ければ揺れる水面が見えた。
慎重に頭を出して確認すれば直径5メートル程、高さ3メートル程のドーム状の陸地が有り、奥には恐らく先へと通じているだろう高さ2メートル程、横幅1メートル程の穴が一つ。
ざっと調べてはみだが、これと言って何も無く、ウルラトは直ぐに先へと進んだ。
真っ直ぐな訳ではないが、2分程で通り抜けた。その先に有ったのは、先程と同じ様な造りの空間。陸上には何も無いので水に飛び込めば横穴を発見。大きさは先程の陸上の穴と同じ位。泳いで進むが、モンスターの姿も罠も無いまま、3分程で通り抜け同じ様な造りの水中に出た。
「成る程な、こういう造りの繰り返しか……」
浮上してみれば、やはり同じ様に陸地が有って、奥には穴が一つ有るだけ。その穴の位地も略同じ。画角を合わせれば差が判らないだろう。
今は一本道だが、入り組んでくると厄介であり、同じ場所を回っているかの様な錯覚に陥ると、一度来た道を戻ったりしようとする事も考えられる。
地味だが、思考的にも精神的にも負担を強いれば嫌でも堪えてくる為、効果的だと言える。
まあ、対処が可能なスキルを持ったウルラトには大して効果は無いのだが。
計十七回。同じ様な造りの部屋を通過し、陸地の穴を通り抜けて迎えた十八番目の部屋は陸地部分が出口を含めて四ヶ所。離れ小島の様に飛び地として半径3メートル程の半円状の面積が有るのみ。
それ以外は全て水面。直径30メートル程は有るドーム状の空間だが、天井の中央──最も高い部分でさえ水面からは5メートル程しかない。
一見しただけでも判る、圧倒的な敵地感。
──と、それに「その通りっ!」と言うかの様に水面に波紋が広がり、背鰭が出て来た。
経験から即座に左側の陸地に向かって壁を走って移動するウルラト。
その判断が、本の1秒遅ければ、水圧砲と言っても過言ではない放水型のブレスを食らっていた所。
次の足場に着地し──即座に天井に向かって跳び空中で身体を捻って天井に着地。頭上の魚影に向け踏み切って水中に突進する。
初撃を躱される可能性は考えていても、自分から不利な水中に飛び込むとは考えてはいなかった様でウルラトの奇襲は一撃で最大の成果を上げた。
体長6メートルは有る“グウィノーツリュカ”は水中である為、断末魔を上げる事も許されず大量の気泡を吐き出しながら消滅していった。
当のウルラトは大してブレる事も無く、空間内を調べてから、先へと続く水中の縦穴へと潜る。
3分程で辿り着いた先は一転して球状の空間だが完全に水没していた。
そして、通り抜ける直前に魚影を確認出来た為、ウルラトは縦穴の中に留まる。
今の様に、先に待ち構えているモンスターの姿が見えている場合、それは強力な事を意味している。同時に、そのモンスターの存在空間に入らなければ攻撃はして来ない。逆に一度入ると倒すまで先へは進む事が出来無く場合が有る。
森や草原の様な場所でならば、回り道をしたり、振り切って逃げ切るという事も出来るのだが。
ウルラトは経験上、強制戦闘エリアだと考える。尤も、殺る事には変わりはしないのだが。
体長15メートルは有る“ナナイゴアダゴン”は海蛇の様な見た目に、全身に体毛を持ち、その毛が刺さったら麻痺毒を食らうという攻撃し難い相手。しかし、胴回りが直径2メートルも有り、小回りが利かない為、ウルラトの敵ではなかった。
──と、此処で二つのルートが出現した。真逆の位置に有る為、悩むが……判断材料が無い事から、ウルラトは昔からの持論「悩んだ時は左だ」により左のルートを選択する。
因みに、この左右は【オートマッピング】により作成された地図上にて北をウルラトが向いた状態の左右という事になる。
横穴は暫く進むと蛇行しながら緩やかに上向き、通り抜けた先は穴の直径と同じ大きさの水面。
顔を出し、確認すれば、永久結氷の木々が広がる森の中だった。
一瞬、「戻ってきたのか?」と疑問に思ったが、直ぐに確認してみれば進んでいる事が判る。
水中戦が続いていただけに、その奇襲は妙手。
仕掛けた相手がウルラトではなかったならば。
頭上──天井から落下してからだったたならば。少しはウルラトも驚いたかもしれない。実際には、天井から張り付いたまま攻撃した為、ウルラトには通じなかった。何しろ、攻撃が当たるまでの距離が長くなる事で、攻撃の際の殺気を感じ取れ、来ると判る攻撃を態々受けたりはしない。だから、天井で力を抜き、落下からの攻撃だったなら危なかった。
そんな事をするモンスターは知らないが。居れば間違い無く、最恐最悪の存在となる筈だ。
そんな残念な奇襲を仕掛けたモンスターは身体の表皮を周囲の景色に同化させる体長2メートル程のカメレオン、“ミドゥーロマデュール”。本来なら擬態からの奇襲等で“森の暗殺者”といった異名を取って恐れられるのかもしれない。
ウルラトが相手では無理な話だとは思うが。
そのウルラトは索敵をしながら森を調べる。他のモンスターが1体も居ない為、奇襲をされなければ普通の冒険者は少しは油断したかもしれない。
複数人で挑んでいれば尚更にだ。
そういう意味では、ソロが相手では、初見殺しの早めの奇襲が効果的なのは間違いではない。相手が悪かったというだけだ。
ただ、それだけにウルラトは首を傾げる。
「…………可笑しいな、行き止まりか?」
行き止まり。ダンジョンだろうとも、それは別に珍しくもない事だ。
だが、ウルラトの経験が「此処には何か有る」と言っている。
ウルラトには瞬殺されたとは言え、このエリアを担当区としていたミドゥーロマデュールは強敵だ。それを「残念!、ハズレ~」と嘲笑う為だけに配置しているとは考え難い。そういう場合には最初から堂々と姿を晒し、巨体で、単純に攻撃力も防御力もHPも高い持久戦型を用いる。
苦労して倒した後に、その事実を突き付けられた時の精神的なダメージは効果抜群だからだ。
そう考えれば、此処は特別な採取物が有る場所、或いは、レアな固有モンスターの固定出現の場所。その辺りの可能性が考えられるが……何も無い。
【鑑定】でも特に気になる情報は得られない。
「──となると、隠してある、か……」
ダンジョンには“隠し要素”が有る事が多い。
どんな物かは様々だが、何でもかんでも見抜ける壊れ仕様な【鑑定】ではない事からしても調べれば判る様に考えられている。
【鑑定】を使わなければ発見不可能な物は無く、観察力・思考力・判断力が有れば、見付けられる。そういう風になっている為、初心者でも発見出来る可能性が有ったりもする。
尤も、殆どは実力が無ければ其処まで到達する事自体が難しいし、運の良し悪しまで絡んでくる為、簡単ではない。調べるにしてもダンジョンの中だ。常にモンスターを警戒する必要も有る以上、危険を冒してまで探す冒険者は居ない。それ故に、発見は運任せだと言われたりする。
「──っ!、コレか?」
無数に立ち並ぶ永久結氷の木々の中、一本にだけ葉が無い枝を持った木が有った。
それは全てではなく、小枝が一つだけなのだが。木々は植物ではなく、造形物なので、意図的に造る事が無ければ、他と差が有るのは稀な事。
その小枝を握ってみれば僅かに動いた。バイクのアクセルハンドルを回す様に捻れば、カチッ、と。音を立てて固定され、視界の奥に見える壁の一部が音も無く消えて、隠されていた道が現れた。
緩やかに下る階段。此処に入って来てから初めて目にする馴染みの有る人工物。
違和感と共に、納得もする。
2分程下った先に出たのは小さな小部屋。一辺が2メートル程の正立方体の空間の中央には、存在を隠すつもりも無く鎮座する宝箱。
振り返ってみると、下りてきた階段は消えて壁に変わっているが、予想通りに一方通行だっただけで焦ったり慌てたりする様な事は無い。
【鑑定】【罠感知】と使って宝箱をチェックして安全な事を確認してから開ける。
中に入っていたのは、古い羊皮紙を丸めて麻紐で縛っただけの様な物が一つだけ。
だが、それを見たウルラトは驚き、目を見開く。大した価値も無さそうな見た目とは逆に、指折りの稀少価値を誇る逸品、“技能書”。
その名の通り、使用した者は封じ込められているスキルを獲得出来るアイテム。スキルにも由るが、その価値は一つで数年は遊んで暮らせる程。
そして、ジョブに就く以外でスキルを獲得出来る数少ない方法であり、唯一リスクが無い方法。
【鑑定】を使える今、どんなスキルが獲得出来るのかも判る為、誰かに知られる心配も無い。
ウルラトは直ぐに【鑑定】を使用する。
「──っ!?、こうなってくると俺の運が良いのか、彼女の運が良いのか、悩ましい所だな……」
封じ込められているスキルは【直感】。今現在、ウルラトが最も欲しているユニークスキルであり、獲得方法の無い先天性のスキル。
異世界からされた時や、生まれながらに持つしか獲得方法の無いとされるスキルの一つ。それだけに手にしたスキルスクロールの価値は桁外れになる。勿論、売ったりはせずに即使用し、獲得するが。
ウルラトは自分の運よりも、シャルリィルの運が自分を巻き込み、導いている様に思えてしまう。
それこそ、勇者に対する強制力の様に。
【直感】を獲得し、目の前に有る水面へと潜り、そのまま進んで行く。すると、道が二つに分かれた場所に出たので地図を確認。背後を振り返った所、進んで来た通路が消えている事から、本線に戻ったと判断し、先へと進む方へと泳ぎ出す。
早速、【直感】も役に立った。
進んで行って抜けた先には、正面に壁が有った。頭上を見上げれば蓋をする様に壁の先が繋がって、端の方に水面が見えた。
顔を出して──即座に水中に戻る。
今しがた頭を出していた場所を、何かが通過し、壁に当たって砕けた破片が水中に落下してきた為、安全地帯の地面の下に避難する。
水上の様子は一瞬しか見えなかったが、ウルラトにはそれで十分。簡単に状況は把握した。
球状の空間、その下半分を仕切る様に壁が有り、その上に円形の陸地が傘の様に広がる。出口となる水面は陸地の外周部に円を描く様に1メートル程の幅で存在しているが、反対側へは中央の陸地を通らなければ行けない。空間を仕切る壁が端は天井まで延びている為だ。
つまり、中央突破の強制。
そして、その陸地の中央には蛸の様な石像砲台が鎮座していた。見た感じは固定型の旋回式。移動が可能なら迫ってきた筈。勿論、接近したり、中央を越えた場合には動き出すかもしれないが。
恐らくは、倒さないと反対側の水中に潜っても、先に続く道が存在しない可能性も考えられる。
そうなると、最初から撃破してしまう方が手間が掛からなくて済む。
そう考えると、ウルラトは底まで潜り──加速。外壁に向かって飛び出すと、壁を蹴って跳弾の様に速度を殺さずに方向転換。直線軌道の砲撃を躱し、一気に肉薄して次弾を撃たれる前に一撃で破壊。
今のウルラトにとっては相手や場所や状況を見て攻略法を模索する事でさえ不要に思える力業。
ウルラト自身、「楽ではあるんだがなぁ……」と自分の手を見ながら複雑そうな顔をする。
反対側の水に飛び下り、通路に入り、進む。
──と、4分程進んだ所で【直感】が急に反応。泳ぎを止め、周辺を探ってみた所、短剣でも刺した様な細く小さな亀裂を壁に見付けたので、亀裂へと短剣を突き刺して見れば、壁が崩れて道が現れる。隠し通路の発見に【直感】を誉め、感謝する。
その先を進んで行くと、【遊泳自在】を無視して急に流れに吸い込まれてしまうが、【呼吸不要】は有効なままの為、慌てず焦らず体勢を整える。
そして、程無くして滝の上から放り出される形で滝壺へと落とされた。
その際に見えた景色。少し離れた所に永久結氷の草花と同じ様に見える、しかし、揺れている花畑を見付け、即座に【遠見】と【鑑定】で確認したので間違い無い。
それが探していたツークプリナンだった。
けれど、ウルラトは直ぐには動かず、滝壺の中に留まり、しっかりと考える。
パッと見た感じでは直径30メートル程の空間。ドーム状で中央は天井まで高く、障害物も遮蔽物も多くは見当たらなかった。
そんな空間の中央に群生地は有る。
範囲としては直径3メートル程。群生地と言うと大袈裟かもしれないが、此処にしか自生しないなら群生地と言っても間違いではない。
ウルラトが慎重になるのは、恐らくは番人となるモンスターが存在している筈だから。
その番人との戦闘で、万が一にも荒らされる事になってしまっては悔やみ切れない。
だから、現状で考えられる出現場所を絞り込み、最速最短の一撃必殺で倒す為に準備をする。
結果から言えば、瞬殺。群生地から滝壺を挟んで真反対に有った永久結氷の岩山を飛び散らせながら出現した氷獄巨猿“リグスタクコルン”だったが、登場の咆哮を断末魔にして消滅。岩山の破片も花に届く事すら無く、全て弾き返された。
客観的に見ると、可哀想になる位に。
「……やはり、簡単には手に入らない代物だな」
手にしたツークプリナンを【鑑定】すれば、より詳細な情報が開示される。それによれば、主であるリグスタクコルンを早く倒さなければ暴れまわって荒らしてしまう為、入手が難しくなる、という事。加えて、一度採取したり、痛んだりすると再生には数年の時を要するらしい。
ウルラトの懸念が当たっていた訳だが。そういう経験が有った訳ではなく、過去の冒険者達の残した情報を軽んじず、真摯に受け止めていた為。
先人達が遺してくれた道標は無意味ではない。
ウルラトは半分程を採取し、後は残す。摘み方も疎らにする事で再生し易い様に考えて。
そして、最短で脱出する為に【ワープ】を使ってニンコマョハホ付近へと飛ぼうとする。行き先には制限が有るが、使用場所に制限は無いので。
──が、【ワープ】が発動しない。
その理由を直ぐに理解するウルラト。ダンジョンによっては使用禁止の場所も有る。此処も、そうらしい。
諦めてウルラトは出口を探す。入ってきた滝から遡る事は出来無いし、滝壺の底も滝の裏もハズレ。見付けたのは、滝から続く流れを追った先。地下へと流れ込んでいる流れ。
嫌な事に、思い浮かんだ予想を【直感】が肯定。ウルラトは溜め息を吐き、その流れに身を任せた。
アスィヴェリ氷雪連峰から海に注ぐ水流の一つに乗った形で、海に向かって、ペッ!、と放り出され海中へと沈む。寄って来たモンスターを蹴散らすと断崖絶壁を一気に登ってニンコマョハホに向かって全力で走る。
【ワープ】を使ってもいいが、ウルラトの脚なら全力疾走すれば1時間程で着ける。その位であれば許容範囲内だと【直感】も太鼓判を押している為、使わないで走る事にした。
ちゃんと、助けた後の事も考えて、である。
ア・クァーシャ・トラに戻ったウルラトは直ぐにツークプリナンと他十数点の材料を調合し、出来た秘薬“クァーリ”をシャルリィルに飲ませる。
口移しだったのは、用法の為。
決して、どさくさに紛れた淫行ではない。
その効果は覿面の一言に尽きる。ネヴェスァレが抑え込んでいたとは言え、僅かずつでも侵食されるシャルリィルの身体が、一瞬で綺麗になったのだ。それを見ていたネヴェスァレも思わず「何よコレ、こんなの反則じゃない」と言いたくなった程だ。
ずっと付いていてくれたネヴェスァレを労うと、眠るシャルリィルの側にはウルラトが付く。
想定よりも早いウルラトの帰還だった為、然程は消耗はしていないが、疲労していない訳ではない。自身の仕事も有る為、ネヴェスァレは素直に交代し頑張った御褒美は後日、貰う事にする。
苦しんだシャルリィルには悪いがタダで動く程、世の中というのは甘くも優しくもないのだから。
交代したウルラトは【鑑定】で確認し、大丈夫と判ってはいるのだが、目撃証言作りの為に経過観察という尤もらしい言動をする。
目覚め、数日間様子を見れば、シャルリィルとも御別れ、勇者の元へと戻る事になる。
様子見の間に一旦離れれば、シャルリィルの方が先にニンコマョハホを立つ事も考えられる。
つまり、この看病しているかの様に見える姿勢が自分を守る為にも意味を持つと言えるのだから。
翌朝、シャルリィルは無事に目覚めて、消耗した体力の回復の為、御腹が元気に催促をした。
それを見て、ウルラトも安心した様に振る舞い、その日の昼食ではネヴェスァレが作った例の料理を食べる事となった。ただ、あの材料で何故、透明なゼリーの様な料理になるのかは理解が出来無いし、表現の難しい美味さだった事も意味が判らないが、深くは考えず、夜には頑張ったネヴェスァレに沢山御褒美を出したのは余談である。
その次の一日もシャルリィルの様子を見てから、ウルラトはカノラース永氷洞に再挑戦。間を空けて改めて来てもいいのだが、うっかり誰かと会わない様にする意図も有っての事。
四日を掛けて、じっくりと攻略。当然、完全制覇だった事は言うまでも無い。
そのまま何処かに行ってしまっても冒険者という生業をしていれば珍しくもないが、ネヴェスァレを始めとした色々と世話になった人達に挨拶もせずに去る事は出来ず、ニンコマョハホに戻った。
言わずもがな、丸一日を御礼に費やす。何方等が御礼をして受け取るのか。そんな事を一々気にするウルラトではない。考えれば何も出来無くなる事を経験して知っているのだから。
そして、ニンコマョハホを発つ日の朝。
ウルラトの目の前には良い笑顔のシャルリィルが存在感を隠しもせずに立ち塞がっていた。
ウルラトは記憶を手繰り一昨日の事を思い出す。確か、ネヴェスァレに確認した所、シャルリィルはチェックアウトし、ニンコマョハホからも去った、と聞いた筈。いや、冒険者ギルドの情報でもだ。
加えて、シャルリィルから預かった御礼の手紙と報酬の代わりではないが舊亀の紅玉をネヴェスァレから受け取った。
ウルラトでなくても、別れを確信するだろう。
一日挟んでいる事も地味に効いている。
ウルラトは無視しくなるが、出来無いと判る故に意を決して口を開く。
急激に口の中が渇いた気がするが。
「……何故、此処に?」
「ウルラト様に御礼をする為です」
「礼なら手紙と共に受け取ったが?」
「あの程度では釣り合いません
如何に依頼ではなく、ウルラト様の善意だとしても私自身が納得が出来ません
ですから、この命を助けて頂いた分、ウルラト様に御仕えして御返しさせて頂きたいのです」
「そういう事なら、聖女としての使命を果たす事で俺個人ではなく、広く世の中に返してくれ
その方が俺としても嬉しいからな」
「よし、上手い事、話を逸らせたな」と心の中で自画自賛の拍手と勝利宣言をするウルラト。
そんなウルラトの言葉にシャルリィルは眩しさを自重しない真っ直ぐな眼差しと心で見詰めながら、尊敬と信仰を持って歓喜の微笑みを浮かべる。
「嗚呼、何と素晴らしい御考えなのでしょう……
やはり、私の目に狂いは有りません
ウルラト様、不束者ですが宜しく御願い致します」
「──ちょっと待て、命の危機を脱した今、御前は勇者の元に戻るのではなかったのか?」
「……?、その様な事は一言も申し上げてはいないと思うのですが?」
そう小首を傾げるシャルリィルに言われて記憶の糸を手繰ってみるが──確かに、そんな発言は一度足りともしていない。それはウルラトの希望であり勝手な思い込みでしかなかった。
そして、何かを言えば言う程に、ウルラトは自ら墓穴を掘っている気がしてならない。
その為、黙ってしまったっただけだが、そうとは知らないシャルリィルは自ら疑問に回答を出す。
「確かに聖女は勇者様を御支えするのが使命です
その為だけに存在している、と言っても間違いでは有りません
ですが、当代の聖女が皆、常に己が使命を果たせる状態に有るかと言えば、それは難しい事です
聖女と言えども一生命、生き物としては皆様と同じですから、常に万全では居られません
勿論、その為の努力は惜しみませんが
それでも、どうしようもない事は有ります」
「私の様に」と続く言葉は飲み込む。何故なら、シャルリィル自身が誰よりも理解しているから。
ウルラトに出逢わなければ、ウルラトでなければ今こうして自分が生きている事は無かった、と。
「ですから、どうしても勇者様の元を離れなくてはならなくなる場合を考慮して、聖女には常に予備が存在しています
勇者様御一人に、聖女が一人
その形は不変ですが、その使命を常に果たせる様に聖女の数を揃える為に聖女となる者は勇者様の倍の二十四人が常に存在しています
その為、私が使命から離れるに当たり、担当だった勇者様の元には別の聖女が派遣されて、その使命を引き継いでいます
由って、私が戻る必要は有りません
寧ろ、戻ってしまうと後任となった聖女から使命を奪ってしまう事になりますから……」
「自分の都合で使命を交代したのに、そんな身勝手過ぎる真似は出来無い、か……」
「そういう事ですね」とウルラトの言葉に苦笑を浮かべるシャルリィル。聖女と成る為に生き、聖女として使命を果たす為に生きる。それを知るが故に他の聖女の立場を脅かす真似は出来無い。
──が、それだけではない。シャルリィル自身、そう思っている事に間違いは無いが、ウルラトとの出逢いには自身が担当した二人の勇者と初めて顔を会わせた時とは違う特別な物を感じる。
故に、彼女は考えた。
勇者ではないにも関わらず、これ程の事が出来るウルラトが将来的に勇者に選定される可能性は高いのではないのだろうか、と。
聖女として。その様な事など考えてはならない。新しい勇者が選定されるという事は、当代の勇者の誰かが死去する事を意味するのだから。
しかし、一人の勇者に拘らず、勇者という存在が使命を果たす為に尽くすのが聖女である。
別に勇者の死を望む訳ではなく、先の事を考えて備えておく事も大切だという話。
ただ、考えずには──期待せずにはいられない。近い将来、ウルラトが勇者となる可能性を。
シャルリィルの認識の上では、かなり高いと言う事が出来る。それならば今からウルラトの傍に居て支えるという事は、未来の勇者を支える事と同義。寧ろ、ウルラトに尽くしたい。出来れば子を授かる事が有って欲しい。そうなれば勇者の血を遺す事に繋がるし、聖女としての使命にも連なると言える。
──という訳で私利私欲塗れの建前武装により、シャルリィルは行動していた。
シャルリィルは彼女の言葉を思い出す。
「運が悪いのだとすれば──もう他の男になんて興味も懐かなくなるという事ね」と。
その意味を、これでもかと身に染みて理解した。自分が懐いた想いが、欲求が何であるのかを。
聖女としてのみ生きてきた少女は、ウルラトとの出逢いで女と成った事で知ってしまった。
もう元には戻れない。
だから、進むしかない。
ウルラトの事しか考えられないのだから。
「本部にも事情を説明し、許可を得ています」
そう笑顔で行って退路を潰す。
同時に、ウルラトには判る様に示す。「飽く迄も話したのは恩に報いる為です」と。「断られたら、ショックで口が滑るかもしれません」と。
シァメ真教会の、聖女達の積み重ねてきた歴史が育て上げた最高傑作は、その才能を遺憾無く発揮しウルラトに有無を言わせない様にした。
序でに言えば、新しい勇者にウルラトが選ばれず他の者が勇者となった場合には別の聖女が担当し、ウルラトの場合に限り、シャルリィルが強権を以て担当する事を決めている。他の聖女に邪魔をさせるつもりは微塵も無かったりする。
一方のウルラトは色々と後悔していた。しかし、シャルリィルを見捨てる事は絶対にしなかったが、さっさとネヴェスァレに任せて逃げれば良かった。そう思ってしまうのも仕方が無いだろう。
だが、関わった時点で詰んでいたとも思う。
シャルリィルは聖女だ。しかも、シァメ真教会の勇者厨で有名な最古参で最大派閥の最高傑作。その情報網は無視出来無い。
下手に逃げれば怪しまれるし、手配される。別に犯罪者という訳ではないが。勇者候補として。
そうなると、如何にシャルリィルを誤魔化すか。そうなるのだが………………誤魔化せるのか?。
既に勇者厨聖女の勇者感知力が自分をロックオンしているとしか思えなかった。
それに加えて、気付いた事が有る。
何故、自分の危機に対して【直感】が全く仕事をしなかったのか。
そう疑問に思う──が、そうではないと気付く。単純な話で【直感】は判っていた。だから、無反応という無駄な事をしない結果を選んだだけ。
聖女に見初められた時点で詰み。
この世界の何処に行こうと逃げ切る事は不可能。そういう事なのだろう。嫌な気遣いだが。
「俺が一体何をした……」と頭を抱えたくなるが自業自得でしかなかった。
「ウルラト様、私の全てを御捧げ致します
まだまだ未熟では有りますが一生懸命、誠心誠意、御側にて御奉仕させて頂きます
何卒、宜しく御願い致します」
「……自分が言っている意味を判っているのか?」
「はい、今度はしっかりと」
そう言い切られてしまっては、ウルラトとしては何も言い返す言葉が見付からない──というより、何を言っても無駄だろうから。
以前の様に勘違いで煙に巻く事も無理だろう。
何より、今のシャルリィルの眼差しをウルラトはよく知っている。
それは少女が女と成った眼だ。
だから、本気で拒否するのであれば、指名手配を覚悟で逃げるしかない。当然、冒険者としての活動自体も困難となるだろう。それでは生活出来無い。結果、ウルラトは受け入れるしかなかった。
因みに、もし、本気でウルラトが逃げていたら、指名手配した場合、シァメ真教会はウルラト支持者からの猛抗議と実力行使で下手をすれば壊滅しても可笑しくはなかっただろう。それだけ、ウルラトの味方というのは本人が思う以上なのだから。
因みの因みに、シャルリィルはネヴェスァレからウルラトの女性関係の話を一通り聞いていたりする事は女同士の秘密。
一途で盲目で熱狂的で狂信的でヤンデレだろうとシャルリィルは聖女である。聖女として生きてきて培ってきた観察力や気配り力は失われたりしない。だから、自身が後発の可能を考えればネヴェスァレに配慮する事は当然のマナーだと言えた。
特に、ネヴェスァレとの関係を確認しないまま、関係を持ってしまって血生臭い事態に陥る可能性を想像すれば、そんな事には為らない様にする為に、真面目なシャルリィルが事前に確認をする事は何も可笑しくはない事だと言える。
そして、ネヴェスァレにとっては予想出来ていた結果なので驚きもしない。ウルラトから、若い時に一人の聖女と関係を持った事も聞いていたので。
しかし、シャルリィルの参戦はネヴェスァレにも大歓迎だったりした。ウルラトとの子供を皆が望みながらも膠着状態の現状を打破の為の強力な一撃。それを聖女のシャルリィルならば可能とするのではないだろうか、と期待して。
また、聖女だからこその付加価値も有る。
聖女が最初に妊娠すれば他の誰も文句は言わず、なし崩し的に自分達も妊娠を希望し易くなる。
聖女の使命を知ればこそ、結婚は無いのだから。ウルラトが他の女と何れだけ子供を成していても、優れた男としての一つの世界貢献。大義名分。
そう考え、シャルリィルに協力しつつ、関係各所への連絡と根回しを自ら担う事を決めていた。
こうして、ウルラト包囲網は本人の知らない所で蠢き、大きく動き出しているのだった。
「……判った、そういう事なら覚悟しておけ」
「はい、勿論です」
シャルリィルを受け入れ、ニンコマョハホを共に出発する事にするウルラト。
今の遣り取りにも互いの勘違いが有ったのだが、その事に気付くのは──もう少し先の事である。