イルベルタは明かりを落とした
イルベルタは、詩篇を扱う魔法使いだった。
ほんの数日前までは、詩を読み、そこに宿る美しい魔法を指先で辿り、顧客達の願いを叶えてきた。
ふさふさとした艶やかな金色の巻き毛に、星のかけらのような水色混じりの金色の瞳を持つイルベルタは、いつだって魔法使いの庭園の中のひときわ大きく輝く星の一つで、それを特別なことだと思いはしなかったと思う。
詩篇の魔法を愛していたし、それを扱うのに不自由がないだけの技量があるばかりだと考えていた。
けれどもある日、詩篇の魔法の庭園に背中の曲がった陰気な男がやって来た。
遠い夜が長い戦乱の国からやって来たそうで、ぼそぼそと暗い声で喋るので、仲間達からは夜の声と呼ばれている。
艶のない黒髪は油気こそないが健康そうには見えず、きっとふかふかの泡も立たないような、髪用ではない魔法石鹸で洗っているのだろう。
指先は乾燥していて爪には筋が入っているらしく、それを聞けば、ああ、満足に食事もしてこなかったのだなと一目で知れた。
(ここは美しい所だから、他の魔法の庭園から移り住む魔法使いも多いもの)
きっと夜の声は、元々は戦乱に纏わる魔法を持っていたのだろう。
どうして詩篇の庭園に来たのかは分からないが、何かの詩篇が彼の心を捕らえたのなら、それは喜ばしい事だった。
戦争を少しも宜しくないと思うイルベルタは、かつて、戦場で命を落とした青年の葬儀に出た事があったがとても気が塞いだ。
やはり魔法は、生きている誰かを喜ばせた方がいい。
(そう言えば………)
夜の声が詩篇の庭園に来たばかりの頃、今はすっかり引き籠ってしまっている彼を、偶然見かけたことがある。
夜の憂いと孤独を宿した魔法結晶を入れたランタンを持つ夜の声を見て、成る程、陰気だと言われるのはこのような部分かなと考えたものだ。
とは言え、夜の声はちらりとこちら見てすぐに顔を伏せてしまったので、それ以上に興味を持つことはなかった。
ただ、骨張った大きな手が持つランタンは、悲しげなものばかりを燃やす結晶を入れているくせに、心を震わせるような美しい銀色の光を広げていて、そればかりは、なんて美しいのだろうと思い記憶に残っていたのだ。
「ねぇ、夜の声がまた仕事に失敗したらしいわ。詩篇の魔法使いは優雅さと美しさが自慢なのに、あの男がいるせいで私達の評判が台無しよ。夜の庭に暮らす事にしたみたいだけれど、とは言えあそこも、詩篇の庭園の中なのに」
「でも、最近は見かけなくなったわねぇ。やっぱり、仕事が上手くいかないからかしら」
「そりゃそうだろう。夜の詩篇庭も、よくあの魔法使いを受け入れたものだ」
「まぁ。どうして何度も失敗してしまうのかしら。魔法の腕は悪くないのでしょう?」
不思議に思ってそう尋ねると、仲間達がくすくすと笑い声を上げる。
「ふふ、イルベルタは、少し特別だものね。詩を読んでいて、魂を引っ張られて転んだことなんて、一度もないでしょう?」
「そうね、………確かにそれはないかしら。どんな詩篇も美しくて豊かで、いつだって胸がいっぱいになっている内に終わってしまうわ」
「イルベルタ様は、詩篇の女王だからな。詩篇に振り回されるというよりは、それを統括する声をお持ちだ」
「え、そんな事は思っていないけれど……」
「イルベルタ、今度はどんな詩篇を扱うの?この前の発掘で、西の森から夜明けの詩が見付かったらしいわ」
「…………その時間の座の詩篇が世に出るのは、初めてではなくて?」
「そうそう。だから、みんな興味津々なの。でもきっと、最初に読ませて貰えるのはイルベルタね」
「ああ、間違いない」
魔法使い達は、己の扱う魔法の宿る庭園に暮らしている。
詩篇の庭園、音楽の庭園、食楽の庭園というように。
魔法使いの庭園は、その中に様々な季節や時間の座を有していて、イルベルタが暮らしているのは、詩篇の庭園の中にある、朝日の煌めきが落ちる初夏の庭であった。
とは言え、お客の気分に合わせて秋の夕暮れも使うし、冬の日の午後の庭を歩く事もある。
詩篇の庭園を出て、他の魔法の庭園に出かけてゆくことも少なくはない。
だが、他の魔法使い達の庭を美しいと思いはしても、詩篇の庭程に美しいところはないと考えている。
ただ、食楽の庭はいい匂いがするので、実は少しだけ気になっていた。
(そろそろ、ドレスを仕立て直そうかしら)
仲間達とお喋りしながら、そんな事を考えた。
イルベルタの装いはいつも、裾を引きずるような水色のドレスに、雪のように白いリボン。
魔法使いは皆、それぞれの装いを持っている。
歩くとこつこつと気持ちのいい音を立てる靴は、贔屓にしてくれる客が職人に作らせてくれたもので、その老婦人はいつだって亡くなった夫の面影とダンスを踊る、雨の日の優しい詩篇を好んだ。
また今年も主人と踊らせてくれて嬉しいわと微笑んだ老婦人がとても美しかったので、イルベルタは彼女と会うといつも恋や愛というものについて考える。
(でも、これまでに私に差し出されたものの中には、手に取りたいと思うような手はなかった………)
だからきっと、自分には不要なものなのだろう。
そう思い、さして気にも留めてなかった。
◆
「イルベルタ、君にこの詩集を預けても構わないかい?」
数日後、遺産の魔法の庭園から、そこを治める魔法使い達がやって来た。
イルベルタに詩集を差し出したのは、誰もがよく知る特等の魔法使いで、遺産の庭園のインシャと言えば知らない者はいないだろう。
おとぎ話にも名前の記される魔法使いに声をかけられ、イルベルタは緊張したままこくりと頷いた。
そっと受け取ったのは、夜の庭園の絵を装丁にした手のひらに収まるくらいの小さな本で、遺跡から掘り出された魔法にしては瑞々しく艶やかであった。
「美しい装丁の詩集ですね。この魔法を作った方は、きっとこの詩集を愛していたのでしょう」
「そうなのだ。これは、夜に向ける愛を綴った詩集らしい。今は、収められた魔法はすっかり眠ってしまっているが、これ程までに丁寧に収められた魔法が失われるのはやはり惜しい。どうにかして、詩篇の魔法で生き返らせてやりたいのだが、可能だろうか。詩篇に命を吹き込むことが出来る魔法使いを探していたら、皆が、であればイルベルタだと言うのでな」
「光栄でございます。インシャ様。きっと、この美しい本の中に収められた詩篇を生き返らせてみせますわ」
深々と腰を折りそう告げると、おとぎ話の魔法使いは満足げに頷いて去っていった。
一緒にいたのは彼の弟子達で、ここ三百年ほどは同じ顔ぶれであるらしい。
違う庭で暮らしてはいても、やはり相手は高名な魔法使いである。
詩篇の庭園も豊かだが、遺産の庭園程に高名な魔法使い達ばかりではない。
さすがに階位が違うのでとても緊張していたイルベルタがふぅと息を吐くと、周囲でこの依頼の一幕を見守っていた仲間達がわっと集まってきた。
「凄いわ、イルベルタ!インシャ様からの直接の依頼だなんて!!」
「これが夜明けの詩集かぁ。想像よりずっと美しい装丁なのだね」
「イルベルタ様なら、読み始めるだけで詩篇を生き返らせてしまうでしょう。その本の詩篇達が目を覚ましたら、私にも使えるようになるかしら」
口々に色々なことを言われて困ってしまいながら、イルベルタは淡く微笑む。
(いただいた十日の期間で仕上げなければ。………今日から始めたら、丁寧に詩篇を起こせるかしら)
早く屋敷の工房に戻って、お気に入りの紅茶でも淹れて詩集を開いてみよう。
恋は苦手だが、恋の詩篇は好きだ。
きっと、美しくて優しい夜明けの詩篇達ばかりだろう。
ふと顔を上げると、庭園の奥から歩いてきた夜の声の姿が見えた。
まるで誰かに呼ばれたように顔を上げ、いつもはぼさぼさの髪の毛に隠されている瞳がこちらを見る。
(あ、……………)
それはまるで、あの日見たランタンの光のような、複雑な煌めきを幾重にも重ねた白銀色で、イルベルタは、なぜか息が止まりそうになってしまう。
だが、名前を呼ばれて仲間達の方を見てからもう一度そちらに視線を戻すと、もう夜の声の姿はどこにもなかった。
(…………まるで、冬の夜の祝福のような瞳だった)
瞳の印象が強過ぎて面立ちの記憶はまるでないが、不快だと思わなかったのであれば、普通の顔だったのだろうか。
その日はなぜか気もそぞろになってしまい、イルベルタは、夜明けの詩集の詩篇を起こすのは明日からにして、屋敷に帰る前に買い物をしてゆくことにした。
今日は、夏の夜の庭に暮らす魔法使いが美味しい葡萄酒を売りに出す日なので、お気に入りの一本を買いに行くことにする。
焼き立てのパンも買っておけば、工房にあるチーズはそろそろ食べごろだろう。
友人の伴侶が音楽の魔法の庭園から遊びに来るらしいので、帰りに彼女の家の近くを通れば美しい音楽も楽しめるかもしれない。
そんなことを考えれば、いつだって何も気にならなくなる筈なのに、なぜ、ずっと夜の声の銀色の瞳のことを考えているのだろう。
そう言えば、彼の声は聞いたことがない。
いつか、詩篇を扱う時に近付いてみようか。
そんな考え事をしながら歩いていたせいか、イルベルタは、夏の夜の庭への道を間違えてしまった。
慌てて夜の森を見回したが、今夜は、遺産の庭園の大魔法使いがこちらの庭園に来たばかりなので、浮かれた妖精たちがあちこちで光っていて正しい道が見付けられない。
あっと思った時には、既に手遅れであった。
(ど、どうしよう………?)
イルベルタは詩篇以外の事に興味が薄いせいか、魔法を扱う時には周囲に沢山の仲間が集まるものの、普段は一人でいる事が多い。
なので、意地悪な妖精の多い夏の夜の庭に向かうと決めても、いつものように仲間達と別れて一人で向かってしまっていたが、今夜ばかりは大魔法使いの訪問の影響を考えるべきだったのだ。
夜の森は賑やかだったが、周囲には魔法使いの姿はない。
もしここで妖精達に惑わされても、助けてくれる人はいないだろう。
(詩篇の魔法を使う?)
だが、今のイルベルタは、大事な夜明けの詩集を持っている。
出来るだけ、微睡んでいる詩集を揺さぶりたくないので、それも躊躇われた。
とは言え、ここで意地悪な妖精達に詩集に悪さをされたら元も子もないではないか。
(…………魔法を使いやすい場所を見付けて、それで道を探すしかないわね………)
けれども、すっかり動揺してしまい、せめてもう少しだけ見通しのいいところに行こうと早足で歩いていたイルベルタは、まんまと妖精達の罠にかかってしまったのだ。
「………っ?!」
突然のことだった。
がくんと体が傾き、足を取られたのが薔薇の木の根だと気付き、ぞっとする。
薔薇の木の妖精はとても邪悪で、薔薇の木に転ばされると秘密を一つ奪われてしまうと言う。
弱みさえ見せなければ美しい花を咲かせる木というだけなのだが、ひとたび絡め取られると縁を切るのは難しいのだ。
(…………しまった!!)
血の気が引き、イルベルタは魔法の鞄に入れた大事な詩集を抱き締めた。
今のイルベルタが持つ秘密の最たるものと言えば、この詩集を持っている事に他ならない。
それを奪われるような事があれば、詩篇の庭は大きな瑕疵を作る事になる。
イルベルタが糾弾されるのは当然のこととして、詩篇の魔法使いらしく繊細な気質の者が多い仲間達にもその余波は及ぶだろう。
持ち主が大魔法使いとは言え、妖精達の国に持ち帰られてしまえば取り返しがつかないのだ。
「イルベルタ」
その時だった。
耳元で僅かに掠れたような天鵞絨のような声が響き、誰かの手がしっかりとイルベルタの腕を掴んで体を支えてくれる。
そのままぐっと抱き寄せられると、その誰かの腕の中に収められたイルベルタは驚き過ぎて息を止めた。
「………彼女は私のものだ。木を枯らしたくなければ、悪さをせずに去るといい」
背後から抱き締められているので耳元で聞こえる低くて甘い声にくらくらしていると、その声の主は、思わぬことを言うではないか。
だが、それが薔薇の木の妖精を追い払う為のものだと分かったので、反論はせずにおいた。
すぐさま大きな木が揺れる音がして、真紅の薔薇の花びらがはらはらと降ってくる。
先程まで暗かった道が明るくなったのは、どうやら薔薇の木の妖精が枝葉で月光を遮っていたからのようだ。
よく見ればいつもの道なので、妖精達に目を付けられて迷わされていたのだろう。
「………ありがとう」
安堵に息を吐き、体を捻って振り返る。
先程の声には震える程に潤沢な魔法が込められていたので、通りすがりの高位の魔法使いが助けてくれたのだろう。
そう思って背後の男性の顔を見たイルベルタは、小さく息を呑んだ。
「夜の声………?」
そこにいたのは、夜の声だった。
いつもは前髪に隠されて見えない表情が、これだけ近いとよく見える。
その美しさに驚いていると、銀色の瞳がふっと揺れた。
薔薇の花びらの舞い落ちる夜の森で、少し困ったようにイルベルタを見た夜の声は、けれども淡く微笑むと小さく頷いてくれる。
「すまない。不愉快だっただろう」
「不愉快……?」
「薔薇の木の妖精を追い払うために、君を私のものだと言ったから」
「でも、助けてくれたのでしょう?」
「……………それに、私は夜の庭のものだ。いつも朝の庭にいる君にこんな風に触れてしまい、すまなかった」
「そんな事は気にしていないわ。助けてくれて有難う。それと、名前を知らないから思わず夜の声と呼んでしまったわ。あなたが、嫌でなければいいのだけれど」
イルベルタがそう言えば、夜の声は驚いたようだった。
震える程に美しい銀色の瞳を瞠り、イルベルタを見ている。
「いや。…………構わないさ。森の出口まで案内しようか?」
「いいえ。もう道が分かったから大丈夫。薔薇の木に隠されていたのね。………あなたは、どこに行くの?」
「………夜の庭に住む魔法使いの知り合いに、一緒に葡萄酒を飲まないかと誘われてね。ずっと断っていたのだけれど、そろそろ行ってみようかと思っている」
「………私が知っている人かしら?」
「エルメラだ」
夜の声が名前を出したのは、慈悲深い夜の庭の魔法使いと呼ばれる、魅力的な女性であった。
夜の庭の中では珍しく、いつもにこにこと笑っているような可憐な女性だ。
そして、その名前を聞いたイルベルタは、エルメラならばきっと、夜の声とも仲良くなるだろうと思った。
「……………よく、誘われるの?」
「さぁ。五回目くらいだな。さすがに、断る理由もなくなった。…………まぁ、今夜は月の明るい夜だから誰かと過ごしてもいいだろう」
「……………そう。………では、私も行くわね。気を付けて」
「ああ。もう、転ばないようにな」
少しも背中を丸めておらず、くしゃりと微笑んだ夜の声にそう言われ、イルベルタはよろよろしながら葡萄酒とパンを買って帰った。
けれども翌日に、エルメラが、親しくなったという夜の声のことを仲間達に話している場面に出くわしてしまい、すっかり意気消沈してしまう。
そうなって初めて、あの夜に夜の声が出かけて行くのを引き止めれば良かったと考えた。
「ねぇ、イルベルタ。知っていて?夜の声は、元々は大魔法使いだったのですって。夜が長くて冷たい土地にいたので、最初はこちらの庭園が眩しかったそうよ。そのせいで体調が悪かったみたい」
「……………まぁ。そうだったの」
「エルメラは、前髪を上げると美しいのにと話していたわ。とても物知りで、豊かな声を持っているのですって。名前は、ルーヴェルというそうよ」
「そうなのね………」
「すっかり親しくなってしまったわね。恋人になるのかしら」
「え………」
「まぁ、夜の庭に住む者同士ならお似合いかもしれないな」
イルベルタは、その日から夜明けの詩集を開いたのだが、読んだ詩篇がどれも美しい夜を恋い慕うものばかりだったので、堪らずにぱたんと閉じてしまった。
思い返されるのは、あの銀色の瞳。
美しい天鵞絨のような、甘い声。
(………でも、もうエルメラと仲良くしているのだもの。彼女はいつも朗らかで楽しい人だから、きっとあの人もエルメラの事が大好きになってしまったでしょう………)
先にあの瞳の美しさに気付いたのは、イルベルタだったのに。
だが、夜の声の心を開いたのは、間違いなくエルメラが先だったに違いない。
そんな事をうっかり考えてしまい、はっとした。
閉じた夜明けの詩集の表紙に触れ、小さく溜め息を吐く。
もう、この仕事がまともに出来るとは思えなかった。
詩篇の魔法使いが詩に魂を引っ張られてしまえば、詩篇魔法の本来の輝きは失われる。
美しい詩に心を傾けるのは構わないが、それを受け止めきれずに揺らぐ魔法使いには、詩篇は扱えないのだ。
イルベルタは、すっかり魔法が使えなくなってしまった。
夜の声に、恋をしたのだ。
こちらもまた、気づいた時には手遅れであった。
◆
イルベルタが決心したのは、その二日後である。
仲間達は、イルベルタが一向に詩篇を起こさないことに不安そうにしていたが、まさかイルベルタが魔法を使えなくなったとは思うまい。
心配して声をかけてくれる仲間達には、夜明けの詩集に相応しい工房が必要なのだと伝え、朝の庭の屋敷を手放して夜の庭に小さな屋敷を買い、一通の手紙を一人の魔法使いに届けた。
そして今夜、その答えが出る。
美しい夜だった。
だが、夜明け前になると星が翳り、ぐっと周囲が暗くなる。
ずっと朝の庭に暮らしていたので、こんなに暗いと不安になった。
けれども、意を決したイルベルタは屋敷や工房の全ての明かりを全て落としてしまい、ふくよかな夜の闇の中で夜明けの詩集を開いて、深く深く息を吸う。
(……………ああ、やっぱり)
夜明け前は、真夜中よりも暗いという。
だからこそ、この詩集の中に収められた詩篇達は、イルベルタの明るい屋敷では少しも息を吹き返さなかったのではないだろうか。
とは言え、イルベルタが以前のように魔法を使えたら違ったかもしれないのだが、この詩篇達と同じように夜に焦がれてしまったイルベルタの魔法は、もはや、夜明けの詩篇を起こすには足りなくなっていたのだ。
(…………この魔法達は、こんな暗闇の中から、美しい夜の光を思っていたのね)
「ほら、やはり夜は美しいでしょう?………私はなかなか気付けなかったのに、あなた達はずっとそれを知っていたのだから、私の声では起きてくれなくても仕方ないわね」
きらきらと光り始めた詩篇の魔法にそう話しかけながら、イルベルタは、大事な詩集を手に取ると、後ろに立っていたルーヴェルに渡した。
工房の扉は開けておき、手紙には、招待に応じてくれるのなら中で待っていると書いてあった。
そして彼は、来てくれたのだ。
「………イルベルタ?」
「この詩篇を起こせるのは、きっとあなただと思うの。だから、あなたが読んでくれたら嬉しいわ」
「……………何を言っているんだ。君が任されたものだろう。これがどれだけ貴重な機会と魔法なのかは、私にも分かる。………まさかとは思うが、その為に私をここに呼んだのか」
「でも、もうあなたにしか読めないわ。………だって私はもう、明かりを落としてしまったもの」
「ランタンの魔法なら…」
「そうではなくて、この夜こそが美しいと、そう思ってしまったの。…………だからもう、夜明けが近付く中で夜の美しさを惜しんでそれに焦がれる詩篇は、私には読めない。……………私が一番美しいと思う夜は、あなただから、どうしても自分を重ねて詩篇に躓いてしまうの」
手紙には招待の理由は、書かなかった。
来てくれたら話すと書いたので、こうして真っ先に伝えるのが礼儀だろう。
今夜はエルメラも声をかけていたのを知っていたから、来てくれるかどうかは賭けだった。
でも、来てくれたなら、どんな結果になってもいいから自分の思いを伝え、一番相応しいと思う人にこそ、この詩集を預けようと思った。
しかし、イルベルタなりにこの思いを精一杯伝えたつもりなのに、ルーヴェルは何も言ってくれない。
途方に暮れたイルベルタがその顔を覗き込もうにも、この暗さでは、僅かな夜明かりを映した瞳くらいしか見えないではないか。
「………ルーヴェル?………その、嫌だったらごめんなさい」
「……………いや。想像もしていなかったことを言われて驚いたんだ。君が屋敷に招待してくれたことも、正直、まだ驚いている………」
「だって、今夜こそ引き止めなければ、あなたはまた、エルメラと葡萄酒を飲むでしょう?」
言ってしまってからしまったと思ったが、一度口にした言葉は取り戻せない。
これでは、エルメラに嫉妬したのだと言うようなものではないか。
「……………成る程」
「え、そこで黙らないでちょうだい。な、何か言って!!」
「薔薇の木に躓くだけあって、迂闊な人だなと思っていたんだ。………そんな事を言ってしまうと、取り返しがつかないかもしれない」
「………みんなに言いふらす?」
「まさか。…………ただ、夜の庭の魔法使いは、独占欲が強いんだ。例えば、私が元々君に恋をしていたとしたら?」
「………私に、恋をしているの?」
呆然として問い返すと、ルーヴェルが微笑む気配がした。
「かもしれない。もし私が、どこかの遠い戦場で、君の声に惹かれ、飽き飽きとしていた戦場の夜の庭を捨ててここに来たと言ったら?」
「………それは、私なのかしら。………戦場に行った事はないの」
「二年前の晩秋の日に、どこかの国の大聖堂で、鎮魂の詩篇の魔法を使っただろう」
その仕事には、覚えがあった。
亡くなったのは詩を愛していた青年で、彼の両親がイルベルタを葬儀に招いたのだ。
イルベルタは、若くしてこの世を去った可哀想な青年の為に、彼の愛した雨垂れとピアノの詩を読んだ。
「…………あの場にいたの?」
問いかけた先で揺れたのは、僅かな苦笑だろうか。
どこか投げやりで、けれども深い情熱を秘めた微笑みに、イルベルタの胸が小さな音を立てる。
「君の魔法が大聖堂にきらきらと光る雨を降らせるのを見て、私はその声に恋をした。…………とは言え、君をこちらの庭に呼び込むのはあまりにも惨いことだろう。だから、私が詩篇の庭園に移り住んだんだ」
「でも、あなたは会いにも来なかったわ」
「………そうだな。こちらに移り住んだばかりの頃は、とにかく体調が悪かった。君の暮らしている庭は、夜の時間の庭でしか生きて来なかった私にはどうしても合わなかったんだ。そんな有様だから、仕事の一つもまともにこなせない。君に求婚しようと思っていたが、諦めざるを得なかった。………今夜まではね」
それはまるで、美しい詩篇の魔法のようだった。
イルベルタは胸を押さえようとして、まだ手に大事な詩集を持っていることを思い出す。
同じ夜に焦がれた者がいるからか、詩集はうっとりとするような美しい魔法の光を帯びていた。
「……………まずは、恋人にしてくれるのではなくて?」
「まずは、そこからだろうか」
「そうだと思うわ。でも、………求婚もしてくれて構わないと思う。………エルメラは強敵ですもの」
イルベルタが小さな声でぼそぼそと付け加えると、一拍の間の後、ルーヴェルが声を上げて笑った。
天鵞絨のような美しい声にすっかり蕩かされてしまいながら、イルベルタは、詩篇の庭に来たばかりの頃のルーヴェルが俯いてばかりいた理由が分かったような気がした。
(彼は、エルメラに、顔を上げられなかったのは詩篇の庭があまりにも美しかったからだと言ったらしい。…………ええ、そうね。あまりにも美しくて心を奪われてしまうと、真っ直ぐに顔を上げて見つめるのが怖くなるのだわ………)
でも、手を伸ばしてくれるのなら、真っ直ぐに見つめてもいいかもしれない。
「では、求婚もしよう。それでも、この詩篇は私に読んで欲しいのかい?………君が読んでも、きっと起こせるだろうに」
「あなたの声で読んで欲しいの。………こんなに美しい夜だもの」
そう言えば、ルーヴェルはすっと身を屈めてイルベルタに口づけを一つ落とし、呆然と立ち竦むイルベルタの手から詩集を受け取る。
「さて、読み始めるよ」
「……………ま、待って。今は詩篇どころではないわ」
「おや、それは困ったね」
「……………あなた、さては悪い魔法使いね?!」
「かもしれない。けれども、とても幸せな魔法使いだろう。やっとの思いで、目が眩む程に美しい詩篇の庭の星を手に入れられたのだから」
やがて夜明け前の優美な闇の中に響いたのは、それはそれは美しい声だった。
目を覚ました詩篇はルーヴェルの瞳のような艶やかな銀色の光を纏い、やがて詩集を引き取りに来たインシャを始めとした遺産の魔法使い達をとても喜ばせた。
自らの才に溺れずに相応しい魔法使いに仕事を任せたということで、イルベルタも思わぬ評価を得られたのは、幸いだったのだろう。
ルーヴェルを見たインシャが、やけに青ざめてさかんに瞬きをしていたのが不思議だったが、二人で並んで遺産の魔法使い達を見送る。
そんな二人を取り巻く詩篇の庭の仲間達は、かつては眉を顰めて噂していた事は忘れてしまったのか、夜の声の詩篇魔法を見てみたいと、楽しげにお喋りしていた。
なお、とある夜の庭に暮らす詩篇の魔法使いからは、ルーヴェルは絶対に渡さないという恐ろしい手紙が届いた。
「大変だわ。私は、エルメラが本気を出したら勝てる気がしないの。彼女はとても魅力的なのよ!」
「おや。それで私の魔法使いは、困っているのかい?」
かねてからエルメラを恐れていたイルベルタは震え上がり、慌ててルーヴェルに婚約期間を切り上げるように訴え、にっこり微笑んだ夜の声の魔法使いをご機嫌にさせたのだった。